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第37話
シンに会いたい。
一刻も早く、シンに会いたかった。
私は図書館から、居館まで足早に歩く。
いやな話を聞いたせいで、混乱している。
今、なにが起きているのだろう。神殿に、テシィラ国の内通者が居た。かつて、神殿が行った残虐な行為。そこから態度が急変した、テシィラ国の国王。シンに会えば、全部忘れられるだろうと思ったが、足が止まった。私が、ここで、恋におぼれて良いのだろうか。シンは、私に警告したではないか。シンの世界の、かつての王を例に、政《まつりごと》を顧《かえり》みなくなって国を滅ぼしたということを。
私は、すべてと引き換えに、シンと甘い生活を過ごすことを選ぶほど、愚かではないつもりだ。けれど。シンは、私にその片鱗を見たのだろう。ならば、私は、シンの警句を受け止めて、今は、大神官として生きなければならない。シンと一緒にいれば、私の胸の中は、春の花園のように鮮やかな、色とりどりの花たちに彩られ、甘い蜜の香りで満たされているだろうが、いまは、草木一本生えない荒涼とした荒野のようだった。そして、木枯らしが吹き荒れている。寂しい。私が、そう感じていることには、蓋をしないでおこう。私は、確かに、かつての神殿の悪行に混乱し、シンに会いたくて、寂しい。これだけを認めておく。それで、気分は落ち着く。余計な、妄想に振り回されずに済む。
事実と―――妄想を、混同しないように、私は自分を律していなければならないだろう。少なくとも、三十年前の大神官のように、この期間の手記を破り捨てるようなことしてはならない。結果として、最悪な事態に陥ったとしても、私は手記を破り捨てることがないよう、自らに羞《は》じない行動を取る。少なくとも、色に溺れた王を引き合いに出して私に警告したシンは、私に、そう求めるだろう。
(ならば)
私にい出来ることは、テシィラ国について調べること。そして、シンが何故か途中で放棄した、六百年前の記録の翻訳だ。シンは、難しくなった、と言った。母国語を操るようにあらゆる言語を理解するシンが、解読出来ないというのならば、私には難しいかも知れないが、異世界の民を招いた結果については、なにか、得られるものはあるだろう。異世界。三十年前。ラドゥルガ。この三つに何か、関連があれば、そこが突破口になるはずだ。
居室に戻った私を出迎えたのは、マーレヤだった。
「大神官様、大分、お顔色が悪いですが……、少しお休みになっては?」
「いえ、問題ありません。少し、執務をしますから、席を外してください」
マーレヤを下がらせたが、彼は、一度、茶の支度をして戻ってきた。華やかな香りのする香草茶と、そこに、少々の小菓子が乗っている。神殿では珍しいことだった。
「これは?」
「巡礼してきた人たちが、記念に小菓子を買い求める風習があるんです。巡礼の土産物にするのだと思います。ですから、日持ちのする焼き菓子を、神殿の厨房で作っております。それを、少し分けて貰いました。こういったものは、疲れたときに良いと、シン様が教えてくださいましたので」
それは、きっと。シンの国の風習なのだろう。あの、豊かな国であれば、納得出来る。ああ、そういえば、なぜ、太陽の光が健康に良いのか、聞いていない。また、シンに会いたくなる。今日も、きっと、一緒に食事をとるのは難しいだろう。そして、彼の部屋を訪ねていきたくても、シンの方が、部屋に戻る時間が大分遅い。休んだ方が良い。訪ねるには気が引ける。
「大神官様?」
「いえ、私は、巡礼のものたちの風習も知ろうとしませんでした。……済みません、マーレヤ。この菓子を、スティラとシンの所にも持って行ってくれませんか。日持ちがするというのであれば、それなりの量を」
「はい。かしこまりました」
マーレヤは、にこり、と笑う。菫色の綺麗な瞳は、いつも通りに、輝いている。そして、マーレヤが恋人から贈られた『愛の証』の魔力も感じた。それでは、と下がろうとしたマーレヤに、「そういえば」と私は声を掛けていた。
「はい?」
「……あなたの恋人というのは、神殿の人間だと聞いたと思いますが、どの部門なのです?」
「えっ?」とマーレヤが目を丸くした。「今まで、そんなこと、一度もおっしゃらなかったのに」
「いえ、その……少し、気になりました」
あまりにも私が他人に興味がなさ過ぎるのが悪いのだ。マーレヤが呆れるのも、無理のないことだ。
「私の恋人は……、秘密です」
「そう、なんですか? 別に、その方に意地悪いことをするとか、特別な扱いをするというわけではないのに」
「関心を頂けたことに、感謝します」
マーレヤは、笑顔だが、そこに、強い拒絶を感じた。最初の頃、シンに感じた、感覚に近い。なにかが、引っかかる感じがある。この感覚を、手放しては行けないと直感する私と、いまは、手放しておいた方が良い、と思う私がいる。どちらの私が勝つのか―――結局、私は、マーレヤに取っての『いつもの大神官』でいることを決めた。
「そうですね、立ち入ったことを聞きました」
「やっぱり、恋人が出来ると、他人の恋が気になるものなのですね」
うふっ、とマーレヤが笑う。けれど、その響きに、かすかな侮蔑を感じた。それに気づかないふりをして、私も笑う。
「……恋など、私には縁のないものだと思っていましたから、他の方たちがどうしているのか、どうやって、同じ神殿内で会ったりして居るのか、気になっただけです」
それに、マーレヤは答えなかった。
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