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白薔薇は選択する(1)
闘技場に影が落ちた。ぞくりとして目をあげると、周りから悲鳴が聞こえる。
「ワイバーンだ!」
なんてことだ。つるつるとしたうろこのない肌、醜い丸い頭に細く切れ上がった目、邪悪に開く口から唾液を滴らせた赤い翼竜が空を舞う。翼はこうもりの羽根のように薄い膜で出来ているようだ。三本の鋭い爪で出来た指先が降下しながら前に突き出された。
苦しげな声に目をやると、エドワード殿が倒れている。
「エドワード殿……」
駆け寄ると首にぬるりとした何かが巻きついている。鼓動をするように透明と色がぬらぬらと見えるそれは、蛇の姿をしていた。
パトリックがその蛇をつかんで聖なる気を放つ。蛇の体が鮮明な七色に実体化し、その後に崩れて消えた。
「エドワード殿!」
呼びかけるが返事がない。びくびくと痙攣を起こしている。
医師のボールス師が首で脈を取り、蒼白な顔をあげた。
「毒です。解毒を行いますが、しばらくは痺れて動けないと思います」
命に別状がないとほっとする。
「撃て!」
父上の叫びにエルフ達が弓を放つ。
空を縦横に舞うワイバーンから放たれる暗黒色の炎に、矢がなかなか当たらない。兄上が魔法で防戦している。
「ガレス!」
ルーカス王が親衛隊長を呼んだ。
「ここに!」
黒い鎧の戦士が頭を垂れる。
「指揮をお前に任せる。親衛隊を率いて民を避難させよ。そして、ワイバーンを倒せ」
「わたしは陛下の親衛隊。お側を離れる訳には……」
王が目を上げてパトリックと視線を交わす。
「私には聖騎士たるパトリックがついている。ここは学園都市。若き者の多い地であれば、喪われた時の嘆きも大きかろう。若き命を護るのだ。私の身に万が一のことがあった時には……」
「万が一などない」
パトリックが鋭く遮る。その声にはっとした黒騎士ガレスが立ち上がり、パトリックと視線を交わす。
「我が君を頼む」
「承知」
ガレスが親衛隊に檄を飛ばす。黒衣の騎士達があるものは避難の誘導を、あるものはワイバーンへの攻撃へと散って行く。
ローの無事を確かめるために駆け寄った。
ぐったりとした身体は変わりがない。頬に指を這わせて唇に触れて息を確かめる。かすかな息が触れてほっとした。
ああ、青白い生気のない顔を見て安心するなんて。ぐっと歯を食いしばった。
まずは加護の力で呪いのかかるのを防がないと。立ち上がってローをターゲットしようとして、影が自分に落ちるのを感じた。
ぐいっと腰を捕まれて、その場から引きはがされる。
黒いワイバーン。
一匹ではなかったのか。
ぐるぐると唸る声。口から紫色の唾液が糸を引いて地面に落ちてその場を焦がす。
「ロー!」
ワイバーンの足元に転がるローの元へ行こうと腕の中でもがいた。
「殺されるつもりか」
パトリックの厳しい声が飛ぶ。
「僕の犬に近づかないでくれるかな」
────その声は。
漆黒のワイバーンの背から滑り降りた小さな人影。
黒いマントに包まれた姿。フードを被ったままの姿から誘惑するような甘い男の声が漏れる。
「お久しぶりです。メリドウェン先輩」
フードがぱさっと落ちて、その顔が露わになる。
ローのかつての思い人……アーシュ。その顔の片側は、凝った金属の仮面で覆われていた。
「この顔のことではお世話になりました」
仮面に触れると幼い顔が憎しみに歪む。
ローにかけられた呪いを返した結果だろう。呪いには対価が求められる。返された呪いにも。恐らくは一番の自慢であった美貌を失うことになったに違いない。
アーシュは足元のローの胸を踏みつけるとにっこりと微笑んだ。ふさっと尻尾が背中で揺れる。
「何をするつもりだ?」
「教える義理はないのですけど、先輩にはなるべく苦しんでほしいですから、教えてあげようかな?」
熟れた桃のような唇からくすくすと笑い声が漏れる。
「ローが欲しいんです……迎えに来た。
前のローは抑制が効き過ぎていてつまらなかったけれど、絶望に染まったローはきっと素晴らしい闇の駒になる」
「北の国の者なのか」
「者……ねえ。そんな下っ端じゃないんですけど」
アーシュの唇が邪悪な弧を描く。華奢な指先が自分の胸を押して誇らしげに微笑んだ。
「北の魔皇帝の皇子。それが僕」
ちらりと視線が落ちてローの血の気のない顔をじっと見る。
「……しかし、ローはやっぱり伝説に残る存在なのかな。僕だけじゃなくて、エルフの王子にまで愛されるなんてね」
僕だけだって?愛される?
愛しているというのか、ローを。
ぎりっと奥歯を噛んで叫ぶ。
「ローを殺そうとしたくせに!愛しているなんて言うな!」
きろりと視線があがって、この上なく残酷な瞳がわたしを嬲る。嘲るようにアーシュが声を立てて嗤った。
「殺そう、となんかしてませんよ。
弱らせて、絶望させてこちら側に取り込もうとしていただけだ。あなたに邪魔されて、失敗してしまったけど」
アーシュがマントを払うと、ローの側にしゃがみこんで青ざめた顔に触れる。
触れている。素手で。その意味に気が付いて眩暈がする。
アーシュはローには触れることが出来なかったはずだ。ローが言っていた、素肌に触れた事はなかったと。それは、ローの気が正しく清らかなもので、対するアーシュは闇の者で、触れればひどく焼かれるからだ。
「やっと触ることが出来た」
アーシュが愉悦の表情を浮かべてわたし達を見回した。
視線がすべってルーカス王の上で止まる。
「お礼を言わなきゃね。ヒトの王……ルーカス。あなたがちょうど良く熟してくれていたお陰で、ローをこうやって無力化することが出来たんだから」
「私を利用したのか」
静かな怒りを湛えた王が尋ねる。
「もちろん。あなたもまた僕の傘下に下るべき人間だ。そうするべく長い期間をかけてあなたの中に闇を蓄えた」
アーシュがローに唇を重ねる。
出そうになる声を抑えた。苦しみや嫉妬は、きっとアーシュを喜ばせるだけだ。
「気丈なことだ。泣いてくれないとつまらないんだけどな」
「闇の剣を私に与えたのはお前達なのか」
王が硬い声で尋ねる。
「そう。教会に潜り込んで何人か篭絡してね。簡単なことだったようですよ。聖職者とはいえ、ヒトは快楽には弱いから」
王の緑の瞳に燃えるような怒りが篭る。
じりっと動こうとした身体にアーシュが微笑みかけた。
「動かないでくれるかな?
僕は呪いの専門家だ。あなたの中の呪いを解くことが出来る。そうなればあなたは死ぬ。苦しみ抜いてね」
それでも動こうとする王をパトリックが止めて、後ろ手で庇う。
二匹のワイバーン。闇の皇子。他にも仲間はいるのだろうか。
いないとすれば、皇子を護るための護衛としては少なくないか。
いるとすれば追撃の手はどこまで迫っているのか。
呪いの専門家なのは本当なのか。どの程度の使い手なのか。
ぐるぐると考えが頭を巡る。
何をするべきなんだ。
何をしなければならない。
のたうち懊悩する頭が、最優先するべきものの答えを鮮明に弾き出す。
アーシュにローを渡すことはできない。
──それが……それが。
ローを殺すことを意味していたとしても。
例えこの手でローを殺すことになったとしても。
心が千切れるようだ。
希望を抱いた後の絶望は、こんな味がするのか。
息を大きく吸って、涙を堪えた。
もし、ローがアーシュに操られることになれば、それを止めれるものはほとんどいない。唯一止めれる可能性のある、ルーカス王もまた闇の手の虜なのだとすれば希望はほとんどない。
ローにターゲットを外す術を授けた事が裏目に出てしまった。
敵にローを奪われることを想定していなかった。
わたしでは……ローを止められない。
意識のない今でなければ。
でも、でも。
「メリドウェン」
静かに王が言う。
「こちらを向くな。あいつから目を離すな」
静かな声の中に燃えるような憎悪が滲む。
「私がこの場を撹乱しよう。私から狼の気を抜いて戻してやるがいい」
「ローの気がなければ……それに、アーシュに呪いを解かれれば……あなたは」
「使える駒をたやすく切るのは愚か者だけだ」
憎悪に歪んだ唇が艶やかに持ち上がる。
「まあ、あやつがそれほど賢いとも思えぬが」
身軽な身体がパトリックと向かい合う。細い腕がパトリックの首に絡んで、その唇に重なった。
「愛しているよ、パトリック」
パトリックの腕がその身体をつかむ前に、腰の剣を抜き取ると炎のように身を翻してアーシュに向かって走り出す。
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