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第17話
静かにそう尋ねる。理央は、目を見張ったあと、俺の肩を押し、よろよろと後ずさった。ドアにぶつかり、ずるずると、その場に座り込む。
「ち、がう…俺、そんなんじゃ…俺…」
理央はうなだれたまま、ぜえぜえ、と息をしながら、独り言のようにつぶやいた。
「まあ、オメガには敵わないけど、一時の相手ならしてやれるよ」
理央のこと、嫌いじゃないから。
苦しいなら、俺で慰めてやれるなら、手伝ってやるよ。
「ちがう…おれ…せんぱいが、そこに、いるから…嬉しくて…」
目の前に、しゃがみこみ、伸びた前髪を流してやる。それに、大きく身体を跳ねさせて、びくびくしている優秀なアルファが、かわいそうでならない。
「っ、おれ…本気だから…、先輩のこと、大事にしたい…」
フェロモンの匂いが薄れて言っているのを、鼻が良い俺はわかる。
小さな子供のような理央を、優しく包み込むように抱きしめた。
「うん…ありがとう、理央…」
「俺…りん先輩のこと…」
背中に縋るような強い手のひらが回る。胸元で、深呼吸を繰り返して、気持ちと身体を整える健気な理央に、心の奥が締め付けられる。この男を、アルファを、守ってやりたいと思ってしまう愚かなベータな自分を笑ってしまいそうになる。
暮れていく空を窓越しに見上げていると、控え目にドアが開く。目元を赤くした理央は、しゅん、と肩を落として帰ってきた。垂れている耳が見えてしまいそうな姿に、眉を下げながら笑ってしまう。
「落ち着いたか?」
出来るだけ穏やかで優しい声になるように、気を使って、一回り小さく見える理央に声をかける。理央は、目を泳がせながら、指先をもじもじと遊ばせる。
「あの…りん、先輩…その、ご迷惑を、おかけしまし、た…」
「入りたての新人アルファは、たまにそうなるときがあるから、気にすんな」
「え?!」
励ますつもりで、先輩として出来るだけ明るく言ったのに、理央は驚いた声をあげて、長い脚でずんずん、目の前までやってきた。机に手を押し当て、ずい、と近寄ってくる。
「ま、まさか、りん先輩…他の委員にも言ってるんですか…?!」
「ああ?!」
か、と一瞬で身体が熱くなる。
真剣な顔で、今度は顔を青ざめながら聞いてくる理央の顔を、ムカついて思いっきりビンタして肩を押しのけてやった。
「何を人がアバズレのように…!」
床に転がった理央は、DV夫に殴られた妻のごとく、涙目で頬を押さえ、こちらを見ていた。しかし、しばらくすると、ということは…とつぶやき、瞳をキラキラと輝かせ始めた。
「俺だけ、ってことですか…?」
「……お前、やっぱり風紀委員、クビな」
総一郎にメッセージを打とうとすると、なんでですかー!?と携帯を奪ってくる。そういう反応を見せた理央を睨みつけながらも、心の中で安心していた。もしこれで、やっぱり自分には無理でした~と、へらへらのピンク頭になって、オメガをはべらす理央になってしまったら…と、心臓が痛いほど鼓動を速めていた。
「さ、帰るぞ。携帯を返したまえ」
そう言って手を差し出すと、理央は、携帯ではなく自分の手のひらを重ねた。俺の指先をつかみ、手の甲を見せるように手首をひっくり返すと、その指先に自身の唇をあてた。
「俺、りん先輩のこと、すげえ好きです」
理央の思いが、熱い吐息となって指先を通り、俺の血と混じり、全身を駆け巡る。どっくん、と視界が揺れるほど、心臓が大きく鼓動した。みぞおちのあたりが、ぎゅう、と握られるように収縮し、じわじわと、指先から熱が溢れ出す。
「だから、俺のことも好きだ~愛してる~理央がいないと死んじゃう~!って、言わせてみせます」
眦を下げて、頬を赤らめながら告げてくる理央からのまっすぐな告白。
「そ、んなこと、俺がいうわけないだろっ!」
「いたっ!」
キスされた指先を握りしめて、頭にげんこつを落とすと、理央は大げさな声を出す。
「帰るっ」
「え!りん先輩、待ってくださいよ~!」
顔を見られたくなくて、急いで風紀室を出る。
大股で歩きながら、キスされた指先をもう片方の手でさする。
本能を理性で律し、一人でトイレに向かったアルファ。
まっすぐにベータの俺なんかを見つめて、率直な愛の言葉を告げるアルファ。
屈託のない笑顔の理央。
自分では理解できていないほどに、俺は心打たれていた。
夕飯を終えた足で、寮のフリールームに向かう。幸い誰もいなかったので、そこから総一郎に電話をかける。数回コールが鳴り、電話の主は出てくれた。体調のことを聞いて、良好だと明るい声を聞けて安心する。夏休みの当番から総一郎は離れてもらった。少しでも二学期に向けての英気を養ってもらいたい。
本日、見つかった教室のコンドームの話をする。
「本薙が来てから、一気に回数は増えたし、置き去りにされる乱雑さというか汚さも目立ちます…」
『…こりゃ、二学期、大変かもなあ』
はあ、と大きく電話越しに溜め息が聞こえる。総一郎はこうした素の部分を人の前ではなかなか出さない。信頼されている証だと、頬が緩む。
「委員長なので、報告しますが、オメガの残り香に長田があてられて、大変でした」
『へえ、理央が』
「…どうして、あのアルファを風紀に入れたんですか?」
ずっと気になっていたこと。総一郎と話す時間もなかなか取れないため、ここで聞いてみるしかない、と一歩、踏み込んでみた。
『理央ってさ…かわいいだろ?』
ずる、と携帯を落としかけてしまう。耳にそれを当てなおすと、総一郎は笑っていた。
「冗談いってないで、教えてくださいよ」
『いや、マジだって。理央、かわいいだろ?』
もう一度、同じことを言われて、あいつの耳と尻尾のついた大型犬の姿が想像されてしまい、吹き出してしまった。
「ま、まあ、かわいい、ですね」
『だろ?』
総一郎は受話器越しに自慢げに言ってきた。ふんぞり返っている姿が目に浮かぶ。
『理央、かわいいんだよ。青くて、本気で、いじらしい』
総一郎の言っている意味がわからずに、首をかしげてしまう。
「どういう意味ですか?」
『ん~…、それは、凛太郎が一番、わかってると思ったんだけどな~」
と、軽薄な口調で言われてしまい、総一郎は一体どこまで知っているのか、と、心拍数が上がる。頬も熱い気がする、手でそれを冷ますように扇ぐ。一つ、咳払いをして調子を戻してから口を開く。
「先輩が何を言いたいのかわかりませんが、本薙がいる今の学園では、不安分子だと思います」
足を組みなおして、そう冷たく伝える。
『そうだな、あのオメガは異常だからな…俺も苦しいし、凛太郎も体感したもんな』
嫌だが、肯定するしかない。
だからこそ、あのオメガに出会った時、理央は絶対に拒むことは出来ない。
本薙に絡みつかれている理央を想像するだけで、腹の奥がぐ、と押されたように心地悪い。海智のように。
『でも、今の理央なら大丈夫だと思うぞ。その辺のアルファなんかより、よっぽど理性的だ』
「…そうで、しょうか…」
理央との出会い方が出会い方だったが故に、その言葉は、いくら総一郎の言葉でも、首を縦に振ることができなかった。
『アルファの本能には、オメガとセックスすることが遺伝子として刻み込まれている。それを理性で制することができるのは、神かインポか俺くらいだ』
「なんですか、それ…」
久しぶりの総一郎の下ネタに、呆れ笑いを零す。しかし、総一郎は、さらに真剣な声で続けた。
『本当だぞ、凛太郎。それだけ、バース性の呪いはきつい。だからこそ、本能を押さえられる理性を持つには、大きな何かが必要だ。…きっと、今の理央なら、それがあるんじゃないか?』
「…っ」
喉の奥に大きな飴玉が詰まったかのような息苦しさが俺を襲った。総一郎がどれだけ素晴らしい人間かは、よく知っている。だからこそ、その言葉の重みを感じる。
あの総一郎が、理央に太鼓判を押している。
ましてや、アルファの衝動性を律した、今日の理央を知ってるからこそ、余計に理央の「何か」について感じてしまう。それは、きっと…
脳が勝手に、今日告げられた、あのまっすぐな言葉を反芻してしまう。
背筋を、じぃん、と甘い何かが走り、とにかく全身が熱くて、視界も潤んできた。
『大切な何かを明確に持っているものは強い、だから俺は風紀に入れた』
理央は、信頼できるやつだぞ。
総一郎が、さらに念を押す。一体、何を考えての言葉なのだろうか。そこまで思慮が足りるほど、今の俺には余裕がなかった。
『じゃ、二学期も理央とよろしくな』
「なっ、どういう意味ですか!?」
異論を唱える前に、総一郎は笑って電話を切ってしまった。
師匠と言っても過言ではない総一郎が、信じろと背中を押してくれたような気がした。でも、…と心の中で何か言いつくろうと一生懸命の自分がいる。何をそんなに意地になっているのだと呆れている自分もいる。
どうすればいいのか、簡単なことではないのだと自分に言い聞かせる。
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