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9.忘れられない過去
『……なあ市原。俺はお前を、どうしても許せない』
一度は無視したものの、大雨の中俺に深いキスをしてきた宇都木の言葉が胸に引っかかって、俺は浴場の湯船に浸かって物思いにふけっている。宇都木はどうやら、部屋のシャワーで身体を温めるようで浴場には来ないからこんな時間だし屋敷の風呂は俺の独占状態だ。
(ってゆうか響ちゃん、宇都木にキスされてた、)
それでも彼女は、『宇都木となら、何とも思わない』と。それってどっちの意味だ? 宇都木となら、『キスしなれている』から? それとももっと、『家族みたいに親しいから』とか……そういう意味にもとれる。
『俺にキスされる響を見た時、どうだった?』
どうってそりゃあ怒りに震えたさ。響ちゃんのことを守りたい俺は、彼女が他のどの男に触れられることをも許せないのだから。でもそれは、決して響ちゃんへの劣情から生まれる感情ではない。それだけははっきりしている。俺は響ちゃんに『過保護』なのだ。
(俺、変なのかな……この前出会ったばかりの女の子にこんなに執着して)
思って両手で顔面に湯を浴びせて『ぷは』と息を吐いたところで、浴場の入り口に小柄な人影が浮かんで俺に声をかけてくる。
「市原さん、ちょっと失礼しても大丈夫ですか?」
「えっ、響ちゃん?」
「色んなことのお詫びに、お背中を流してさしあげたいんですが」
「そんなこと、ってかお詫び? あっ、ちょっとちょっと!!」
「失礼します」
案外大胆に響ちゃんが浴場の扉を開けて、ポニーテールにTシャツ短パンの袖をまくった姿で中に入ってくる。俺は焦って痴漢に遭った女の子みたいな気分で股間を隠して、『うわぁ』と声を上げた。
「すみません、市原さん。でも私、あなたにはいろいろ迷惑をかけたからと思って」
「いやいや、響ちゃんには迷惑なんてかけられてないけど!?」
「宇都木さんが、色々面倒をかけているでしょう? それって彼を巻き込んだ私の責任ですから……湯船から上がって、こっちの椅子に座っていただけますか?」
「また宇都木……」
響ちゃんはなんていうか、宇都木と本当に親し気で、家族みたいなのだ。やっぱり響ちゃんは、宇都木と家族みたいに親しい。思うところはあるが響ちゃんが確固たる意志を宿した瞳で俺の方を見ているから、少し間をおいて、やっぱり股間を隠しつつ俺は、響ちゃんに言われた通りにする。洗い場の鏡の前、椅子に座ると響ちゃんが俺の後ろに膝をついて、彼女が持っていたタオルを湯に浸してから泡立て始める。
「逆に悪いよ。主演女優にこんなこと」
「……良いんです。本当は『お詫び』だなんて口実で、私があなたにこうしてあげたいだけですから」
「えっ」
「では、お流ししますね」
振り返りかけて止めて、響ちゃんが優しく労わるように俺の背中を洗ってくれるのにムズムズする。『かゆい所はありませんか』なんてお決まりの台詞にも『ああ、うん』程度で俺は落ち着かなくて、浴場の湯気の中、丹念に俺を洗ってくれる響ちゃんに、それとなく宇都木とのことを聞いてみる。
「響ちゃんってさ、宇都木とはどういう付き合いなの?」
「えっ?」
「いや、随分仲が良いみたいだから……それに、」
「それに、何ですか?」
宇都木が俺に、やたらと君のことを聞いてくるから。とは言いにくく、言葉を濁して黙り込む。俺が黙り込むと彼女の言葉を待っていると思ったのか、響ちゃんは少し暗い声になって俺の質問に答えてくれる。同時にザパーッと背中が流されて、俺の背中はスッキリ綺麗になった。
「幼馴染なんです」
「ん?」
「宇都木さんとはひとつ違いの幼馴染で……今でも近所付き合いがあって」
「ああ、それでああいう」
「でも宇都木さんは、私なんかには興味ないですよ?」
「ハハッ、そうは見えないよ」
「だって宇都木さんは昔からずっと……」
言いかけて、響ちゃんがそっと俺の背中に寄り添ってくる。その温かい気配に俺は、何故だかズキズキと頭痛を催す。響ちゃんの言葉が続く。
「あなたにこうしてあげることが出来て、わたし、とっても嬉しい」
「……響ちゃん?」
「ねえ市原さん。私には、ずっとずっと忘れられない過去があるんです」
「……過去」
響ちゃんの言葉が続く度、頭痛が強くなってきて、俺は頭をぐらぐらさせる。それでも響ちゃんは俺の背中にくっついたまま、憂いを帯びた声を止めることは無い。
「市原さんには、ありませんか? 『忘れられない過去』、『忘れてはいけない過去』」
「俺、は……昔のことは、」
「思い出して欲しいだなんて、あなたに言える立場じゃないけれど……でも私、どうしてもあなたと」
「っ、」
思い出して欲しい? 響ちゃんが、俺に、思い出してほしいことって……考えるとビギッ!! と頭が割れるように痛んで俺は、フッと意識を失って響ちゃんの前で、浴場で椅子から転げ落ちた。
「っ市原さん!!」
響ちゃんが悲痛に上げている、その声が遠い頭の中に響いている。その声はとても、聞き覚えのある声色で……おれはいつかも、彼女をこうして悲しませたな。混濁する意識の中でそんな風に考えたけれど、どうしても俺は『都合の悪いことは忘れる』頭をしている。次に目を覚ますまでにはそのことだって忘れてしまうのだろう。
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