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第一章
──あの頃に戻りたい。
空を見上げる佑里斗の心は泣いていた。
◇◇◇
高校三年生。
施設で育った高津 佑里斗にはお付き合いをしている人がいる。
四歳年上の羽田 隆志はアルファで、オメガの佑里斗が大学に進学すると同時に番になろうと二人で決めていた。
それなりに頭が良く、努力家であったので、狙っていた大学に特待生として入学することができ、それから同棲を始めて、最初の発情期で念願の番になれたのだ。
大学は思っていたよりも大変で忙しかったが、毎日が幸せだった。
新社会人となった彼は帰りがだんだんと遅くなって行き、大学から帰宅した佑里斗が家事や料理をすることがほとんど。
けれど、それでも帰ってきた彼が自分の作った料理を「美味しい」と言って食べてくれるのは嬉しかった。
──それなのに。
番になって約半年。
佑里斗の目の前で土下座をする隆志の姿があった。
「本当にごめん……っ!」
「……い、意味が、わかんないん、だけど……」
つい先程、「話がある」と言われ何だろうと少し不安に思っていたのだが、その不安が的中した。
なんと隆志は浮気をしていたのだ。
段々と遅くなっていた帰宅時間は、どうやら仕事終わりに浮気相手と会っていたようで。
しかも、相手との間に子供ができたらしい。
佑里斗は呆れを通り越して幻滅した。
何も言えなくなり、黙ったまま頭を抱えて椅子に座る。
子供を育てるのにはお金がかかる。
浮気相手が一人で子供を育てていくにはきっと余裕が無いだろう。
土下座をしたまま動かない隆志に深く息を吐いた。
「……どうするの」
「っ、」
隆志はゆっくりと顔を上げる。
そして言いにくそうに視線を彷徨わせ、少ししてから口を開いた。
「佑里斗には、申し訳ないけど……」
「……」
ゆっくりと目を閉じる。
これから何を言われても、自分のために冷静でいなければと唇の内側をグッと噛んだ。
「相手と子供の二人を不幸にするか、お前一人を不幸にするかを選ぶなら、俺は一人がいい」
「……」
「別れてくれ」
告げられた言葉に何も言えなかった。
番ってこんなに呆気なく終わる関係であったっけ、となんとも馬鹿らしく思える。
少しの沈黙。その間にこれからの事を考えていた。
自分の未来には不安しかない。
けれどこの先産まれてくる子供のためを考えると、自分が彼を手放してあげる方がいい。
きっと、父親がいた方が母親も安心できるはず。
「わかった。でも、条件がある」
「……」
「番関係は解消するから……治療費を出して」
「わ、かった」
「明日、病院に行く」
心がどんどん冷えていく。
番と別れるということは佑里斗にとって深刻な問題だ。
隆志が居たから愛情を貰うことで寂しさを感じることは無かったのだが、『また一人になるんだな』と思うとあまりにも悲しくて。
話を終え、同棲してからずっと一緒に眠っていた寝室ではなく、自室に戻る。
ドアを閉めて、それに背中を預けズルズルと床に座り込んだ。
視界が滲み、一人静かに泣く。
涙を拭ってくれる人はもう居なくなる。これから自分の力だけで生きていかなければならない。きっと過去に番のいたオメガなんかを誰も必要としてくれない。
明日なんか来ないでくれと思った。
全部夢であってくれ、と。
◆◆◆
あれから三ヶ月。
佑里斗は羽田に追い出される形で、何も持たないまま安アパートで一人暮らしを始めた。
だがいくら安いとは言っても、月々の家賃や光熱費にお金が掛かる。
ただの大学生なので、アルバイトをしてお金を稼ぐしかないのだが、そもそもオメガを雇ってくれる会社はほとんど無い。
そんな中、ようやく見つけたアルバイトは、夜間の倉庫での作業だった。
なので昼は大学に行き夜は倉庫で作業をした。
睡眠時間はたった二時間。少しでも節約するために食費も削る。
まあ、そんな生活を送っていると体にガタが来るのは当然である。
ある日、なんとなく体が重たいと思っていたのだが、余程体調が悪かったらしく、歩いていると視界がグワンと大きく回り大学の敷地内で倒れた。
それからの記憶はなくて、気がつけば医務室のベッドの上で目を覚ました。
朝だったはずなのに、夕方になっている。
何があったのか思い出せず、時計と天井をぼんやり眺めていた。
「起きたか」
「……?」
突然声を掛けられ、その声が聞こえた方向に顔を向ける。
そこに居たのは、同じ学科で佑里斗より二つ学年が上の美澄 琉生だった。
彼はとにかく綺麗な容姿をしており、またお金持ちだとの噂があって、遠巻きにキャーキャーとよく騒がれている。
なぜ遠巻きかと言うと、本人は静かに過ごしたいタイプのようで、一人でいる事が多い。その上話しかけても素っ気なく返事されるので、若干怖がられている節もあった。
「お前、顔色が悪すぎるぞ。寝れてないのか?」
「……ちょっと、バイトがあって……」
「はっ……学生の本分は勉強だろ。倒れるまでバイトって馬鹿じゃないのか」
少し馬鹿にしたような彼の言葉にムッと顔を歪める。
どうせ、金持ちのアンタにはわかりませんよ、と。
「うるさいな……。ていうか、なんでアンタがいるの」
「倒れたお前を、俺が運んだから」
サラサラと風に揺れる金髪は、彼にとてもよく似合っている。
佑里斗は視線を逸らして「それは、ありがとうございます……」と悔しそうに口にし、ベッドから降りようとした。
「なあ、何で番がいんのにそこまで一人で頑張ってんの」
そんな時、問われた内容にギクッとして動きを止める。
「……番は居ません」
「居るだろ。噛み跡があった」
どうやら項の噛み跡を見られていたらしい。
つまり、性別をわかっていた上で助けてくれた。普通、オメガは疎まれる立場なのに。
それを知ってしまったので、正直に答えることにした。
「解消したんです」
キーンと耳鳴りがする。
心から好きで、信じていたのに、まさかこんな事になるだなんて。
俯く佑里斗に琉生は「ごめん」と謝り、気まずそうに視線を逸らす。
「余計な事聞いた。……一人で帰れるか?」
「……うん」
「……。やっぱ送ってく。家はどこ」
少し寂しかったので、彼の厚意を受け取ることにし、住所を伝える。
そうすると琉生は出会ったばかりの後輩の荷物を持ち、立ち上がったその体を支えるようにして、一緒に帰路に就いた。
◇◇◇
琉生はいつも車で登校している。
助手席に座った佑里斗は、汚したりしないように小さくなっていた。
「今更だけど、俺、三年の美澄琉生。多分お前と同じ学科」
「あ……高津佑里斗です。同じ学科です。先輩の噂はよく聞くので」
「ユリトって、花? 百合って書くの?」
「えっと……こう書きます」
学生証を出して名前を見せると、琉生は「へぇ」と頷く。
「それで、噂って何?」
「先輩はイケメンで、お金持ちだって」
彼は自分が聞いたくせにどうでもよさそうに「ふーん」と返事をして、佑里斗がシートベルトを着けたのを確認すると早速車を動かした。
車内はお洒落な音楽が流れていて、会話をしなくても特に気まずくはなかった。
ローテンポのそれは、琉生の雰囲気によく似合っている。
暫く車は走り、目的地である佑里斗の自宅に着くと、琉生はそのアパートを見て顔をググッと顰めた。
「おい。番を解消したってことは、発情期でフェロモンが漏れるようになるんじゃないのか」
「あー……そっか。……そろそろ発情期が来ちゃうな……」
「見るからにセキュリティガバガバな所だけど、ここに住んでるのか? 危ないだろ」
そう言われてパチパチと瞬きをすると、肩を竦めて苦笑を零す。
「でもお金が無いので、セキュリティのしっかりしてる所は高くて住めないです」
「……親は」
「俺、施設育ちなので」
特待生なので大学の学費は必要ないのだが、生活費はもちろんかかる。
だから少しでも安いところに住むしかない。
「こんな所、発情期になれば直ぐに襲われるだろ……」
今にも何かが出そうな雰囲気だ。
琉生は心配になって頼りない後輩を見る。
「なんか、どうでもいいかな。そういうの」
信じていた人に裏切られたことで、佑里斗は自暴自棄になっていた。
ずっと一緒にいた時間が全て無駄になって、思い出すと苦しくなるので、そもそも消えてしまいたいとすら思っている。
「良くないだろ」
「……疲れちゃって」
琉生『放っておくのは危ないんじゃないか』と思って気付けば佑里斗の手を掴んでいた。
「晩飯は? 家に何か置いてある?」
「いや……」
「体調は?」
「今はなんともないです」
「よし。じゃあ付き合え」
「え?」
一度降りた車のドアを、琉生が開ける。
座るように言われて、戸惑いながらも車に乗った。
少し強引な人だなとも思ったけれど、助けてもらった恩がある。
車はすぐに動きだし、キラキラした繁華街を走っていく。
車が止まると、「降りて」と言われ佑里斗はそれに従った。
外に出れば、目の前にある高そうなレストランに口元をヒクヒク痙攣させる。
「先輩……ここ、どう見ても高そうなんですけど……」
「ここの料理が美味しいから連れてきた」
「……わざわざ?」
「俺が食べたいし」
彼はなんてことなしに言うと、また佑里斗の体を支えながらレストランに入る。
そうして支えられると『もう大丈夫なのに……』と思ったし少し恥ずかしかったのだけれど、ありがたくそれを受け入れた。
席に着いて店員から渡されたメニューを見る。
そしてその値段に困惑した。
一番安くても四千円を超えている。これを今払うと今月の生活費が厳しくなるのは目に見えていて、チラッと琉生を盗み見る。
そんな視線に気づいた彼だけれど表情を変えない。
「先輩、俺……これを食べると今月の生活費が……」
「無理矢理連れてきたんだから金は俺が出すよ。値段は気にせず好きなの頼め」
それは有難い。
けれど、と佑里斗は苦笑しながらメニューを指さした。
「……見た事ない料理名ばかりで何なのかもわからない……」
「……肉か魚か」
「お肉」
何かの診断のように、彼に聞かれる二択の質問に答える。
それを数回繰り返すと、彼は「わかった」と言って手を挙げ、スタッフに料理を注文してメニューを返した。
彼がお金持ちだという噂は事実だったのだと知って緊張する。
なぜならテーブルマナーだとか、そういったことを学んだことがない。
「先輩……」
「何?」
「俺……マナーが、わからなくて……」
「俺と二人なんだから気にしなくていい」
「……引かないでくださいね」
真剣な顔でそう言う後輩に、琉生は思わずクッと笑う。
「引かないよ」
琉生がそう言うので佑里斗はようやく肩の力を抜いて、背もたれにヘナヘナと凭れかかった。
暫くして届いた料理はとても美味しそうで、目をキラキラさせてそれを口に運んでいく。
「わぁ……これ、本当に美味しい」
「よかった。俺のも食べるか?」
「あ、大丈夫です。美味しいから先輩が食べて」
「……遠慮すんな」
「これは遠慮じゃなくて、本当に美味しいから、一緒に『美味しい』を感じたいと言いますか……」
パクパクと料理を平らげていく。
琉生はそんな佑里斗を見てホッとしていた。
◇◇◇
お腹いっぱいになって幸せそうに微笑んでいる後輩の姿に、琉生は何故だか思わず手を伸ばしそうになった。
グッと堪えて「もう食べない?」と彼に問いかける。
「はい。すごくお腹いっぱいです。もう何も入らない」
「そうか」
「久しぶりにこんなに食べたかも。最近はずっともやしばっかりだったので」
「……節約のため?」
「はい。でもたまに豆腐とかコンニャクとかも食べてたな。コンニャクをステーキにするんです」
彼がニコニコしながら話すのを聞いて、少し寂しい気持ちになる。
きっと元番と一緒に暮らしていた時は、しっかり食事や睡眠をとっていただろうに、と思って。
どうして番を解消するという、普通では考えられないことになったのかはわからない。
なぜなら、琉生は彼の元番と同じアルファで、オメガは庇護対象だからだ。
一部のアルファやベータは何かを勘違いしている。
オメガは決して虐げられるような対象ではない。
それなのに毎日流れるニュースでは、オメガ関する事件が報道され、何か不都合が起きれば彼らのせいになる。
そもそも、希少であるのは同じなのにアルファだけを大切にし、オメガを大切にしないその感覚がわからなかった。
だからまさか、番になるという奇跡にも近いことが起きたのに、それを自らの手で手放す馬鹿が存在していることに驚きを隠せないのだ。
食事を終え、車に戻った二人。
佑里斗は明るく「ご馳走様でした!」と琉生にお礼を伝えた。
またどこかに連れて行ってやろうと、助手席に座る彼に「ん」と返事をしながら顔を向けた琉生は、切なそうに窓の外を眺める佑里斗を見て、思わず口を開いていた。
「何で番を解消したの」
細い肩がピクッと揺れる。
少しすると小さく息を吐いた彼は、外を見ながらボソボソと話し出した。
「浮気されてたんです。子供もできちゃったみたいで」
ハァ? っと目を見開く。
番がいて、浮気。その思考が信じられない。
「……クズだな」
「あはは……」
乾いた笑い声が、とても寂しそうだ。
「それで……不幸にするなら、二人より一人がいいって」
「まさかそれ、黙って受け入れたのか」
「……黙っては無いです。解消するには身体に負担がかかるので、その治療費はもらいました」
そんなの当たり前だろ。
琉生は眉間に皺を寄せ、ここにいない佑里斗の元番を心の底から軽蔑した。
「生活費とか、そういうのは?」
「あ……これから子供にお金が掛かるだろうし、そういうのは貰ってなくて」
自分のことを考えず、番とその浮気相手の間に産まれてくる子供を優先する後輩にどれだけお人好しなんだと言いたかったのだが、ふと彼が施設育ちだったことを思い出した。
これはきっと何の罪のない子供が、自分のように苦労してほしくないという彼の優しさだ。
「……馬鹿め」
「馬鹿じゃないですよ。これから産まれてくる子供には幸せになってもらわなきゃ。俺は別にもう、そこまで望まないし」
「……それやめろ」
琉生は大きな溜め息を吐く。
そう言われた本人は、けれどなんのことか分からず首を傾げるだけ。
「自分を蔑ろにするな」
「え、っと」
「自分の気持ちに嘘をつくな」
「っ……」
琉生がそう言うと、佑里斗は顔を歪めてグッと唇を噛んだ後、堪えきれなかった涙をポロポロと零し出した。
今度は我慢せずに涙を流す彼に手を伸ばし、頭をガシガシ撫でてやる。
「見てないから、気が済むまで泣け」
「っ、ふ……」
不器用に頭を撫でる琉生の温かさが、佑里斗にとって今はなによりも嬉しかった。
そうして暫く泣いていたのだが、ある時から音が止み、琉生は佑里斗が泣き止んだのだと思ってそちらに顔を向ける。
「……寝てる」
が、どうやら泣き疲れて車で眠ってしまったらしい。
眠ってしまった後輩をどうしたものかと、琉生はガシガシ頭を掻く。
勝手に家に入るのは気が引けるし、なによりあのアパートに発情期間近なオメガを一人置いておくのは不安だ。
──連れて帰るか
静かに一人頷いた琉生は、自宅に向かって車を発進させた。
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