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第30話
佐理の心臓がドキリと跳ねる。
馬の蹄の音が近づいて来るのが聞こえた。佐理は音のする方に目を凝らした。
遠くからでも分かる、他の馬たちより一回り大きな黒馬だった。がっしりとした太い骨格であるがその走りはしなやかだった。
その人物は揺れる馬上にいながらも、まるで静かな湖面に佇んでいるかのように微動だにせず、そこだけ別の時間が流れているように見えた。
今まで何千回、何万回と繰り返されたであろうその動きは、一切の無駄がなく洗礼されていた。
ゆっくりと弓を構え、額より少し上に両手を持ち上げる。弦を持った右手を引くと同時に的を定めた左ひじが伸びる。
射手の心と身体が一つに合わさり、氣が満ちていく。
青白いオーラのようなものが上り立つのを佐理は見た。
その瞬間、矢は放たれた。
鋭い空気を切り裂く音がした。
矢は寸分違わず、的の中心を射た。
わっと、歓声が上がる。
いつの間にか呼吸をするのを忘れてしまっていた佐理は、大きく息を吐いた。
こんなに美しい射法を見たのは初めてだった。
黒馬は速度を緩め、くるりと向きを変えるとこちらに向かって歩いてきた。
「さすがだな、蔵人頭」
月光の君が馬上の蔵人頭を労(ねぎら)う。
さっきまで的に向けられていた鋭い眼光は佐理たちに下されている。
意志の強そうな真っ直ぐな眉の下は影が差し、そこに潜む両眼は涼しげだ。
高い鼻梁は形がよく、口元には知性が滲み出ていた。
月光の君とはタイプの違う、硬派な印象を受けるイケメンだった。
これが蔵人頭……。
佐理の胸に失望と混沌とした謎の渦が生まれる。
蔵人頭は佐理の中将ではなかった。
それではいったい誰が佐理の中将なのだ。
「佐理殿、どうかなさったか?」
衛門督に声をかけられ、佐理は我に返った。
「あれれ、念願の蔵人頭に会えたのに、緊張して固まっちゃったかな?」
月光の君が首を傾げて佐理の顔をのぞき込む。
「俺に?」
「そ、なんかね、観月の宴の夜に」
「あの!」
月光の君は、「大丈夫、任せて」とでも言うように片目を閉じた。
「俺たち男だけで小舟に乗っていただろう。彼はあの時、舟の上から岸に向かって弓を射た人物を探してるんだよ」
月光の君は佐理が襲われかかったことには触れず、それだけ説明したが、蔵人頭はすぐに何のことか分かったようだった。
「あれは……」
蔵人頭の視線が一瞬御簾の向こうを彷徨ったように見えたが、すぐに月光の君に戻り、そして最後に佐理に向けられる。
「俺じゃない」
「残念だったね」
月光の君はそう言うが、その声に全く心がこもっていないばかりか、なんだか楽しそうでもある。
蔵人頭が何か言おうとすると、月光の君は人差し指を口に当てた。
「美しい人、君はその人物に会って何が言いたいんだったっけ?」
「お礼です」
佐理は俯いたままポツリと答えた。
蔵人頭が佐理の中将でなかったことで気落ちしてしまい、自然に首(こうべ)が垂れてしまう。
「それだけじゃないよね」
「えっ、いえ、それだけです」
佐理は黙った。
人前で何を言わせようとするんだ。
というか、月光の君はあの夜一緒に小舟に乗っていたのだから、最初から蔵人頭じゃないと分かっていたはずだ。
ん、待てよ。ということは、逆を返せば、月光の君は誰が佐理を助けたのか知っているはずだ。
月光の君だけじゃない、蔵人頭だって。
あの夜、二人の他に小舟に乗っていたのは彼らと同じ上流貴族の男たちと、そして……。
三つの文字と佐理の中将の高貴な佇まいが重なりそうになる。
いや、いや、いや、まさか。そんなことはあり得ない、絶対に。
「あの、誰なんですか? あの夜、私を助けてくださった方は。ご存じなんでしょう?」
「ここにいるよ」
月光の君はさらりと答えた。
「いや、だって……」
佐理は辺りを見回す。
ここに来てからもう何度も確認したのだ。
あとはこの御簾の向こうに誰かいるとしたら、その人物だけ。
多分それは定子様か、ここにいる彼らより身分の高い……、皇族。
再びさっきの三文字が佐理の頭に浮かびそうになり、佐理は慌ててその文字を追い払う。
それはあってはならないことだった。
「さて、これで今日の賭弓の結果は出た。勝者は決まりだな」
月光の君がその場を取り仕切るように言った。
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