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ラウルと、彼の救いの光
悲鳴めいた軋みを上げる木の扉を押し開くと、眩しい朝の光が薄暗い小屋に飛びこんできた。ラウルはそれを避けるように片手を上げ、無遠慮な日差しから顔を背ける。
――キョウ、ワ、イイテンキ♪
昨夜まで腕の中にいた人形の、歌うように繰り返していたそのかん高い声が、まだ耳について離れない。
晴れの日は嫌いだ。否応なく注がれる強烈な光で、全身が焼けつくされそうに感じる。
ラウルは小屋の扉を念入りに閉めると、重い足をひきずり歩き出す。
途中、朝早くから畑仕事をしている顔見知りの女性たちと目が合った。
「あ、おは……」
ラウルが挨拶しかけると、彼女たちはまるで何も見なかったように目をそらし、あたふたとそれぞれの家に駆け戻って行ってしまった。
ラウルも、見なかったふりをする。問題ない。畑には誰もいなかった。誰とも会わなかったのだから、無視されたわけではない。そう言い聞かせる。
もう誰とも目が合ったりしないよう視線を足元に固定して、ラウルは歩を進める。気にすまいと思っていても、家の窓からそっと自分を盗み見ている幾多の視線からはどうしても逃れられない。
集落の中の誰よりも、自分は注目されている。だが、話しかけてくる者はもちろんいない。あの日から半年、ラウルは師匠以外の人間の誰とも言葉を交わしていない。
――キョウ、ワ、イイテンキ♪
――キョキョキョキョウ、ワワ、イイイイテンキ♪
あのおしゃべりな人形と別れる前に、もう少し話でもしていればよかった。少なくともあの人形は、自分を無視したり逃げ出したりはしないから。
「今日は、いい天気……」
下を見たまま、ラウルはつぶやきながら歩く。そうしていないと言葉というものを忘れてしまいそうだった。
今日はいい天気、今日はいい天気……。
何度もつぶやいていると、まるで自分ができそこないの人形にでもなったような気がしてきた。
集落のはずれの小高い丘まで来ると、まといついてくる視線からやっと解放された。ラウルは深く息を吐き、集落全体が見渡せる場所に腰を下ろす。
ピーチュチュッと頭上で鳥の声がして顔を上げたが、眩しすぎてすぐまた俯いてしまった。晴れの日は、嫌いだ。
「ああラウル、ここにいたのかい」
やわらかな声とともに近づいてくる気配。覚えのある手が肩にそっと置かれた。ぬくもりが伝わったが、ラウルは顔を上げない。
父や兄のような存在の師匠、パオロの前では何も取り繕わなくていい。こんなことになった理不尽さへの恨みを、八つ当たり的にぶつけてしまうことだってある。そのたびに胸が痛み後悔が湧き上がるのに、そうせずにはいられない。吐き出す場所が見つからないと、心が砕けてしまうから。
パオロを悲しませる言葉を口に出したくなくて、ラウルは唇をきつく噛んだ。
「や~、いいお天気だねぇ。風が爽やかだし、日差しもほかほかして気持ちがいいね」
隣に座り空を見上げているらしいパオロが、のんびりと口にする。
「晴れの日は嫌いです」
ラウルは隣を見ずに言った。パオロは無言で、ただラウルの強張った背中をぽんぽんと優しく叩いている。何もかも全部、わかっているよ、というように。
嘘だ。彼にわかるはずがない。
――胸を張っていなさい。
パオロはいつもそう言う。
――君の力はとても尊いものだ。いつかきっとみんなにも、そのことがわかる日がくるだろう。
だから俯いていてはいけないよ、と。
だが、パオロにはわからない。才能に溢れた穏やかな人格者で、集落のすべての人から敬われ慕われている人に、目が合っただけで顔を背けられ疎まれてしまう者の痛みが、どうして理解できるというのか。
ラウルは、ただじっと唇を噛み締めている。背に当てられた手のぬくもりを、いっそ振り払いたいくらいにうっとうしく思いながら。
「ラウル、こんな話を聞いたことがあるかい?」
パオロの声は静かな霧雨のように、乾いた心に沁みる。
「人には皆、一人一人に天使がついているそうだ。その天使は人が悲しみに俯いているときでも、空を見上げ、その人が救われるように祈ってくれているそうだよ」
天使? 空想好きな先生の好みそうな話だな、と心の中で乾ききった声がつぶやく。
「そしてね、なんと天使はその人を助けるために、天使の身分を捨てて、人となってそばに来てくれることもあるらしい。とてもいい話だと思ってねぇ」
突拍子もないおとぎ話を本気で信じているかのような、少年めいた声でパオロは語る。
百歩譲ってそんなことが本当にあるのだとしたら、きっとパオロにはさぞ美しく清らかな天使がついているのだろう。
だが、自分にはいない。神はおそらく、天使を遣わす人間を選んでいるに違いないのだから。
「ラウル、もしもだよ、もしも天使が君の前に現れたら、その天使の名前をいっぱい呼んであげるといい。天使もきっと、君の名前を呼んでくれるよ。そのときには、君がずっとひとりではなかったことがわかるだろう」
「いませんよ」
呆れて聞いていられず、吐き捨てるように言って軽く睨んだ。眼鏡の奥の瞳は変わらず優しくラウルを包みこみ、口元は静かに微笑んでいる。ラウルはすぐに目をそらす。パオロに反抗的な態度を取ってしまうたび、いつも苦みが胸に満ちる。
いませんよ、そんなもの、と痛みを堪え、心の内で繰り返す。
天使などいない。いても、自分とは関係ない。
俺はひとりだ。ひとりでいい。
そう声なくつぶやいた瞬間、目の前の景色が色を失い、何か重いものに押しつぶされそうに苦しくなった。
冷えていく体の中で、うっとうしい手から伝わるぬくもりだけが、ラウルをこの残酷な世界に留めていてくれていた。
「ラウル……ラウル?」
名を呼ばれハッと顔を上げた。隣でピノがニコニコと微笑んでいる。
「どうしたの? ぼうっとしてたね」
「ああ、悪い。ちょっと、昔のことを思い出してた」
これまですっかり忘れていたはずの20年も前の出来事が、なぜ急によみがえってきたのだろう。
「大丈夫? それ、悲しいこと?」
心配そうに顔をのぞきこまれ、いや、と首を振る。
「たいしたあれじゃない。大昔のことだ」
つかのまの追憶がつれてきた微かな痛みを、ラウルは首を振り追い払う。
大丈夫だ。ここにはピノがいる。癒してくれるぬくもりが、すぐ隣にある。
ピノはじっとラウルを見つめてから手をさわさわと優しくさすると、空気を変えるように「ほら見て!」とテーブルの上を示した。大きな丸いデコレーションケーキに、色とりどりのロウソクが等間隔に飾られている。
「全部で11本! おれとラウルがお知り合いになってから、もう11年もたったんだね」
ピノはニッコリと嬉しそうに笑い、うんうんと頷く。
――2人がこの家で会った日に、毎年お祝いをしよう!
そう言い出したのはピノだ。おれの中で一番大事な日だから、と。
――お誕生日より大事だよ。
ピノは照れくさそうに笑った。
――俺は記念日とかはいちいち覚えていられないほうだから、おまえが覚えておけよ。
なんとなくむずがゆいような感じになってピノから目をそらし、どうでもいいという態度を装って言った。
――うん大丈夫! おれ、ラウルの分もちゃんと覚えておくからね!
もちろん、ラウルだって忘れたりはしない。その日はラウルにとっても、祝うべき一番大切な日なのだから。
「きっとこれからも、おれたち楽しいことがいっぱいだね。さぁ、ラウルはロウソクに火をつけてね。おれは明かりを消すよ」
ワクワク顔のピノが部屋の明かりを消すと、ロウソクの火が夜空の星のように輝いた。その11個の小さな星を眺めながら、彼と出会ってからの1年1年の尊さを思う。
つらかった記憶よりも、楽しかった記憶のほうが圧倒的に多く、色鮮やかだ。すべての悲しみは、彼がそばにいることで喜びに変えられてきたからだろう。
たった一人のひとが、トンネルの中でうずくまっていたラウルを導き、進む道を明るく照らしてくれた。
エヘヘと照れながら、小柄な体がラウルにぴったりと寄り添ってくる。
「明日からも、おれラウルとずっと一緒! たくさんたくさん、ロウソクを立てられますように!」
ロウソクのやわらかい光に包まれる恋人の笑顔は、この先も悲しいことなど何もないと言わんばかりの輝く希望にあふれていた。
――人には皆、一人一人に天使がついているそうだ。
霧雨のように優しいパオロの声がよみがえり、ふいに熱いものがこみ上げてきた。部屋が暗くてよかったと思う
。
――天使はその人を助けるために、人となってそばに来てくれることもあるらしい。
――その天使の名前をいっぱい呼んであげるといい。
「ピノ」
震える唇で名を呼んだ。
「うん? なぁに?」
彼が応える。
「ピノ」
もう一度呼んだ。
「はーい! ラウル!」
ひまわりのような笑顔で手を上げ、呼び返してくれる。
「……ピノっ」
「ラウル! ラウル、大好きだよ!」
全力で両手を伸ばし抱きついてくる体を受け止める。声がみっともなくかすれてしまいそうでそれ以上は呼べず、ラウルはただ愛しい人の背に手を回して力をこめる。
2人でロウソクの火を吹き消して部屋の明かりをつけたら、パオロから聞いた天使の話をしてやろう。おとぎ話の好きなピノはきっと気に入るに違いない。
けれどそれまでもう少し、このまま抱き合い確かめていたい。伝え合うぬくもりが教えてくれる、とてもとても大切なことを。
天使は、ラウルにもいた。ラウルはもう、ひとりではない。
☆END☆
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