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第14話
――光る君 君とふりし夢のごときは終はりけり 今 天と地の分かれ 別れの時きためり
(光る君よ、あなたと過ごした夢のような時間は終わってしまいました。今、天と地が分かれるようにお別れの時がきたようです)
佐理は恋の終わりを花言葉に持つ秋桜に文を結ぶと、小君を呼んだ。
「小君、高子からの最後の文を中将様に届けておくれ。そうしてもうここに戻ってきてはいけないよ。今までありがとう」
「どういうことですか? 佐理様」
小君は目をぱちくりさせながら、それでも何が起きようとしているのか察したのだろう、みるみるその目が赤くうるんでくる。
「ダメです、そんなのダメです。中将様は高子様が大好きなんです。高子様は中将様がお嫌いなんですか?」
中将が好きなのは女の高子で男の佐理ではない。中将は幻に恋したのだ。
佐理は小君の頭を優しく撫でた。幼い小君の髪はその肌と同じように絹糸のように頼りなく柔らかい。
「さぁ、行って小君」
「嫌です、そんな文は届けません。絶対に届けません」
小君は柱にしがみつき、声を上げて泣き出した。家の奥から何事かと両親と高子が出てくる。
昨晩、三人には佐理の決意を伝えていた。三人とも最初こそ中将からの貢物に大喜びをしていたが、まさかここまで中将が高子になりすました佐理に夢中になるとは思わなかったのだろう。これ以上はさすがにまずいと思い始めていたようだった。
いくら紳士的な中将とて、若い男だ。好きな女を前にいつまで理性を保っていられるか。
中将を本気にさせればさせるほど、嘘がバレた時の中将の怒りも大きくなる。
特に佐理の母はそのことを心配していて、さりげなくそろそろ中将と会うのは止めた方がいいのではないか、というようなことをほのめかしてきていた。
それを無視して中将に会い続けたのは、ひとえに佐理が中将と会いたかったからなのだ。
最初は家族のためだと思っていた。が、途中からそれは自分への言い訳になり、最後は家族を危険に晒すことになってしまった。
恋とはこんなにも人を我儘で愚かにさせるものなのか。
泣きじゃくる小君を母と高子がなだめるのを横目に佐理が自室へ戻ろうとすると、小君が佐理に走り寄って来た。
「佐理様、佐理様、お願いです」
佐理の衣の裾にすがって離れない。
結局その日はどうにもならず、小君は佐理の衣を掴んだまま、泣き疲れて寝てしまった。
その小さな手を開かせて、父は小君を抱えて床へと運んでいった。
「それにしても変ねぇ。小君はなんで高子にじゃなく佐理にあんなにすがったのかしらねぇ、もしかしたら」
母のその先の言葉を佐理は遮る。
「瀬央の一家の長は父上ですが、この件に関しては私に決断権があると思っているのでしょう。いつも私が小君に文を渡したり、中将への言付けを頼んだりしていましたから」
佐理は自分に言い聞かせる。
小君は佐理が高子の振りをしていることは知らないはずだ。万が一、小君がそれを知っていたとしたら、中将にそのことが伝わらないはずがない。嘘がバレて花月嫌いの中将が黙っているはずがない。
次の朝、小君は父に背負われて瀬央の家を後にした。
中将と佐理の恋文を運んでくれた小さな向日葵のような小君。その幼い背中が遠ざかって行くのを見つめながら、佐理は何度も「やはり行くな」と、小君と小君に託した中将への最後の文を取り返したい衝動に駆られた。
両足で地面を踏み締め、両手を痛いほど握り締め、奥歯を噛み締め、佐理はひたすらその衝動を抑えた。
小君が中将の元へと帰って行ったその同じ日、佐理は母方の遠縁が住む伊勢へと旅立った。
中将が佐理会いたさに瀬央の家に押し入ってくる事を予想してのことだった。
君子である中将がそんな無骨な行動を取るとは想像しにくかったが、あれほど熱烈に佐理に愛情をぶつけてきていたのだ。佐理からの一方的な別れをそうやすやすと受け入れるとは思えなかった。
中将はきっと佐理を探し回るに違いない。身を隠すのなら同じ京ではなく、いっそのことずっと遠く離れたところにと、佐理は伊勢を選んだのだった。
伊勢に旅立つ前日の夜、佐理の部屋に高子がやって来た。
「お兄様、本当によろしいの?」
読んでいた書物から佐理は顔を上げる。
「なに、伊勢に行くといってもずっとじゃない。それに前から一度、伊勢の神宮に参りたいと思っていたんだ」
「そうじゃなくて、近衛中将様のこと」
「なんだそっちか。いいも悪いも、そろそろ潮時だろう」
「本当はお兄様、中将様とお別れしたくなかったんじゃないの?」
「そりゃ、中将様は博識で話していてとても楽しかったけど」
佐理の心を見透かすような高子の視線から佐理は目を逸らす。
高子は少し寂しそうな顔をして、それ以上は追求してこなかった。
「お兄様、どうかお体には気をつけて」
去り際、高子は背中を向けたまま呟くように言った。
「中将様が花月を嗜む(たしな)お方でしたらよかったのにね」
高子も、そして両親もきっとうっすらと気づいているのだ。佐理の中将への気持ちを。
佐理は長いこと部屋の御簾を眺めていた。
ところどころ足された新しい葦が模様のように見える。中将の初めての訪問に備えて家族総出で家中をきれいにした日のことが、まるで昨日のことのように思えた。
十六夜の君。
今にも御簾の向こうから、中将の声が聞こえてくるようだった。
佐理はゆっくりとした瞬きを合図に心に蓋をすると、伊勢への荷物の中に高麗笛を入れた。
観月の宴の夜、佐理を覆い隠したあの伽羅の香りが残る羽織に包んで。
これくらいの思い出は持って行ってもいいだろう。
でなければ淋しすぎる。
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