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第19話

宴の帰り道、叔父はすこぶる上機嫌だった。 「佐理よ、本当に恩に着る」  それまでなんとなく小納言にならって叔父を冷遇していた貴族たちの態度が今日で一変したのだ。これで小納言も叔父への嫌がらせを止めるだろう。  が、そもそもその原因は佐理にあるのだ。 「そんな恩に着るなんて、やめてください」  小納言と花月絡みのいざこざがあったなど恥ずかしくて叔父には言えない佐理は、そう呟くだけだった。 「私は少し酔いを覚ましたいので、叔父さんは先に帰っててください」  あのあと佐理は周りの人に散々酒を勧められ、酒があまり強くない佐理の足元はふらついていた。  叔父と別れると佐理は五十鈴川にやって来た。  水面を白い月が照らしている。吹く風は少し冷たかったが火照った身体には心地よく感じる。  佐理は川のほとりに腰かけ、清らかな水音に耳を傾ける。ときどき魚が身を踊らせるようにして水面を跳ねた。  佐理の頭の中は勅使のことでいっぱいだった。  能面をつけていたので顔は全く分からなかったが、どことなく漂う雰囲気が中将に似ていた。  京を出て以来、記憶から消そう消そうとしている中将のその面影を、今日、はっきりと目にしてしまったようで、佐理の中将への恋心が切なく疼いた。  佐理は懐に忍ばせていた高麗笛を取り出すと口に当てた。  鳥のさえずりのような笛の音が川面に滑り出る。  中将と初めて御簾越しに会った日、二人は夜通し笛を奏でた。  中将の笛は佐理を誘うようにリードしたり、かと思えば佐理を抱擁するように寄り添ってきたりした。  無邪気に戯れるようなそれは、出会いの喜びに打ち震えていた。  今、佐理の笛はただ一人、川のせせらぎだけを友に寂しく河原に響く。  今までも、そしてこれから先も口にすることができない佐理の中将への想いを音にしたような笛だった。  誰にも知られず、知らせず、神の膝下を流れるこの五十鈴川に流してしまおう。  京に流れ着くことのないこの川で、想いは中将に知られることなく、最後は大海原の藻屑となって消えるだろう。  中将と一緒に奏でたあの日が出会いの笛なら、今日は別れの笛だった。  佐理の代わりに笛が泣く。  川のせせらぎと奏でる笛の音に混じって、小石を踏みつけるような音がした。  おもむろに視線を上げると、白い月を背に、その人は立っていた。  五十鈴川を挟んで佐理がいるのとは反対側の岸に、勅使がこちらに真っ直ぐにその白い面を向けていた。  佐理はそっと笛を持つ手を下ろした。  自分は幻を見ているのだろうか。中将のことを想うばかりに、その中将に似た勅使の幻覚を今こうして見ているとでもいうのか。  佐理はくしゃりと顔を歪ませた。  二人を隔てるようにして流れる五十鈴川。さながら彦星と織姫を隔てる天の川か。  けれど二人はまだいい、一年に一度は会えるのだから、そして何よりも彦星は織姫を愛しているのだから。  自分の場合はどうだ。彦星が彦星を愛することは決してない。  愛されなくてもいい、けれどせめてこの想いを伝えたい、そう思ったところで佐理は泳いで川を渡る勇気も、橋を作る術も持ってはいなかった。  佐理にできることはこうして中将の幻影を見つめるだけ。  二人の間に流れるこの川に、彦星と織姫を繋いだかささぎの翼の橋がかかることは決してないのだ。  その時、勅使の白い袂(たもと)がふわりと舞った。  川面に顔を出す石を軽やかに踏んで勅使がこちらに向かってやって来る。  その姿はまるで若鹿のようだった。  佐理と中将の行く末を表したかのような絶望の川を、勅使は軽々と飛び越える。  そして佐理の目の前までやって来ると、佐理をその胸の中に閉じ込めた。  最初佐理には何が起こったのか分からなかった。自分は夢でも見ているのか。  けど、勅使の弾む息と心臓の鼓動が、それが夢でも幻でもないことを物語っていた。  微かに伽羅の香りがした。毎日同じ香が焚きしめられた衣をまとうことで、その人の身体に染み込んでしまったかのように、色も香りも純白な装束の内側から仄かにそれは香ってきた。  白い面の二つの目の奥に別の瞳があった。濡れたようなその黒い瞳は物言いたげに佐理を見下ろしていた。  この瞳、この伽羅の香り、そしてこの大きな胸を、佐理は知っていた。  近衛中将。  そんなはずはないのに。中将がこの伊勢にいるはずはないのに。そして中将が男の佐理をこんなふうに抱きしめるはずは絶対にないのに。  ああ、やはりこれは幻なのか。  佐理の目が温かい大きな手で覆われた。  失われた視界に戸惑う佐理の唇にそれは触れた。  湿った吐息と共に、柔らかい唇が佐理の口を塞ぐ。  息もできないほどの、狂おしい口づけだった。視界が閉ざされている分、全神経が唇と舌だけに集中する。  頭の後ろが発火し、真っ白になる。  口づけが佐理から思考と、そして理性をも奪っていく。身体に力が入らなくなり、佐理は勅使にしがみついた。  勅使は佐理をしっかりと抱きとめ、春の嵐のような口づけを降らした。  身体が溶けて勅使の身体に流れ込んでしまいそうだった。  それを堰き止めたのは、遠くで佐理を呼ぶ叔母の声だった。  「佐理〜」  なかなか帰ってこない佐理を心配して、叔母が河原に佐理を探しにやって来たのだった。  佐理の目を覆っていた手が離れたと同時に、佐理を抱えていた腕も緩み、一人では立っていられない佐理はそのまま下にしゃがみ込んでしまった。  視界は開けたものの、痺れる頭の余韻で白く霞がかかったようにぼやけている。 「佐理」  すぐ耳元で叔母の声がした。  叔母の声は催眠術師が術を解く合図のように、佐理を目覚めさせる。 「なかなか帰って来ないから、心配したわ。あの人ったらさっさと一人で帰って来ちゃって」 「すみません」  佐理は叔母に謝りながらも、辺りを見回す。  もうどこにも勅使の姿はなかった。

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