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第21話
夕暮れ時の五十鈴川の河原を佐理は清友と並んで歩く。
「小納言のことだけど、大丈夫なのか?」
やはりそのことか。佐理は清友を安心させようとあれこれ言葉を並べるが、清友は佐理の話を聞いているのかいないのか分からないような顔をして押し黙っている。
佐理は話題を変えることにした。さっきからずっと頭の中にある疑問だった。
「清友、勅使ってどんな人がなるか知ってるか?」
これには清友はすぐに反応した。
「勅使? 勅使ってあの帝の使いか?」
「そう。神宮の新嘗祭で見たんだけど」
もちろんその勅使とこの河原で口づけを交わしたことについては黙っている。
「帝の代わりをやるくらいだから、官位がかなり上の人たちなんだろうけど……、なんでそんなこと聞くんだ?」
「いや、その勅使が素晴らしかったんで、どういった人がなるんだろうと思って」
「う〜ん、普通は左大臣や右大臣、中納言あたりだろうけど、今の帝はまだお若くて、古いしきたりにとらわれないところがあるらしいから、別の人がなる可能性もあるな」
「例えば?」
「例えば帝と親しい間柄の人物……、近衛中将とか蔵人頭(くろうどのとう)あたりかな。でも中将は今年は五節舞を舞っていたから中将の線はないな。そうすると蔵人頭が有力だけど、まぁ、あくまでも俺の推測でだよ。こういうのって誰に聞いたら分かるんだろう。あんまり気にしたことないからな」
蔵人頭。
中将の親友で、観月の宴の夜、あの小舟に乗っていた人物。
中将と並ぶほどのイケメンで弓術が得意な……。
弓術!
桜の木に突き刺さった一本の矢。
あの暗がりで、小納言の頬ぎりぎりを狙った見事な腕前。
佐理の早くなる鼓動と共に、まだ見たことのない蔵人頭の輪郭があの夜の長い影と重なる。
そしてまた、この河原で佐理を抱きしめた勅使とも。
麒麟の羽織と勅使の肌に染み付いた伽羅の香り。
いや、でもまだそうだと決めつけるのは早急だ。
「蔵人頭ってどんな人物なんだろう」
清友から返ってきた言葉は佐理が知っている情報とほとんど変わりのないものだった。
弓術が得意な中将の親友。
中将と同じイケメンで上流貴族のトップオブトップの男。
中将と違うところは恋愛に関しては堅物で浮いた話が一つもないこと、といったところだ。
「あ、でもその堅物の蔵人頭が最近ついに恋に落ちたらしい。今までが今までだっただけに、もうメロメロって感じで、それもなんと相手は女じゃなくて男だってさ。なんでも観月の宴の夜に蔵人頭が一目惚れしたらしいから、相手の男はよっぽどの美人なんだな」
佐理の足が止まった。
やはり観月の宴の夜、自分を助けてくれたあの黒い影は蔵人頭なのか?
そしてあの勅使も蔵人頭なのか?
佐理は蔵人頭と会ったことがないから分からないが、もし蔵人頭と中将の背格好がよく似ているとしたら……。
あの勅使が蔵人頭だったら、自分は中将の親友とあんな口づけをしてしまったのか?
中将とは終わったにしろ、絶望的に最悪じゃないか。
清友はそのまま川を眺めながら歩いていたが、ほどなくして佐理がついて来ていないことに気づくと振り返った。
「佐理、どうかしたか?」
「いや、なんでもない……」
佐理は小走りで清友に追いつくと横に並んだ。
そんな佐理を見て清友はぽつりと呟いた。
「佐理、中将のことなんだけどさ、もう京に戻って来ても大丈夫だと思う」
佐理はゆっくりと瞬きをした。
その後の清友の言葉を待つが清友は黙ったまま何も言わない。
「なんでそう思うんだ?」
短く訊く。
清友の目が小刻みに揺れている。
何をどう話そうか迷っているように見えた。
「なんで清友はそう思うんだよ」
そのつもりはないのに、少しきつい口調になってしまう。
清友の短く吐いた息は、ため息とも決意を固めた息とも、その両方とも思えた。
「中将の結婚が決まった。相手は帝の妹君、定子様だ」
佐理は何か言おうとして口を開いたが言葉が出てこなかった。
「だから、もう大丈夫だと思う。さすがの中将も帝の妹君を正室に迎えたら、今までと同じと言う訳にはいかないだろう。リアル光の君と呼ばれた中将もついに年貢の納め時ってことだよ。だから佐理、京に戻って来いよ」
清友は佐理の肩に手を置いた。
「そっかぁ、それはおめでたいな」
感情を伴っていない言葉が口からこぼれ落ちた。
「実は俺、その話を聞いた時ちょっと驚いたんだ。前に俺、一度だけ中将に会ったことがあったじゃないか」
観月の宴の次の日だ。あの日、佐理は初めて中将と口づけを交わしたのだった。
「あの時、佐理が着替えている間に俺が外で中将の相手をしてただろ、俺、めっちゃ中将に睨まれてたんだよ。いつも佐理はさ、中将は穏やかで優しい人だって言ってたけど、なんか話が全然違うじゃないかよって思った。まるで鬼の形相ってやつ? そんな顔して俺のことずっと睨むんだよ。俺、万が一近衛兵になれたとしても、中将にいびり殺されるだろうなって思ったもん。佐理に贈ってよこした熱烈な和歌もそうだけどさ、ああ中将は本当に佐理に惚れてるんだなぁって、俺、しみじみ思ったんだよ。その中将がまさか今回正室を取るとは。まぁ、政略結婚的なところもあるんだろうけど。もしかしたら佐理と別れたことが相当なショックだったとか」
「そんなことある訳ないよ」
「そんなことあるさ。とにかく、と言うわけだから佐理、京に戻って来いよ。なんなら俺と一緒に帰ろう。小納言のこともあるし心配だよ」
清友は佐理に笑顔を向けた。
もしかしたら清友も佐理の中将への気持ちを薄々気づいているのかも知れないと思った。
清友は中将の結婚を知った佐理が落ち込むことを見越したのだろう。
独りでは辛すぎる長い京への帰り道を、清友は佐理の手を引いて歩くためにこの伊勢までわざわざ迎えに来てくれたのかも知れない。
そんな友を、ひとりで返すのは申し訳なかった。
「そうだね……、そろそろ帰ろうか、京に……」
佐理は笑顔を作ろうとしたが、うまく作れず、そして今、自分はきっと泣きそうな顔をしているに違いないと思った。
じわりと目が水っぽくなったので上を向くと、夕焼けの空に一番星が光っていた。
輝く星は遠すぎて、手を伸ばしても届かないと分かっている佐理は、その星がこれ以上瞳に映らないように目を閉じた。
閉じた瞼から涙が溢れ出て、頬を濡らした。
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