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第8話
それから数日して、私は所用の為に、庭園を横切って離宮と呼ばれる最北にある建屋へ行かなければならなかった。彼は、翌日にはいつも通り、私を寄せ付けない笑顔を貼り付けたまま、変わらぬ温和さで接してくれた。夕食を取り、本の話をして、そして、酒を酌み交わす。それも変わらず、また、酒の味も戻ったので、気分が和らいだものだったが、神殿という場所にふさわしからぬ、怒鳴り声が聞こえてきて、足を止めた。
「大神官さま、お早く」
傍に仕えていた神官が、私をせかすが、声の方へ行くことにした。一瞬、彼の声が聞こえたような気がしたからだ。私は、声に導かれるようにして、庭園を突っ切っていく。声は、庭園の|四阿《あずまや》のほうから聞こえてくる。目を凝らしてみると、そこに人影が見えた。五人ほどいる。彼の姿は見えなかったので、一瞬、胸をなでおろしたが、
「撤回しろ!」
という彼の語気の強い怒鳴り声が聞こえてきて、足を止めてしまった。彼らは、私が近づいてきたことを知らない。傍仕えの神官が「彼らを止めましょうか」と申し出たが、手で制した。彼が、こんな風に怒鳴りつける理由を知りたかったからだ。少し近づいて、物陰に隠れて耳を澄ませる。一体、私は何をしているのか。こそこそと、他人の会話に聞き耳を立てたことなど、今まで一度もなかった。庭園の物陰に隠れ、座り込んで盗み聞きをしている姿を想像したら、笑いがこみあげてくる。
「事実だから、そんなにムキになって怒るんだろう? 一体、どうやってあの方に取り入ったか、教えてくれよ!」
一瞬、私は、思考が飛んだ。愉快な気持も、なにもかも、全部消し飛んで、頭の中が真っ白になる。彼は、私の為にこんなところで喧嘩まがいのことをしているのだ。そのことに、気が付いたからだ。
「五年も、身体を売ってたんだから、さぞかし、技術は上等なんだろう?」
「あの、潔癖症な大神官様をたらしこんだ腕前を見せてくれよ」
私は彼らの顔を見ていないが、彼らがどんな野蛮な表情を浮かべているか、容易に推測できた。胸が悪くなる。
「毎日毎日、お召しだもんなぁ」
「それで、お前は、どっちでお仕えしてるんだよ」
「ああ、あの方だったら、外見だけは美しいからな。俺なら、やる方にまわるな」
ゲラゲラと男たちは笑う。私も、一部の者たちに、嫌な視線で見られることがあるのを自覚はしていた。陰ではこのようにあからさまに、言われていたのだろうが、耳にするのは始めてだ。ここで出て行って良いものか、迷っていたが。
「いい加減にしろ!」
叫びながら、彼が殴りかかったのが解った。おそらく、誰かの顔に彼のこぶしが叩きつけられたのだと思う。殴られたものは、地面に這いつくばったのだろう。鈍い、音がした。
「この野郎!」
「押さえつけろ!」
いけない、と立ち上がろうとしたのを、傍仕えの神官に止められる。こんなことにかまっていないで、早く離宮へ迎えということなのだろう。だが、黙っていることは出来なかった。
「そこまでにしておけ!」
彼は、両腕を抑えられ、足までも抱えられた状態で、暴れていた。彼を押さえつけていたものたちの顔は青ざめ、そして、彼は私を見て、はっとしたように驚いた顔をしてから、今まで見たこともないほど、顔を赤らめて唇をかんだ。
「まず、彼を放しなさい」
神官たちは、しぶしぶ、彼を開放する。ばつが悪そうに顔を見合わせてから、うつむいたていた。傍仕えの神官が私の衣装を引っ張る。時間がないのだろう。それはわかっているが、ここを放置するわけには行かない。
「事実だけを手短に聞きたい」
私の言葉に応じたのは、神官だった。
「その、ちょっと、私たちが、こいつを、からかったんです。そうしたら、怒鳴って殴りかかってきたので、つい、むきになって、言いすぎました」
「反論は?」
私は彼に問うた。彼は、黒曜石のような瞳を、ギラっと煌めかせてから「からかったというより侮辱です」と言い切る。
「では、どのような言葉であったか、第三者である私が判断しよう。君。君は、彼をどういう言葉でからかったのか?」
神官の顔が青ざめていく。私に、面と向かって口に出来る類の言葉ではないのだろう。先ほどのやり取りを聞いていれば、明白だ。私は、ため息を吐いた。神官として、神殿に奉職するだけの仕事であれば、楽なものだが、実際は、こうして些末なことに時間と労力を取られる。そのことに、何かが摩耗していくような感覚がある。
「私は、彼と古代の言葉で会話をして、書物についての造形を深めているのだが」という言葉を、滅びてしまった国の言葉で神官たちに伝える。
「彼らはそれを信じませんよ」
私たちの言葉で、彼がよこから口をはさむ。神官たちが、ぽかん、と口を開けているのを見て、彼は、私の言葉を意訳した。
「大神官様は、滅びてしまった国の言葉で書物を読むために、私を部屋に招いて、書物の話をしていると、言っています」
「毎日?」
「毎日です。その為に、俺は、毎日、図書館で本を翻訳しています。それが、俺の仕事です。この人が、もう少し忙しくなければ、日中に話をしますよ」
細い刃物を一気に胸につきたてられたような、瞬間的な痛みを覚えて、背中が冷たく震える。彼は、吐き捨てるように、言った。これは、彼の、本心なのだろうか。彼のまなざしは、ひどく冷え切っていて、私は、厭な動悸がするのを必死で、堪える。
「それに、あなた方が、古代の言葉がわかれば、大神官様は、俺じゃなくて、あなた方をお召しになりますよ」
投げやりな言葉だった。足元がふらつく。彼が、何を言っているのか、次第に、わからなくなる。眼の前が、暗くなっていく。
「えっ? ちょっと。どうしたんだよ、あんた、顔色が……」
心配そうなまなざしと、切羽詰まった声を聞いたとき、私の中で張りつめていたものが、ぷつん、と途切れた。そして、私の意識は、急激に、急速に、闇に飲まれていった。
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