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第10話

 私は、二日寝ていたらしい。  目覚めた時、あまりにも目覚めないので心配したと、寝台の端に縋り付いて泣く、側仕えの神官の姿を見たとき、少し、悪いことをしたという気持ちになった。  彼、は……この神官は、私を心配していると言っていた。それを当然のこととは思わないようにとも忠告していた。彼は、この神官をなんと言っていたか。たしか。 「マーレヤ」  私が、神官の名を呼ぶと、「えっ?」と目を大きく瞬かせて、驚いていた。菫色の大きな瞳が綺麗だった。初めて、私はそのことに気がついた。 「心配を掛けたようで、済まない。その……」  何を言って良いのか、よく解らずに、戸惑っていると、マーレヤが、笑う。明るい笑顔だった。 「お食事を用意します。その前に、お召し替えと、なにか飲むものをお持ちしますね!」  駆けだしていくマーレヤの姿を見て、私は驚く。名を、呼んで、少し労っただけだ。しかも、嘘を言ったり、マーレヤに取り入ったりしたわけではない。なぜ、あんなに、喜んで走り出したのか。  その時、私はふと、あることを思いついた。彼も、私に名を呼ばれれば、あんな笑顔で応じてくれるのだろうかと。  朝食は粥が用意された。珍しいことだったが、マーレヤが、二日も寝込んでいたあとなので身体に良いものをと用意してくれたらしい。それは、別のものから話を聞いた。沐浴の支度をして貰い、着替えを用意して貰い身支度を手伝った貰った段になって、彼の言葉が、脳裏を過った。役目というならば、度を超している。これはマーレヤが個人的に私に好意を寄せて、私のために手配したことが多々含まれているのだ。そのことを、私は、どう労えば良いのか解らない。 「マーレヤ、彼に……シンに会いたい。部屋に居るだろうか」  マーレヤは、「少々お待ちください」と答えて、駆けだしていく。そんなに慌てずにいいのに、と思ったが、私の望みをできるだけ速やかに叶えようとしての行動だ。そんなことに、やっと気がついた。ややあって戻ってきたマーレヤは、「大神官様、シン様は、今お庭の散策をなさっているとのことです」と息せき切って戻ってきた。 「そんなに急がずとも良かったのに……彼は庭に、居るのですか?」 「はい。晴れた日は、よくお庭を散策されていますよ」  以前、私は彼が言った、陽の光が健康に必要だということを思い出した。異世界での慣習を続けているのだろう。そういえば、彼が、どんなところで過ごしていたのか、私は、彼に聞いたことはない気がした。どんなところで、何をして、何を思って生きてきて、今は、ここで―――ここの暮らしを、どう思っているのか……。 「私も、庭へ出てみます」 「はい、それでは、お供いたします」  外は寒いから、こちらをどうぞ、とマーレヤは私に肩掛けを差し出す。それを受け取って肩に掛けてから、妙に、ぽかぽかした気持ちになっていた。 「彼が居る場所は、どのあたりか、知っていますか?」 「はい。庭園の真ん中です。庭園が見渡せるのですが、そこで、しばらく立っておられます。私も、何度かそのお姿を拝見しております」  庭園で、ぼんやり立ち尽くしている。彼が、意味のない行動を取るとは思えない。なにか、理由があるのだろう。考えて解らないなら、聞いてみれば良い。異世界での風習なのだろう。だとすると、異世界人は、庭園の真ん中で、日中、ぼんやりと立っているようなことがあるのだろうか。何十人も、そうやって、ただ立っているだけの光景を想像してみるが、あまりにも奇妙で、想像出来なかった。  外は、マーレヤが言うとおり、肌寒かった。肩掛けがあるおかげで、助かった。しかし、彼は、こんな寒さの中、立っているのだろうか? 庭園の中心まで行くと、確かに、彼の姿があった。私は、どう、声を掛けて良いものか迷ったが、彼の名を呼んだ。 「シンタロ」  初めて、彼を、呼んだ。  異国の響きが、口に慣れない。彼は―――シンは、私を振り返り、驚いて目を丸くしていた。それから、嬉しそうに目を細めて笑う。名前を呼んでみて良かった。 「大神官様」 「ここに居ると聞いて」 「まあ……、晴れている日は、しばらく、この時間は……」 「以前、あなたは陽の光が、身体に良いと話していた。その実践でしょうか?」 「よく、そんな話覚えてたな」  シンは、苦笑しながら私に言う。「あんたは、俺の話なんか、覚えてないと思ったよ」  それは違う。 「それは、違う」  私は、鋭く彼の言葉に反論する。「あなたの、話は、どれも、ちゃんと覚えています。陽の光のことも、マーレヤから受け取るものが、当たり前のことではないと言うことも、男娼が、恥ずべき職業でないと言うことも。あなたが、魔法を使えないことも、竜族の方と付き合いがあったことも、全部」  口早に言うと、シンは驚いて、それから笑った。 「なんだ、あんた、俺に、少しは関心があったんだ」  関心があったかどうかは解らない。今は、関心を持った、ような気はする。私が答えられずに居ると、彼は続ける。 「えーと、竜族の人は……お客さんだけど、凄く良くしてくれたよ。あと、あっちも凄く上手かった」  あっち、と言われて顔が熱くなった。シンは、私に気遣ってか、性的な話を、私にすることはなかった。よかった、という彼の言葉の意味も、私には理解出来ないが、シンと、竜族人の間に、親密な接触があったのだ。 「あ、あっち、ですか」  思わず、どもってしまった。私の年齢ならば、私の世界では妻子が居て当たり前の年齢だし、神殿にいても、性的な接触を禁じられているわけではない。恋人がいるものも居るだろうし、娼婦や男娼を買うのも、気楽に行われている。以前、噂話で、『公娼』の話が出ていたが、かつては神殿が娼婦や男娼を抱えていて、性的な奉仕をさせていたこともあるということだ。それを考えれば、未だに性的に潔癖な私の方が、異常なのだろう。 「あんたは、こういう話は苦手だと思うから、しないけど……、身体の相性が凄く良かったんだと思う。それに、あの人にはいろんなことを教えて貰ったし……、竜族の人って、凄く義理堅いから、あの人は、俺になにか危機が訪れたら、呼べば俺がどんなところにいても絶対に駆けつけてくれるって言ってたよ」 「それは、恋人、ではないのですか?」  胸の奥がざらつく。痛い、ような、苦しいような。よく解らない、感覚だった。 「さあなあ……、俺とあの人の間には、金銭が絡んでいるからな、完全に恋人っていう訳ではないでしょ」 「恋人は、居ないんですか?」  踏み込んだ質問が、するりと口から飛びだした。今まで、誰にも、こんな質問をしたことはなかった。私の戸惑いを、シンは、気づいているだろうか。 「恋人は……いたよ? 前の世界に」 「どんな、方だったんですか」 「可愛い子。ああ、女の子だよ。ここへ来るまで、男に買われたことはなかったし。一つ年下で、大学の後輩。偶然、街で再開して、それから付きあい始めた」  同じような身分の男女が出会い、そして、付き合ったということだろう。シンが、可愛い子、というのは、姿形だけでなく、内面もそうなのだと感じる。幸せな恋人同士だったのだろう。そして、まだ、シンは、その恋人に思いがあるのだ。 「それで、ここでは何をしていたのですか? 陽の光で健康になっていたのですか?」  その異世界の風習について、一度聞いてみようと思いつつ、私は問う。彼は、顔を歪めた。微苦笑ではなかった。ただ、泣きそうな顔だと思った。 「空を見てたよ」 「空?」  ただ、空を観察していた、ということだろうか。何のために? 理解は出来なかった。 「空は、青い。今日も、青い……俺のいた世界と同じように、空は青いんだ」  彼の、悲しみを私は知らない。  けれど、私の胸は締め付けられるように、『空は青い』と言い聞かせるように繰り返す、彼の言葉から底知れない悲しさを受け取っていた。

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