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第二十九話
クリスは、ここのところずっと、消えない記憶に心を掻 き乱されていた。
それでも、今までは何かをしていれば考えずにいられた。
しかし、最近では仕事をしていてもダグラスに抱かれていても、何をしていても頭から離れない。
消える事のない記憶は、クリスの頭の中に、全てが色褪 せる事なく鮮明 に残っている。
例え、一時的に過去の記憶から解放されたとしても、また、苦しみが波のように押し寄せて来るのは分かりきっていた。
きっと、生きている限り縛 られ続けるに違いない。
そう考えると、クリスはとてつもない恐怖に襲われた。
『苦しい』
クリスは、最後のページを書き終えると、ノートをそっと閉じた。
そして、ノートをサイドテーブルに置くと、ベッドマットの下に手を差し入れた。
ダグラスは、午後からの打ち合わせが珍しく早く終わったので、帰りがけに洋菓子店に寄った。
最近、クリスは酷く落ち込んでいて、食事もあまり摂 っていない。
だから、せめてなにか食べられればと思い、デザートを買いに来たのだ。
『少しでも食べてくれるといいが』
ダグラスは、買い物をすませると、急いでクリスの待つ部屋に向かった。
ダグラスが戻ると、クリスはいつものように入口を背にして座っていた。
「ただい……」
言いかけて、ダグラスは言葉を飲み込む。
クリスは、拳銃 を握 りしめ、今まさに自分を撃 とうとするところだったのだ。
ダグラスは、手に持っていた箱を落とす。
「クリス! やめろ!」
ダグラスはその背に向かい叫んだ。
クリスは、声に反応するように椅子 を回転させると、ダグラスの方を振り向いた。
「おかえり」
クリスは、いつもの調子で挨拶 をする。
まるで、今のこの状況が嘘のようだった。
しかし、その手にはしっかりと銃が握られて、指は引き金にかけられている。
「クリス、銃を下ろすんだ。それをこっちによこせ」
必死な顔で手を差し出すダグラスを見て、クリスは、悪戯 を見咎 められた子供のような顔になる。
「見つかっちゃった」
「そうだ。見つかった。だから銃を下ろすんだ」
クリスは、サイドテーブルに少しだけ視線を向けた。
「あそこに、今後の対策を記 したノートがある。その通りにやれば、対外対策は大丈夫。だから心配しないで」
クリスは、自分が苦しい筈 なのに、こんな時にまで会社の心配をしていた。
「今は、そんな事を話してるんじゃない。クリス、お願いだから銃を下ろしてくれ」
ダグラスは、必死に語りかけながら、少しずつクリスの方に近付いていく。
それを制するように、クリスは凛 とした声で告げる。
「それ以上、来たら、撃つよ。まあ、来なくても、どうせ結果は同じなんだけど」
クリスは、ここ最近、酷 く不安定だった。
だから、凶器になりそうな物は部屋から全て排除 してあった。
なのに、クリスは銃を持っている。
ダグラスには、この状況が理解出来なかった。
「何かあったなら話を聞こう。だから銃を下ろすんだ」
そう言われて、クリスは、ぼんやりと視線を宙に彷徨 わせた。
「何か、か。そうだね、多分、何もない。ただ、苦しいだけ」
「何が苦しい?」
「自分の存在、全て」
クリスは、悲しそうに笑った。
「私も、それを一緒に引き受けるから。だから、その銃を下ろすんだ」
クリスは、首を小さく横に振った。
「精一杯 、頑張ってみたけど、もう、無理なんだ」
「無理じゃない! だから銃を下ろすんだ」
「僕には、もう無理なんだよ。感情に振り回されて追いつけない」
「クリス、銃を下ろしてくれ」
「聞いて!」
懇願 するダグラスに、クリスは大きな声で告げた。
その声に、ダグラスが口を閉じると、クリスは、ゆっくりと話し始めた。
「でもね、僕は感情を取り戻せて良かったって思うんだ。だって、それがあるから社長を好きになれたんだから」
クリスの頬 を涙が伝う。
それは、クリスがはじめて見せた涙だった。
「死ぬ前に、社長に会えて良かった。今までありがとう。社長の事、大好きだったよ」
クリスは、泣きながらくしゃりと笑った。
そして、クリスは引き金を引いた。
乾いた銃声が部屋に響き、クリスの体が静かに崩れ落ちた。
「クリス!」
ダグラスは、クリスに駆け寄り抱きしめた。
銃声を聞きつけて入って来た警備員は、その光景 を見て動きを止めた。
そこには、動かなくなった少年を抱きしめ、涙を流すダグラスがいた。
「クリス。お願いだ。目を覚ましてくれ」
それが叶わない事は、ダグラスにも分かっていた。
それでも、願わずにはいられなかった。
恋人でもなく、ましてや愛人でもなく……。
二人の関係は、いつまでも宙 ぶらりんのままだった。
クリスは、その気持ちを言葉で伝える事もなかったし、それをダグラスに求める事もしなかった。
ダグラスも、それをクリスに伝える事はなかった。
どちらかがそれを言えば、関係は変わっていたのかも知れない。
二人に必要だったのは、たった一つの言葉だったのだったのだ。
「愛していたんだ。それをまだ伝えていない……」
クリスは、愛を知らない子供だった。
ダグラスは、この気持ちを伝えて、愛を教えたかった。
どうして、生きているうちに言えなかったのかと、ダグラスは、激しく後悔した。
しかし、そんな事を言っても、もう遅いのだ。
「クリス、愛してる。愛してる」
ダグラスは、クリスの体を愛おしそうに抱きしめ、肩を震 わせて泣いた。
警備員は、どうしていいか分からず、ただ黙って見守る事しか出来なかった。
こうして少年は、この世からその記憶と共に自分を抹消 した。
彼は、もうこの世にはいない。
それが、ただひとつの真実だった。
クリストファー・ラングレー。
享年 十三歳。
あまりにも、若すぎる死であった。
せめて、安らかに……。
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