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第23話
「佐理!」
後ろで清友の叫び声が聞こえたが振り返らなかった。
中将! 中将! 中将!
頭の中はそれだけだった。
佐理を抱きしめたあの腕が他の女性(ひと)を抱きしめようと、佐理に愛の言葉を吐いたあの唇が他の女性(ひと)に口づけようと、中将が永遠に他の女性(ひと)のものになってしまおうとも、中将が佐理のいるこの世界からいなくなるのだけは嫌だった。
炎が佐理を嘲笑うかのように行く手を遮るも、佐理は懸命に大岩の方に向かって走った。
「近衛中将様―! 中将様―!」
煙に咽せる呼吸は苦く、煤(すす)を払おうと出る涙で視界が歪む。
燃えながら傾く木から離れようとした時、バランスを崩し佐理は地面に倒れ込んだ。
佐理の目に、炎をまとった大木がこちらに向かってくるのが映った。
もうダメだと思った。
一瞬でいろんなことを思った。
どうか中将が無事でありますように、自分が死んでも清友と家族があまり悲しみませんように、そして、やっぱり最後にもう一度中将の顔が見たかったな……。
その時、突然強い力で抱き起こされた。
割れるような大音がし、恐る恐る見ると地面に横たわった大木が黒い煙と炎を吐き出している。
そのまま抱き抱えられるようにして、火の勢いが弱い開けた場所に連れて行かれた。
そこでようやく視線を上に向けると、白い能面が佐理を見下ろしていた。
伊勢で見た、あの勅使だった。
佐理は咄嗟に男の胸の中から飛び出した。
男は佐理に手を伸ばしたが、佐理は素早く後ずさって距離を取る。
伊勢の時と同じ白装束に身を包み、面の二つの目の奥から別の目がのぞいている。
忘れもしないあの日、五十鈴川で佐理の唇を奪ったあの男だった。
蔵人頭。
佐理の頭に浮かんだのはその名前だった。
男が一歩佐理に近づいた。
『なんでも観月の宴の夜に蔵人頭が一目惚れしたらしいから』
清友の言葉が佐理の脳内で再生される。
五十鈴川での激しい口づけ。
あれを佐理が許したのは、もしかしたら相手が中将かも知れないという思いがあったからだ。
けど今ははっきりと言える。
この男は中将じゃない。
中将と似た背格好、同じような瞳、そして同じ伽羅の香りを持っていても、その能面の下に隠れている顔は中将とは別人なのだ。
男はさらに一歩佐理に近づこうと足を上げた。
「待って」
佐理の声で男は足を元に戻す。
「あなたは去年、私が五十鈴川で会った勅使の方ですよね?」
男は答えなかった。答えないことが肯定に思えた。
「今、 助けてもらったお礼は言います。けど、すみません。私に花月の趣味はないんです」
佐理の中将への想いは本物だ。けれどだからと言って、佐理は他の男も受け入れられるかと言ったらそれは違った。
佐理は中将だから好きになったのだ。
「だから本当にすみません。私があなたを好きになることは絶対にありません」
ひどいことを言っている自覚はあった。
今まで佐理に言い寄ってきた男たちに、こんなにはっきりとした拒絶をしたことは一度もなかった。
いつもは相手を傷つけないないよう、やんわりと断る佐理だったが、今回は違う。
中将に似たこの男が佐理は怖かった。
五十鈴川のほとりで交わしたあの情熱的な口づけが、こんなふうに佐理の危機を救ってくれるこの男が、佐理は怖かった。
中将が結婚すると分かっていても、今はまだ、自分の心を掻き乱すのは中将だけであって欲しかった。
この男はそんな佐理を鷲掴みにして、どこかへさらって行く力がある。
そして何よりも、男は佐理に中将を思い出させた。
それが錆びた刃物のように鈍く残酷なやり方で佐理の心を切り刻む。
切れ味の良い刃物ならいっそバッサリいってくれるものを、錆びた刃先はじわじわと余計な肉を引き裂きながら、濁った血飛沫をあげさせる。
男は一言も言葉を発さなかった。
男の後ろで炎がメラメラと泣いていた。
火の粉の混ざった風が男の白い袖を揺らした。
男から男の深い哀しみが伝わってきた。
言葉を発せず、身じろぎひとつしない男は、ただ真っ直ぐに佐理を見つめていた。
その白い能面の穴からのぞく黒い瞳から、佐理は思わず顔を背ける。
中将と同じ瞳をしていた。
『十六夜の君』
そう言って佐理を愛おしげに見つめる中将とそっくりな瞳をしていた。
そして今、その男の瞳には濃い悲哀の色が降りている。
きっと何不自由ない高い身分の貴族の男だろうに。
最高級の伽羅の香をまとい、この世の春だけを味わって生きていけるような男だろうに。
それなのになぜ、そんな捨てられた犬のような哀しい目をして佐理を見るのだ。
そこへ佐理を追って山を登ってきた清友の声がした。
「佐理―! どこだー!? 中将はちゃんといたぞー! もう麓で侍従たちと合流している!」
佐理は視線を男に戻す。
やはりこの男は中将ではないのだ。
「あなたも早くもっと安全なところに逃げてください」
佐理は男の視線を断ち切るように言い捨てると、清友の声がする方に走った。
後ろは振り返らなかった。
背中に突き刺さる男の視線が佐理には痛かった。
拭っても拭っても炎の中に立つ男の姿が瞼の裏に現れる。
男は佐理がいなくなってもずっとあそこから動かないのではと思った。男は炎で焼き尽くされるのを待っているかのように見えた。
けど、男を殺すのは炎ではなく佐理の放った言葉だ。
佐理は胸の中に広がる罪悪感を無理やり消し去った。
山火事で軽傷者は出たものの、幸い死者や重傷を負ったものはおらず、佐理は山に残して来た男のことを思ってほっと胸を撫で下ろした。
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