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第19話

 ずんずんと足が進む。まとわりつく暑さが鬱陶しい。それにもイライラして、舌打ちを一人する。  童貞を馬鹿にされたことではない。性体験は一応ある身であるし、童貞といったものにこだわりもない。  それよりも、理央が浴衣姿の可愛い女の子たちにちやほやとされている姿を想像すると、無性に腹の底が湧きたつのだ。その理由がわからないから、猶の事、苛立ちは増していく。 「りっ、りん先輩っ!」 「何?!」  声がして、反射的に振り向いてしまってから、後悔する。ベータ寮はすぐ目の前だったのに。あれから巡回して、ここまで走ってきて追いついてしまう、理央の身体能力の高さに改めて驚いてしまう。  間に合った…と膝に手をつき、呼吸を整えている黒髪のつむじを見てしまう。追いかけてくれたことが、本当は嬉しくて、身体の奥がほんのりと温かくなる。それを、眉間に皺を入れて、気のせいだと自分に言い聞かす。  ふう、と一息ついた理央が、乱れた前髪をかき上げて、起き上がる。きら、と太陽が汗に反射したのか、やけにまぶしく見える。かき上げて現れる凛々しい眉も、まっすぐな眼差しも、汗が伝う尖った顎も、節ばった指も、筋がはっきりと見える腕も、ちらりと見えるたくましい二の腕も、全部がまばゆく見え、心臓が高鳴る。 「りん先輩」  しっかりと名前を呼ばれて、見惚れていた自分に気づき、気まずさから顔をそむける。 「もうわがまま言わないから、機嫌直してください」 「べ、別に、怒ってない」 「りん先輩…」  つ、と指先が頬をなぞった。ふん、と軽く手を払う。それに、理央は眉を下げて笑う。年下に馬鹿にされたような気がして、さらに唇を尖らせる。 「じゃあ、来週、デートしましょ」  デートという言葉に、ぴく、と耳が動いてしまう。ちら、と視線を向けると、理央は嬉しそうに微笑んでいた。 「家の都合で、どうしても来週は実家に帰られないといけなくて。そうすると、お盆シーズンに入っちゃって、風紀の集まりもないでしょ?だから、デートしましょ」  だから、の意味がよくわからない。   「ほら、この前、かき氷食べたいって言ってたじゃないですか!食べにいきましょ!」  ね、と組んでいた腕の手を握られる。自然と腕がほどけると、俺の右手を両手で包み込む。そういう王子様みたいな恰好が平気で出来てしまうし、似合ってしまう。にこにこと嬉しそうに笑う理央を見て、一つ溜め息をつく。 「…理央のおごりな」  諦めたようにつぶやく。そうすると、理央はさらに笑みを深めて、わざとらしく声をあげる。 「えー!後輩にたかるんですか~?」 「入学式からの迷惑料だよ」  わざと俺に合わせて明るく対処してくれる理央の賢さや気の配り方のうまさに、また助けられてしまった。ふ、と微笑むと、理央の眼差しに熱がこもる。あ、と気づいてしまう。その瞳に掬われてしまうと、もうダメだ。 「先輩…」  ゆったりと瞳を絡ませるように、近づいてくる。瞬きをすることは許さないという強い瞳に、首が逃げてしまう。鼻先が擦りあう。吐息がかかる。もうダメだ、と観念して瞼を閉じれば、うっとりと口を吸われてしまう。ちゅ、と湿っぽいリップ音がやけに耳に着く。 「かき氷、約束ですよ」  すぐそこで囁かれ、瞼を持ち上げると、頬を染めた理央がにっこりと笑い、一瞬でもう一度、唇が触れ合った。手をするすると撫でるように離され、理央は笑顔で去っていった。  この持て余した熱の発散方法がわからずに、俺は溜め息をつくだけだった。  俺は、大層困ってしまった。  夜の夏祭りに、どんな格好で行けばいいのか。  浴衣を着付けできる自信はないが、実家に行けば問題はない。しかし、そこまで気合いを入れていくべきなのかもわからない。これで、俺だけ浴衣を着て空回りしていたら、それこそ目が当てられない。  そもそも、海智がどのような心持ちで夏祭りに誘ってきたのかを俺は理解できずにいた。もしかしたら、と淡い期待が胸を埋め尽くすのを、どうしても止められない。  そして、腕を組み、唇をなぞり、溜め息をつく。さっきから、これの繰り返しばかりだった。  今日は土曜日。朝からそわそわとずっと、同じことばかりを考えている。  いじらしく悩んでいる自分が、自分らしくなくて、嫌気がさす。時間は刻刻と過ぎていき、もういいや!と、普段、出かける際に着る服を着ていく。涼しいリネン地の開襟シャツに、兄から誕生日の祝いでもらったブランドの革ベルトをつけて、形のきれいなパンツを履く。きっとこのくらいなら、海智の隣を歩いても変には見えないだろう。鏡の前に立ち、髪型も確認する。襟もはだけすぎていないかを確認する。最後ににこ、と鏡の中の自分の微笑んでみる。よし、と気合いを入れて、ボディバックを背負い、寮を出た。  花火大会も一緒に行われるそれは、この辺りでは一番の夏祭りだ。電車も浴衣姿の人々でにぎわっていた。そういえば、宇津田たちが理央と一緒に行くと言っていたのは、まさかこの夏祭りだろうか。と一瞬、焦ったが、電車の中の人の多さを見ると、きっと大丈夫だろうと胸を撫でおろす。この前、警察に追われる犯人が、人込みに隠れ、うまく逃げてしまう小説を読んだ。その作戦と同じだ。木を隠すなら森の中。人を隠すなら人の中。  と、頭の中で考えていて、なぜ、隠れなければならないのだ、と気づく。別に、悪いことをしているわけではない。と自分に言い聞かせたところ、ちくん、と胸の端が痛んだ。なぜだろう、と考えると、理央の顔が浮かんできた。  電車は目的の駅に着く。案の定、ほとんどの人々がどやどやと共に降りていく。待ち合わせ時間より、三十分ほど早い。それは、先輩を待たせてはならない、という後輩心だ。と、浮足立つ自分を誤魔化す。  改札口はひとつしかない。同じ時間に降りた人たちでごった返している中なので、改札口を出たすぐの壁で人が掃けるのを待つ。壁際には、同じような人たちであふれている。おそらく、恋人や友人との待ち合わせであろう人たちだ。自分は、誰を待つことになるのだろう、と少し考えてしまう。友人?先輩?それとも…。  人がまばらになったの機に一歩踏みだそうとすると、丁度反対側に背の高いブリーチされた男が見えた。  先輩だ、と足を速めるも、止まってしまう。海智の背中越しに女の子たちが数人、彼を囲んでいるのが見えたからだ。そういえば、出会った頃からいつもそうだった。女の子だったり可愛らしい男の子だったり。いつも、海智の周りには、目をハートにした人たちが人だかりをつくっていた。そして、俺は、その人たちに疎んだ目で見られていた。  足が半歩下がってしまう。  そういえば、宇津田は俺が夏祭りに行くのを、女の子とのデートだと勘違いしていた。童貞を捨てるチャンスだと。もしかして、海智はそういう意味で俺を誘い出したのだろうか。童貞を捨てて、ベータの男として、宇津田のように正しく生きろ、と。女の子を紹介するために今日だったのだろうか。一気に奈落に突き落とされるような感覚に陥った。さっきまで浮かれていた自分が情けなくて、恥ずかしい。体温が一気に下がっていく。

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