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白薔薇は謎を解く(2)
頭がひどく痛む。額に手を当てて、その手の感触が小さい事に気がついた。
「そこでは……わたしは大人だったのではありませんか?」
「始祖たるわしにすれば、お前達は皆、ひな鳥のようなものだが。鼻先の白くなった老人でもな」
「少なくとも……あなたの子孫と愛し合うことが出来るくらいには大人だったのでしょう?」
「いいぞ……メリー……近づいている」
メリー
呼ばれた瞬間に、耳の奥で掠れた低い声がそれに重なる。
『メリー……俺の白い薔薇』
内側をなぞられる感覚にぞわっと肌が粟立った。
くらりと視界が揺れて立っていられなくなる。膝をついて、地面に手をつくとはあと息を吐いた。
喉の奥が震えて、手にぽたぽたと涙が落ちて、自分が泣いているのだと気がついた。
苦しい。
体の痛みだけじゃない……心が痛い。
光が目の前で弾ける度に、映像が浮かぶ。
黒い髪。しなやかな身体。…………溶けるように輝く銀色の──
「あ……っ……あ……」
痛みに四肢が千切れそうだ。
助けて──
誰に助けを求めているのか。
「やはり……無理か」
やわらかい前足がわたしを押す。痛みで体がうまく動かない。ころりと転がされて仰向けになった。
前足がぎゅっと胸を押す。
身体の中を衝撃が貫く。わたしの中の何かがこの感触を知っていると叫んだ。
無数の針が柔らかく身の中を這うような感覚。でも、それはもっと甘かった。温めた蜂蜜を身に垂らされたような……ざらりとした舌で舐められたような。
フェンリルの灰色の瞳と別の瞳がちらちらと入れ替わる。
はっと息をすると、痛みが身体から引いていく。
フェンリルが前足をわたしから下ろすと、しっぽを揺らしながら元の場所に戻り丸くなって目を閉じる。
起き上がると涙の流れた頬を袖で拭い、フェンリルの側に立った。
「あなたは何を知っているのですか?」
「知っていることは沢山ある。教えられぬことも。ここにわしがいる意味は知っているのだろう?」
「あなたには呪いがかかっている。
力に溺れ、創世の神の愛する者を殺した。創世の神はオオカミ族に愛を与え、あなたが本当にそれを理解するまでの間、ここにあれと縛りつけた」
「そうだ。わしは愛を知るためにここにいる。
知るためだけに存在するわしは、干渉も介入もできんのだ」
灰色のオオカミがふうとため息をつく。
なんかこう……カチンと来た。
「そんなんだから、ここにいるんじゃないですか?」
「なんだと?」
「だって、オオカミの始祖が黄泉の入り口に縛り付けられたのって創世記のことですよね?そこからずーっとここにいて、愛を知ろうとしたのに、まだ知れてないっていうのは、根本的に何か間違ってるからじゃないんですか?
ちゃんと来てる人に聞いてます? 愛ってどんなものとか、どんな風に恋に落ちたとか!
あなたなんかこう……へそ曲がりっぽいし。
人の惚気など聞きたくないとかって、素通りさせちゃってません?」
フェンリルが唸り声をあげて立ち上がる。
あ、図星?
尻尾が警告するようにゆっくりと揺れている。
「小童が!」
もうそれ、聞き飽きたってかね?
「子供子供言いますけどね!この姿、明らかにおかしいですよ!
つがいか伴侶かわかりませんけど、わたしは小さい頃から父と五人もいる歳の離れた兄に溺愛されていて、苦労しそうな外の国との縁談なんか成立する訳がないんです。
出来れば一生独身で王宮で笛でも吹いていろとかそういう勢いなんですから!どうしてもわたしを差し出せなんて結婚なら、死ぬまで戦うとか言い出しかねない。
少なくてもわたしは親元を離れることができるだけの年齢になっていたはずだ。そして、相手はわたしが選んだ者以外にありえない」
「お前の父と兄は阿呆か」
「ええ、そうですとも。母親がドン引きするほどの息コンの父とブラコンの兄なんですから!」
きっぱり言い放つと、フェンリルの顔が嫌そうに歪んだ。
下を向いた頭が、やれやれと言う風に揺れる。
「つがいのことやここへ来た経緯を忘れていることなんかを合わせると、わたしが成人前の子供のように扱われるのには、不満を感じますね」
両方の手のひらを上に向けて、肩をすくめるとため息をついた。
そんなわたしを見てフェンリルがふんと鼻を鳴らす。
「失礼な奴だ」
「あなたほど無礼ではないと思いますけどね」
腕組みをしてふんと鼻を鳴らすと、うつ向いていたフェンリルがぷるぷると震え始める。
「ふ、ふ、ふ………はははははは!」
フェンリルはげらげらと笑い始めた。本当に何から何まで無礼な人だな。
ぷんと膨らましたわたしの不満そうな顔を見ると、また笑い出した。
「こ、このフェンリルに面と向かって罵詈雑言をぶつけたのは、創世の神以外にはお前だけだ」
「わたしのご先祖はよく耐えたものですね」
「面と向かってと言ったであろう。陰ではぶつくさ言っておったとも。あやつは賢さの塊であったからな」
「歯に衣を着せるというのはエルフの美徳ですからね。
わたしは、里を離れた身ですから、遠慮なく生きていますけれど……」
はっとなって、フェンリルを見る。
大きな口がにやりと歪んで、空気の漏れるような笑い声が聞こえる。
「やはりわたしは成人していたのですね」
「そう思うがな」
ぐるぐると頭の中で考えをまとめる。
ここにいるわたしと、もう一人のわたし。
もう一人のわたしは大人で、ここのわたしは子供。
子供のわたしの中には大人のわたしがいる。ならば、大人のわたしは子供になっているのではないか。
子供になったわたし────何故?
思い当たるのはひとつしかない。
「わたしは器を失ったのですね」
それは疑問ではなかった。灰色の狼はじっとわたしを見つめる。
返事はなかった。
それが答えだった。
「器を失えば、魔法使いは発狂する。わたしは発狂した。
成人したわたしは子供になり、ここにいるわたしは補うように子供の身体と大人の精神を持つようになった。
どうして発狂したわたしが精神を保ち、ここにいるのかはわかりませんが」
「おまえのつがいが対価を払ったのだ。それによって、砕けたおまえは再生した」
対価。
器の消失で破壊されたわたしを再生するほどの対価とは……それによって、わたしはオオカミ族に繋がれ、始祖フェンリルの眷属としてこの場所にやってきた。
わたしがエルフであるという本質を変え、器を再生するほどの対価を得ることが出来る、その方法とは。
「《契約 》ですか」
太古のオオカミ族の魔法。
結んだものは伝説に残るほどの力を得るという。しかし、つがいが死んだ場合には相手は死ぬはずではなかったか。
わたしのつがいは、命を賭けたというのか?わたしの器を再生する為に?
「あなたは先ほど、まだわずかに猶予が残されていると言った。
返せば、わたしが死ぬまでにはもうわずかな時間しか残されていないということですよね。ならば、わたしのつがいは何故……そんなことをしたんだろう。
…………自分も死んでしまうのに」
「それを知る事が出来たなら、わしはこの場所から解放される」
愛。フェンリルはそれを知るためにここにいる。
ぞわりと身の内を何かが撫でた。その人を思い出したいと思った。
それほどにわたしを愛する者をどうして忘れることが出来るのか。出来たのか。
逢えば思い出せるのか────逢いたい。逢わなければならない。
「ここから出る方法を教えて下さい」
「わしは傍観者だ。干渉は出来ぬ。……だが、教えてやろう。
お前はここから出ることは出来ないだろう。まもなくお前は死に、つがいも死ぬ。そしてお前達は黄泉を下るのだ」
ここにいれば、いずれ。その人はやって来る。
そのことにほっとしている自分に気づく。
ほっとしている。
だけど……わたしは……。
瞬きをして涙を堪えた。
うつむいて開いた目の中で視界がゆらゆらと揺れる。
どうして泣くんだろう。死ぬ事は別に怖くはないのに。
胸がじりじりと焼ける音が聞こえるような気がする。
……どれだけ待てばいいんだろう。
早く逢いたいと望む事は、その人の死を望むことだ。決して望んではいけない。
そして、その人はわたしがここで待っていることを知らない。
知っていたとしても、その為に早くここに来る事があってはならない。
何もかもが皮肉だ。
ころりと横になって丸くなると、必死で嗚咽を堪えた。
涙を見せたくないのに、ここには隠れる場所もない。
「泣くな………」
ぐるぐると唸りながらフェンリルが言う。どうしようもなく涙を流しながら震える声で言葉を吐き出した。
「あ、あなたは、ぼ、傍観者でっ。か、干渉してはいけないんですからっ。
あっちにいって座ってい、いて、くだ」
丸まった背中をふさふさの尻尾がぐいぐいと押す。
「や、やめて」
ころりと転がって反対側を見ると、後ろ向きになったフェンリルが激しく尻尾を振っている。ぐいぐいと尻尾を押そうとすると、尻尾が胸に押し付けられて、くねくねと揺れ始めた。
力加減を知らない尻尾は、くすぐっているのか、嬲っているのかわからないような勢いだ。
身体が勢いで草の上にずりずりとこすりつけられる。
堪らずにふさふさの灰色の尻尾を握ると大声を出す。
「いい加減にしてください!」
止まらない尻尾をばしばしと叩く。
「尻尾は狼の急所だぞ」
頭だけ振り返ったフェンリルがじろりと睨んで言う。
「やめてと言っているのにやめないあなたが悪いんでしょう!」
「泣き止みおった」
顔に影が差して大きな舌が頬をべろりと舐めあげる。
「やっ……!や、や、やめ……」
悲鳴をあげて、じたばたと手足を振った。
頭の上でフェンリルが舌なめずりをしてにやりと笑う。
「静かな暮らしをしておると、小童の鳴き声は頭に響いてたまらんわ」
「うわあ!」
起き上がって逃げようとした身体をフェンリルの前足が押さえる。
はっと生温かい息がかかった。
また舐められる……ぎゅっと目を閉じた時だった。
ひゅんと何かが風を切る音がした。
「離れろ。獣」
低く涼やかな声が聞こえた。
それはいつか聞いた声だった。懐かしい────とても懐かしい声。
開いた目に飛び込んだフェンリルの顔の横、光り輝くミスリルの細身の剣。その刀身には植物の文様が刻まれていた。
その向こうに、真っ直ぐな淡い金色の髪が陽の光を浴びて揺れる。
その瞳は鮮やかなすみれ色だった。
「クルフィン!」
叫んだ声に、柔らかい微笑みが答えた。
一瞬の隙をついて、フェンリルが尾で剣を弾こうとする。
動きを読んだクルフィンが剣を引き、その隙間から大きさに似合わぬ俊敏さで、フェンリルが軽やかに空に跳び上がると、木の枝をバネにして広場の隅に降り立った。
「黄泉の道を下ったエルフが何用だ!」
フェンリルが歯をむき出しにすると、背中の毛を逆立ててうなった。
「メリドウェン様」
クルフィンが手を差し出す。
その手をつかむとすみれ色の目が微笑んだ。ぐいっと引っ張られた手は温かかった。──まるで生きているように。
立たされて後ろ手に隠される。
黄泉の道を下る──
さらりと背中に流れる淡い金色の髪を懐かしいと思う。
すみれ色の瞳をもう一度見たいと何度も思った。
何度謝ったことだろう。
何度泣き叫んだことか。
さっきまでは当たり前だと思っていたこと。
クルフィンがわたしの守護騎士であり、兄達の友人であったこと。いつも側にいて護っていてくれたことが実は当たり前のことなどではないと気がついて愕然とした。
ちゃっと音を立てる精巧な細工に入ったミスリルの胸当て。
その下の純白の絹の衣に白の外套は……
それは、エルフの騎士の死に装束だった。
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