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第35話
自分と同じ時期に妹の定子と文のやり取りを始めた近衛中将は、見事に定子をものにしてしまった。
堅物だった蔵人頭までもが、恋愛中だというではないか。
二人が羨ましく、恨めしくもあった。
自分は臣下のささやかな幸福さえも、心から祝えないような器の小さい男だったのかと自らに失望した。
佐理は、生まれて初めて本当に欲しいと思ったものだったのだ。
他のものは何もいらない、佐理さえいれば。
佐理が長恨歌で舞っているのを見た時、涙が流れた。
玄宗が羨ましかった。最後は楊貴妃を失うという悲恋に終わってしまう恋だが、少なくとも玄宗は楊貴妃の愛を手に入れることができたのだから。
楊貴妃を愛しすぎたために国を傾けてしまった玄宗。楊貴妃のように美しく、楊貴妃のように聡明な佐理は、自分を堕落させないためにこの手からすり抜けて行ってしまったとでもいうのか。
表面的には変わりなく公務をこなしながらも、心の中はやさぐれた毎日を送っていたら、ある日近衛中将にこう耳打ちされた。
『瀬央佐理が帝のことを探しています』
まさに寝耳に水だった。
それは近衛中将としての自分か、それとも勅使の自分か、いや、でも勅使の自分は既に佐理にはっきりと断られたはずだ。
それともただ単に帝としての自分に何か用があるのか?
『それはご自分でお確かめになったらいかがですか? 今度の賭弓に佐理を連れてきますので』
近衛中将は去り際に、さもなんでもないことのように言葉を付け加えた。
『佐理殿は、今どなたか心に想うお方がおられるようですよ。観月の宴の夜、舟上から弓を射た人物に会いたいらしいです。あ、そうそうもう一つ言い忘れたことがありました。賭弓の賞品は佐理殿です。当日は花月趣味の男もおりますし、さぞかし士気が上がり盛り上がることでしょうよ』
近衛中将の言葉は胸の内側に嵐を呼び込んだ。
他の男には指一本佐理に触れさせぬという思いともう一つ、佐理が想いを寄せている?
観月の宴の夜? まさかあの夜、佐理は矢を射たのが女だとは思っていないはずだ。
あの花月嫌いの佐理が? 男に? それは本当なのか?
近衛中将は女をくどく時以外で嘘をつくような男ではない。佐理にどんな心境の変化があったのかは知らないが、もしそれが本当なら、まだ自分にもチャンスがあるということか?
賭弓の日が待ち遠しかった。
何よりも、また佐理を近くで感じられることが嬉しかった。
風で御簾の裾がはためいた。
帝はおもむろに立ち上がると御簾を引き上げた。
澄み渡った青空が顔をのぞかせた。
ざっと音を立てて風が桜の木を揺らし、儚げな花びらがいっせいに舞う。
その中に佇む帝。
黒翡翠の瞳が真っ直ぐに佐理に向けられていた。
「佐理、私と花月の契りを交わしてはくれないか」
帝の言葉が七色に光りながら佐理に降ってくる。
この光の色を知っている。
去年の夏、池のほとりで見た影と同じ色をしている。
あれは帝だったのだ。あの時、背後の太陽が後光のよう輝いて見えていた。
それもそのはずだ、なぜならこの国の帝、その人自身が太陽なのだから。
「帝は私には眩しすぎます」
花月の契り。
その言葉が帝の口から聞けて、嬉しくないはずがなかった。
けれど、帝を近衛中将だと思っていた時でさえも、その身分の差に苦しんだのだ。
それがその中将よりはるか上の、この国の頂点に君臨するお方の横にどうして並ぶことなどできようか。
「賭弓(のりゆみ)の勝者の賞品は佐理だと聞いているが」
「そ、それは和歌か笛か舞かのいづれかを披露するという意味です」
「では、この先ずっと佐理の和歌と笛と舞は、私だけのものだ」
「だからそのどれか一つを一度だけという意味です」
「それは誰が決めたのだ」
「誰って、近衛中将……様でしょうか」
「佐理は帝の私の言うことより中将の言うことを聞くのか?」
「帝……」
「私の命令だと言ってもか?」
こんな帝を見るのは初めてだった。
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