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第2話

佐理は箒を土塀に立てかけると、ふぅと肩で息をついた。  昨日の禊ぎで出仕しなかった分、今日は仕事が倍だ。父と同じ宮内省は掃部寮(かもんりょう)で働く佐理の仕事は大内裏(だいだいり)の掃除だった。  日が昇ったあとでも、空には夜においてけぼりにされたような薄い月が浮かんでいる。 「明月幾時よりか有る(明月はいつから空に出ているのだろうか?)」  佐理は蘇軾(そしょく)の水調歌頭を詠む。  和歌や漢詩文が好きな佐理は、本当は大学に進み文章道(もんじょうどう)を極めたかったのだが、そういうことができるのは上流貴族の息子たちだけだった。よって佐理の教養の深さは全て独学だった。 「佐理」  清友(きよとも)が豊楽院(ぶらくいん)に続く回廊から手招きをしている。  苅野(かりの)清友は佐理と同じ掃部寮で働く下流貴族で、歳は佐理より三つ上だった。下流は下流でも苅野氏は瀬央氏のように困窮しているわけではなく、清友は何かと佐理によくしてくれていた。  武芸が得意な清友は以前から近衛兵になりたがっていたが、家柄や官位の低さでそれが叶わないでいた。 「さっき雑仕女(ぞうしめ)からもらったんだ。少ししかないけど一緒に食べよう」  清友の手にはあまづらをかけた削り氷があった。冬にできた氷を山の氷室で保管したそれはとても貴重で高価なため、金持ちの貴族しか口にできない食べ物だった。  二人が豊楽院の御階(みはし)に腰掛け、削り氷を分け合って食べていると、黒い束帯に身を包んだ殿上人(てんじょうびと)の男たち三人が廊下の向こうからやってきた。  真ん中にいるのは小納言だった。彼ら殿上人は朝廷行事に携わる様々な業務についている。殿上人とは帝の住む清涼殿に上がることができる、中流貴族以上の者たちを呼ぶ。 「これはこれはどこぞの下人かと思いきや、瀬央殿と苅野殿ではございませぬか。いつも仲のよろしいことで。瀬央殿の男嫌いは有名ですが、苅野殿は特別とみえる。いっそのこと花月の契りでも交わしたらいかがですか」  そう言いながら扇(おうぎ)を口元でひらつかせる小納言の歯並びはひどく悪かった。 「俺と佐理はそんな関係ではない」  清友は小納言とは目も合わせずに怒ったように言い捨てた。 「瀬央殿、フラれてしまいましたねぇ。そうだ、僕の知り合いでそれほど身分は高くないが、まあまあの小金持ちで、若い花の男を探している老男がいるが瀬央殿にご紹介いたしましょうか」 「いい加減にしないか、佐理が大の花月嫌いなのは知っているだろう」  佐理の代わりに清友が応える。その声はさっきよりもさらに怒気を含んでいた。 「ですが、瀬央殿はそんなことを言ってる場合ではないのでは?」  言い返そうとする清友の狩衣の裾を佐理は引っ張り、浅くかぶりを振る。  小納言の言う通りだった。裕福な上流貴族は優雅に恋愛を楽しみながら結婚相手を探すこともできようが、それ以外の貴族たちにとって結婚は出世と財力の向上を図る絶好のチャンスとして捉えるのが普通だった。  幸か不幸か、佐理の両親は佐理と高子にそのような結婚を無理強いしようとはせず今日まできているのだが、いよいよそうは言っていられないのが現実だった。  実際に今まで佐理は、佐理より官位が上の貴族の男たちに花月の契りを申し込まれたことがあった。男嫌いの高子を嫌々男と結婚させるぐらいなら、自分が男と結婚しようかと思ったこともあるが、どうしてもできなかった。  子どもを成さない花月の契りを結ぶのは、本人同士が深く愛し合っているか、そうでない場合は好色の延長の聞こえのいい身売りだった。家柄に差があればあるほど、後者の意味合いが強くなった。 「必要とあらばいつでも声をかけてくれ。それでもいよいよ困った時は、僕の五人目の愛人にしてあげてもよいですよ」 「だから佐理は花月の趣味はないと!」 「もういいよ清友」  小納言は高笑いを残してその場を立ち去った。 「畜生あいつ、佐理から相手にされなかったことを未だに根に持ってやがるな」  男好きで有名な小納言から佐理は以前に何度も恋文をもらったことがあった。花月趣味のない佐理は、その度に小納言を怒らせないよう気をつかった断りの文を贈った。  清友は、佐理の見事な返信の和歌も小納言の気に障ったのだろうと言う。こうなっては佐理の教養の深さもが鼻につくのだ。  小納言以外にも、似たようなことで佐理に意地悪をしてくる男たちが何人かいた。  成人した女たちは普段滅多なことでは男たちにその姿を晒すことはない。それ故に、近くに見目麗しい佐理のような男子がいると、本来は花月の趣味がない者でも群がってきた。  佐理が落ちぶれ下流貴族であるために、佐理に断られると男たちはプライドを傷つけられひどく気分を害した。  可愛さ余って憎さ百倍ではないが、佐理にフラれた男たちの佐理へのいじめはネチネチと陰湿だった。衣を汚されたり履き物を隠されたり、そして今日のような言葉攻めと、佐理を見かけるたびに男たちは執拗に佐理をいじめ抜いた。  それもあって佐理は花月の趣味のある男はもとより、すっかり男全般が苦手になってしまった。  佐理の男嫌い、花月嫌いが皆に知れ渡るようになって、佐理に言い寄ってくる男は減ったが、小納言は昔佐理に振られたことを未だに根に持ち、ネチネチと虐めてくる。  それは小納言に限ったことではなく、そうして佐理の男嫌い、花月嫌いはますます酷くなるのだった。  そんな中で清友は佐理の数少ない男友達の一人である。もし清友がいなかったら佐理はとっくに耐えられなくなっていたか、下手したら乱闘騒ぎを起こしていたかもしれない。  自分より身分の高い、ましてや殿上人と喧嘩をするなどもってのほかで、もしそんなことをしてしまったら、瀬央氏の存続に関わる大問題になってしまう。 「仕方がないよ、私は落ちぶれ貧乏下流貴族だから、人々の扱いなんてそんなものだよ」  清友は何か言いたそうにしていたが、薄い唇を噛み締め黙った。  佐理の言う通りだったからである。この世界で身分の差を超えて対等な関係などありえないのである。

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