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第1話

「調べたいものがあるんだ。探すの、手伝ってくれないかな?」  午後の授業を終えた後、一旦制服を着替えるべく宿舎に戻ろうとしていたイグナスに、クラスメイトの友人がそう声をかけてきた。クラブ活動などがないこの日は、夕方の礼拝まで基本自由時間である。  訪れた図書室は閑散としていた。試験勉強に勤しむ時期でもないため、何人かの生徒が各々に読書をしているだけだ。特にこちらへ気を止める様子もない。そして品行方正な生徒からの申し出に、司書は何ら不審がる事もなく、図書室の隣にある書庫への入室を許可してくれた。だがこの職員にもう少し注意力があったならば、彼に同行するクラスメイトの強張った表情で、何事かを察したであろう。 「エリケ……だめだよ、こんなとこで……」  蔵書の棚が並ぶその陰に隠れ、イグナスは壁へ背中を押しつけられていた。この場所に誘った親友が、正面からその身を迫らせている。そこにいるのはまるで別人だった。十二歳の澄んだ瞳が、今は妖しく輝いている。決して他の生徒には見せない彼の眼差し。イグナスの胸は、締めつけられるように苦しくなっていく。 「むしろここなら、心配ないさ」 「でも……」 「新しい司書さんは少しズボラでね。書庫の整理がちゃんと出来ていないんだ。探し物に時間がかかっても、疑われはしないよ」 「………」  この美しく聡明な少年が、軽率な考えで行動しているとは思えない。そもそも書庫へ生徒だけで立ち入る事自体、先任の司書の頃はまず出来る事ではなかった。それを今は平然と許されている。彼の言葉通り、あまり職務に熱心ではなさそうだ。 「こうでもしなきゃ、なかなか君と二人きりになれるチャンスはないだろ?」  黙り込むイグナスへ、さらにエリケが問う。 「そうだけど……」 「だめ?」 「やめてよ……そういう質問の仕方は……」 「どうして?」  意地悪っぽく、エリケが続けてくる。困惑するこちらを見て、楽しんでいるかのようだ。 「だから……その……」  薄暗い空間の中、彼の腕が背中へと回される。端正な容貌が、さらに寄せられてきた。イグナスは硬直して息を呑む。これから自分達が行おうしている事への呵責。だがそれ以上に、少年の中で抑え難い欲求が募っていく。 (今は僕だけを……エリケは見ているんだ……)  初等部の最終学年となり、かつてよりもこの友人からは大人びた雰囲気が醸し出されている。きっと女子達がいたならば、皆うっとりと彼に見惚れる事であろう。この男子校においてすら、エリケと向き合うだけで顔を真っ赤にさせる者も少なくない。そんな存在が、今は自分に魅入っている。誰も知る由もないからこその優越感がそこにあった。  そんな葛藤を見透かしてか、エリケが軽く笑みを浮かべる。 「好きだよ、イグナス」  耳元で親友が囁く。  温かな吐息をその肌に感じさせられ、少年の身体はいっそう熱くなってきてしまう。常識を盾にした窘めはもう出来なくなる。自分が愛されている事に、感情は止めどなく昂ぶり始めていた。 「僕だって……君の事を、いつも……」  己の気持ちを、イグナスもまた素直に伝える。  これにエリケが、いっそう強く身体を抱き締めてきた。そしてこちらの肩へ、少年はそっと顔を埋める。理知的なクラスメイトが、今は愛らしく甘えているかのようであった。  イグナスからもそんな親友を、両腕で包み込む。躊躇いが消えた訳ではない。だがそれでも、今はもうエリケを押し退ける事など出来なかった。そしてこれが、友達同士の無邪気なじゃれ合いなどではない事を、十二歳の誕生日を待たず少年はすでに悟ってしまっている。 「すごく、ドキドキしてるね」  やがてそう、エリケが呟く。  イグナスはぎこちなく頷いた。こちらにも、高揚する親友の鼓動が鮮明に響いてきている。  そんな中、イグナスの髪を彼が優しく撫でてきた。 「エリケ……」  親友からの慈しみが、書庫の中でより少年の心を乱していく。戸惑いはいつしか、危険な期待へと変わっていた。例えそれが、これまで大人達から教えられてきた正しさから大きく逸脱するものであったとしても、イグナスはエリケからの愛情を欲してしまっている。 「ここに僕が誘った時から、本当は君だって、どういう事になるかは分かってただろ?」 「………」 「ほら、せっかくの時間が、無駄になっちゃうよ?」  こちらの気持ちを揺さぶりつつ、エリケがさらに脚を絡ませてきた。黒のハーフスラックスを穿く少年の仕草が、今はなぜかこの上なく艶かしく感じてならない。 (そうだ……僕は、最初から……エリケと……)  学校や寄宿舎の中では、常に誰かの目を気にせねばならなかった。特に容姿だけでなく学業も優秀なエリケは、皆からの羨望を集めている少年だ。健全なる生徒の模範として、教師達からも期待されている。だからこそ自分達の逢瀬は、容易に機会を伺えるものではなかった。ここを出てしまえば、またエリケとは普通の友達でいなければならないのだ。  そしてこの二人だけの世界において、エリケもまたイグナスに対し、清廉なる優等生の仮面をすでに捨て去っていた。 「はぁっ……エリケ……」 「イグナス……んんぅっ……ずっと、待ち遠しかった……」  静まり返っていた書庫の奥で、少年達の悩ましげな吐息と喘ぎが発せられていく。  身体を密着させたまま、二人は夢中で互いを愛で合っていた。エリケが自身の想いを、懸命にイグナスへと伝えてくる。これにイグナスも、その悦びの中でいっそう彼を求めずにはいられない。自分でも、なぜこんな事をしているのか分からなかった。それでも今は、エリケという存在の隅々までもが愛おしくてならない。きっとそれは、相手も同じなのだろう。 「んっ……はぁっ……」  いつしかごく自然に、エリケと唇を交えていた。口づけというには、あまりに濃密なものだ。彼にだけ許した特別なキス。そしてエリケとともに自分が受け入れた、禁忌の行為。 『僕たちだけの、秘密を作ろうよ』  数ヶ月前の出来事。校舎裏の森の中で、エリケから囁かれた言葉を思い出す。そして彼と、初めて唇を触れ合わせた。イグナスの中で全てが変わり、そして始まりを告げられたあの日。友情からさらに深いエリケとの絆を選んだ事に、恐れこそあれ後悔はなかった。 (エリケも……こんなに……)  硬い感触が、脚の付け根辺りに食い込んでいる。エリケの息遣いは逸るように乱れていた。そしてイグナス自身の身体もまた、親友との愛撫を重ねる中で、抑えようのない反応を著明にさせていく。下着の中で痛いくらいに、己の情動が張り詰めている。こうしたエリケとの戯れでは、そんな状態が当たり前になっていた。むしろ最近は、夜中に布団の中で一人悶々としている時なども、否応なしに火照ってしまう事が多くなっている。 「だ、だめ……」  熱い血潮が一気に掻き立てられ、イグナスは堪らず腰を捩らせた。エリケがその部分を、手で触れてきたからだ。  だがそれでも彼は動じず、イグナスへと不敵な笑みを向けてくる。 「君も、すごく硬くなってるね」  エリケの言葉に、何ら取り繕う事は出来なかった。 「こういう事してると……どうしても……」 「僕だって、同じさ」 「………」 「どうしてここがこうなっちゃうのか、理由は知ってる?」 「それは……」  無知である方が、どれだけよかっただろうか。イグナスはそう思わずにはいられない。中等部への進級を来年に控え、自分達のクラスの中には様々な好奇心を抱く者が多くなっていた。そしてそれらは、決まって低俗で猥雑なものばかりだ。厳しい校則と自律を求められる学園とはいえ、そこは男子ばかりの社会である。教諭達のいない場所では、無遠慮に話される彼らの会話が、当然ながらイグナスの耳にも届いていた。 「恥ずかしがらなくたっていいだろ?これは僕たちが、大人になってる証拠なんだから」  返答に窮するイグナスとは対照的に、エリケは淡々とした様子で言ってくる。 「でも……僕……」 「何だい?」 「今までは……君と一緒にいられるだけで、僕は幸せだったんだ……なのに最近は……その……穢らわしい事ばかり、考えてしまって……」  自分自身を軽蔑せずにはいられない。だからこそ、誰にも打ち明ける事など出来なかった。エリケとこのような関係にならなくとも、きっと状況は同じだったであろう。今のこの身体が、それを証明してしまっている。スポーツや余暇などでは発散する事の出来ない何かが、成長する肉体の中で激っていた。自分でもどうしていいのか分からない。  エリケはそんな苦悩するイグナスを、真剣な瞳で見据えていた。 「なら僕は、君以上に穢らわしい存在だよ」  やがてそう、親友が静かに言う。 「エリケ……そんな事……」 「事実さ」  もう何も答えなくていい。そう伝えるように、イグナスの唇を彼がまた塞いだ。 「んんぅっ……」  貪るようなキスだった。エリケがより感情的になっている。かつては二人で手を握っているだけで、ドキドキしながら顔を紅潮させていた。恥ずかしさと罪悪感の中で、こっそりと口づけを交わしたあの日、本当に心臓が破裂しそうに思えたくらいだ。それが今では、お互いにもうそんな事くらいでは満たされなくなっている。エリケになら、自分がどれだけ穢されようと構わなかった。そして自分も、この清らかな存在をもっと穢してしまいたい。イグナスの中で、唾棄すべきはずの衝動が刻々と渦巻いていく。  長い口づけがようやく終わる。まるで全力疾走をした直後のごとく、少年達は額に汗を滲ませ、肩で息をしながら見つめ合う。 「もう我慢出来ない……いつもは誰もいないところで、僕は……だけど……君をちゃんと感じながら……したい……」  エリケが何を言っているのか、考えを巡らすよりも先に、イグナスへさらなる衝撃が襲う。 「っ……!」  カチャカチャと、ベルトを外す音。そしてイグナスに寄り添ったまま、エリケは何の迷いも見せず、自らの恥部を露出させてきた。  慌ててイグナスは、そんな親友の姿から顔を背ける。 「ごめん……イグナス……いけない事だって、分かってるんだ……」  正視せずとも、エリケがその部分を握り、勢いよく擦り始めているのが分かった。まるで何かに急き立てられているかのごとく、少年の悶える吐息が発せられていく。  どうしてそんな事をしているのか、きっとイグナスがもう少し幼ければ、とても彼の行為を理解する事は出来なかったであろう。だが今は、これに対する知識や思考が追いつかずとも、少年の中で眠っていた本能が自身を突き動かしていく。 (もう、どうだっていい)  心を束縛していたものを、イグナスは完全に振り払う。苦しみから救われる術がそれなのだと、少年はなぜかハッキリと分かった。そしてエリケのように、イグナスは我を忘れて下衣を引き下ろす。熱いその存在が外気に触れる。恥ずかしさどころか、むしろ感情はいよいよ奮い立っていく。 「一緒に……しよう……」  囁いてきたエリケの瞳は虚ろで、凛々しかったその様相も今は恍惚に緩みきっていた。  これにイグナスは、自身のを握る事で応える。自分でも驚きを覚えるほどに、そこは硬くなっていた。  遠くで鐘が鳴り始める。礼拝への参集を呼びかける合図だ。サボる者もいるが、自分やエリケはこれまで一度として怠った事はない。それだけに二人揃っての不在は目立つであろう。時間が迫っていた。ここにいられる猶予も後僅かだ。 「はぁっ……んっ……あっ……」  必死に声を押し殺そうとするも、それでも洩れ出てきてしまう。左腕で相手を強く抱き締め、イグナスとエリケは互いの温もりを感じながら、もう片方の手で己の欲望を夢中で慰めていく。強張る二人の身体が、だんだんと小刻みに震え始めていた。 「あっ……あぁっ……エリケ……!」  強く瞼を閉じ、堪らなくなったイグナスは背筋を仰け反らせる。何かが自分の中で膨らみに膨らみ、そして一気に破裂するかのようであった。 「イグナス……僕、もう……!」  そしてエリケもまた、その時の到来をイグナスへ伝える。  感極まり、気が遠くなってしまいそうだった。しばらくは何も考えられず、茫然自失となって立ち尽くす。 (今……僕たちに、何が……)  息も絶え絶えといった様子で、エリケがもたれかかってくる。自身も脱力感に見舞われながら、それでもイフナスは何とか親友を支えていた。 「こ、これって……」  床には、白濁の液体が飛び散っている。エリケから放たれたものだ。寸前に彼が腰の向きを変えなければ、これにイグナスの制服は塗れていたであろう。  問われた声に、ハッとした表情となるエリケが、慌てて身なりを整え直す。その行動に、こちらも羞恥を取り戻す。 「スペルマ……本にはそう書いてあった……僕たちくらいの年齢になると、こういうのが出るようになるんだよ……」  乱れた痕跡が残されていないか入念に確かめながら、エリケはそう説明してくれた。顔がまだ逆上せたような赤みを残している。 「そうなんだ……でも、僕からは……」 「君だって、すぐに出るようになるさ。とにかく、これちゃんと拭いとかないとね」 「………」  身体から排泄されたのだから、不浄なるものだろう。だがそれでも、エリケが迸らせたその液体に、イグナスはしばらく見入ってしまう。なぜかその存在で、今はこのクラスメイトが自分よりも遥か先を進んでいるように思えてならない。 「ちょっと待ってて」  部屋の隅にある掃除用具のロッカーから、エリケがモップを持ってきた。汚された床が、見ている前で清められていく。ここで何があったのか、もう誰も知る事はないであろう。二人の記憶にだけ、全てが刻まれていた。だが過ぎ去る想い出の一片として、このまま終わらせる事などどうしても出来ない。  モップを片付けるエリケへ、イグナスは無言のまま歩み寄る。そして背後から、彼を抱き寄せた。この場所を去る前に、どうしても語っておかねばならない事がある。 「イグナス?」  それまで終始主導権を握っていた少年が、初めて驚きの顔を浮かべた。 「お願いがあるんだ」 「え?」 「君に……もっと色々教えて欲しい……僕にはまだ、知らない事だらけだから……」  イグナスの言葉に、エリケが優しく微笑んだ。こちらの無知を馬鹿にしているものではない。むしろこれからの成長をともにする存在に、喜びを感じているかのようであった。 「僕が知っている事なら、何だって君に教えてあげるよ」  エリケがまた、イグナスの髪をゆっくりと撫でていく。礼拝へと向かう生徒達の賑やかな声が、書庫の中にも聞こえてきていた。  最後にもう一度だけ、二人は唇を重ねる。  こんなにも罪深い事をしておきながら、神聖なる場所に赴いていいのだろうか。きっとこれからは、さらなる煩悶の日々が始まるのだろう。だが無垢なる心が変わりゆく中で、イグナスは少しでも大人に近づく事を望まずにはいられなかった。

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