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第41話

 くら、と頭が揺れた気分になる。 「…すみません、後でかけ直します…」 『あ、ごめんね…待ってる』 「はい、では…」  タップして、画面を暗くする。 「…っ、じゃ、ちゃんと腹くくる準備をしておけよ」  佳純からの返事はなかったが、手を振って、出来るだけゆっくりと教室を出た。ぴたり、とドアを閉めきると走って、誰もいない教室に入る。ここをあえて施錠しないのは、ここしか場所がないと思わせて、行為をしようとするやつらを釣り上げるためだ。それを知っていたから、駆け込んだ。  なんで、今なんだ。  欲しかった時に、もらえなかった電話。待ち焦がれた電話。  なぜ、いま。  佳純と七海の姿を見て、アルファとオメガの引き寄せ合う運命を見せつけられ、それを、心の奥底で、いいなと羨ましがる自分に気づいてしまった。今。  ぶる、と握りしめた携帯が震え、覗くと海智からのメッセージだった。いつ頃手があきそうか、という内容だった。きっと、このまま目をつむってしまえば、いつものように連絡は来ないだろう。  それでも、理央の言葉が身体の中に反芻される。 『恋人とうまくいかないときこそ、ちゃんと話しあった方が良いです』  そう笑顔で背中を押してくれた後輩の言葉に、きちんと報いたいと思った。震える指が、怖いと叫ぶ心を叱咤して、電話をかける。コール音が数回鳴る、たったそれだけの時間の間も長く感じ、心臓が耳元で鳴っているのか思うほどどっくんどっくんと大きく響く。 『りんりん?さっきは、ごめんね』  今、大丈夫?と優しく俺を気遣う声は、紛れもなく海智だった。じわりと額に汗がにじむのがわかった。それを、ぐい、と腕で拭い、出来る限り平然を装う。 「いえ…どうしました?」 『いや、あの…ちょっと、話したいなって思って』  どきり、と心臓が一瞬止まったように思った。 「な、んですか?」 『あ~、あの、顔を見て、話したいなっていうか…』  やっぱり、忙しい?と様子をうかがう声は、間違いなく海智だった。  信じて、いいのだろうか。  でも、心の中で、理央が応援してくれている。 「わかりました…どこにしますか?」 『そしたら、あの、噴水がある公園なんかどう?』  ぴく、と眉が反応してしまう。そこは、オメガ寮の近くにある大きな公園だ。ぞわ、とあの日見た、本薙の笑みが俺を襲った。 「いや…、そしたら、生徒会寮の近くの西洋ガーデンはどうですか?」  急いで提案し直すと、海智は明るくオッケーと答えた。何も怪しんではいないことに、ほっとしてしまう。俺は何も悪いことはしてないのに。 『いつ頃、委員会終わる?』 「多分、七時半頃過ぎには…」  問題なく終われば、完全下校の七時から三十分後のそれくらいには解散できるだろう。 『わかった、待ってるね』  じゃあ、仕事、がんばってね、と温かい声をかけられて、電話は切られる。真っ暗なディスプレイを、じ、としばらく見つめる。  一体、海智は何を考えているのだろう。  あんな姿を俺に見せつけて、なぜ、あんなに平然としていられるのだろう。  疲れた。  は、と目を見張る。心の奥底から湧き出た本音に、汗が垂れる。  いけない、こんなことを思っては。首を横に振って、風紀室に戻った。  文化棟を出ると、辺りはほんのりと闇の染まっていた。もうそんな時間なのかと思う。黄昏時はあっという間に過ぎていってしまうのだ。  曽部がインカムを通じて、解散の合図を送る。  風紀室には、総一郎、事件現場を押さえた宇津田と奥野、俺、そして今インカムを外し、一息ついた曽部がいる。今日の事件を報告する。  被害者はオメガだった。最近、どこかしらフェロモンのにおいが漂う空間があるため、ヒート周期がおかしくなってしまったようだった。そういったオメガの被害は増えている。  加害者は、元運動部の三年生だった。中には、前回由愛さんを襲ったやつもいた。一度オメガへのレイプを経験するアルファの再犯行率はほぼ十割をマークする。屈服させる、というのは、アルファの本能を強く刺激し、凄まじい快感を与えるらしい。聞いただけで、鳥肌が立つ。  加害者たちは一同に、フェロモン巻き散らしていたのはオメガであり、フェロモン被害を受けた自分たちが被害者だと声高々に言っていたらしい。沖原によって、今は何もいない状態になっているらしいが。  どのようなきっかけで、彼らたちがあそこに集い、鍵が壊されたのかは不明だ。予想するに、誰かが都合のよさそうなオメガを一人力で捕まえて、あそこまで引きずりこんだ。その捕まえるまでの間に、仲間の誰かが鎖を工具を使い、切断したのではないかと思う。  そして、犯行に及んだところを、たまたま佳純の思い人が見つけてしまい、佳純が替わりに連絡をくれた。 「倉庫に入ったとき、妙に甘い匂いがした。俺が感じるから、多分フェロモンの類ではないと思うが…」 「そういえば。僕も感じました。甘い匂い」  宇津田がそう証言を加え、奥野も賛同する。  日頃、滅多に使われないあの倉庫で甘い匂いがするはずない。おまけにベータの宇津田と奥野が感じるのであれば、フェロモンの類でもない。 「薬品、か」  曽部がつぶやく。 「穏やかなじゃねえな」  ぎ、と椅子を鳴らして後ろの仰け反る。  どのタイミングで使用したのかは、俺にはわからないが、薬品まで使用して、被害者を生み出したという事実に憤りを強く抱く。 「これ以上は、被害者側の状態が安定してから聴取を取るしかねえな」  総一郎が天井を仰ぎながら言った。それしか、今の俺たちには出来ることはない。渋々、うなずくしかない。  曽部と総一郎はいつものごとく風紀室に残り、宇津田と奥野と共に、昇降口で外履きに履き替える。ここ最近、走り回ってるおかげですっかり埃っぽくなってしまったローファーを見ていると、奥野が辺りを確認してから、他のクラスのやつらから聞いたんだけど、と小声で話した。 「この前のベータカップルの被害者、転校が決まったんだって」 「うっへ~マジか…ここにベータが入学すんのって、かなりの努力と才能が必要なのにな」  俺様のように、と宇津田が決め顔をしたのを奥野は無の表情で見つめていた。  最近、激務でそこまで手が回っていなかった新しい事実に、俺は心臓を鷲掴みにされたように痛んだ。宇津田の言った通りだ。俺は、家庭環境に恵まれてここに中等部から通っていたが、高等部からの入学組の、特にベータは学力考査で高得点を取らないと入学はできない。彼は、高等部からの入学組だった。その事実を知っているからこそ、相手が許せないと思った。きっと、この学園に、輝きに満ちた未来を描き、期待をいっぱいにして門を叩いたことだろう。  それを、すべて本薙によって、学園は破壊された。  ぎり、と奥歯が軋む音がした。宇津田が俺を呼ぶ声がして、顔をあげる。  時計を見ると、もう八時近かった。  宇津田と奥野とは途中で用があると言って昇降口で別れた。走ってアルファ寮の少し奥にあり、小さなベンチのあるバラ園にたどり着く。季節柄、まだバラは咲いていないため、うっそうと草木が茂っているように見えるだけだ。  もういないかもしれない、と思いながら走ったため、ベンチに座る人影に気づいたときは驚いた。まさか、彼が待っているとは思わなかった。 「す、すみません、先輩、会議が長引いてっ」  息を切らせながら謝罪すると、空を仰いでいた海智が顔をこちらに向けた。視線が合うと、ぎくり、と身体が固まり、すぐにそらしてしまう。先日見た、虚ろな海智の瞳を思い出してしまうからだ。 「いや、全然平気。今日は月がきれいだから」  いい気分転換になったよ、と朗らかに海智は笑った。きゅ、と唇を引き結んだ。あまりにも純粋で穏やかな微笑みだったから。  促されてベンチに腰掛ける。話を切り出すこともなく、海智はぼんやりと月を眺めているだけだった。 「せ、先輩…それで、話って…」  どぎまぎしながら話を切り出すと、海智は笑った。 「特別な話なんてないよ。ただ、こうやってりんりんと会いたかっただけ」  楽しそうにころころ笑う海智は、幸せそうだった。  なぜ。  俺は、遊びのはずでしょ。  ベータのカップルの被害者。彼も、きっと学生時代の火遊びとして、彼氏に利用された被害者だ。そして、彼が夢描いた学園生活は、砕け散った。  下唇を噛んで我慢する。それでも、海智は穏やかに笑っていた。  今日までに、何も悪いことなんかしていないのに、傷ついてきた人たちをたくさん見た。そう、たくさんだ。一人ひとりに俺は会って話をした。全員、優しい人たちだった。それなのに、ある一人の転校生によって崩された平和のせいで、涙し一生背負っていかなければならない傷を負った。  先日見た、病室のベッドの上で笑う、やつれた由愛が目に浮かんだ。  ば、とその場に立ち上がる。 「りんりん?」  いきなり立ち上がった俺を不思議そうに呼びかける声が聞こえた。 「ねえ、先輩」  いろんなことが頭に浮かんでは消えた。  その中から、ずっと心に引っかかっていたことを口走ってしまった。  海智はどうしたのだ、と眉根を寄せて俺を見上げていた。 「なんで…なんで、俺のことは、抱けないの?」

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