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第15話 Ωの覚悟

「淡い碧眼が涙に濡れる様は、なかなか美しいものですね」  以前ヴィオレッティ殿下にも同じようなことを言われたが、それよりもずっと恐ろしかった。いまなら、あのときヴィオレッティ殿下が手加減していたのだと理解できる。体が動かないこともだが、何より抗おうという気持ちが萎えていくのが恐ろしかった。 『俺は優しいからこの程度で済んだが、αが本気を出せばもっとひどい目にあうぞ?』  あのときの言葉の意味がようやくわかった。これが本気を出したαの威嚇に違いない。体のどこも自由にならず、気持ちさえも刃向かうことができなくなる。訪れるであろう未来を想像し、それに絶望することしかできなかった。 (これが、Ωという存在なのか)  自分はなんて弱い存在なのだろう。アールエッティ王国の王子として、という気概すら持つことができない。  これがαの威嚇によるものなのか、それとも発情かもしれない状態のせいなのかはわからない。もしくは両方の影響だろうか。どちらにしても、いまの僕には逃げることも抗うこともできなかった。 「白い肌も銀の髪も、そのうち見慣れるでしょう」  ルジャン殿下の指が頬を撫で、耳を半分ほど隠している髪の毛に触れた。それだけで恐怖を感じるのに、なぜかそれとは真逆の熱が体の奥からわき上がってくる。 「絵を描くのは……そうですね、やめてもらうことにしましょうか。ノアールは気にしていないようですが、あの溶き油の匂いは胸が悪くなる。あんな匂いを纏ったΩを抱く気にはなれませんからね」  ノアール殿下の言っていたことは本当だったのか。よくよく思い出せば、ルジャン殿下が絵画や美術品の話をしたことは一度もなかった。僕が絵を描くことを否定しなかっただけで、積極的に絵の話に踏み込むこともなかった。 (不快そうにしなかったのは演技だったということか)  ノアール殿下と親しくなった僕に目をつけ、警戒心を抱かせないようにしていたのだろう。そのために銀細工を贈り、同時に嫌がらせのためかαのマーキングをしていたに違いない。 (すべては、ノアール殿下に一泡吹かせるために)  後宮を襲わせたことを含め、知られてしまえばただでは済まないはずだ。王弟子息とはいえ、お咎めなしというわけにはいかないだろう。そのことはルジャン殿下もわかっているはず。それなのにこうして行動に出るということは……。 (それだけノアール殿下を憎んでいるということか)  つまり、部外者の僕が何を言ってもルジャン殿下の気持ちを変えることはできないということだ。絶望的な気持ちがさらに強くなる。 「小柄で華奢だからか、男だということはあまり気になりませんね。ヴィオレッティと違って男と関係を持ったことはありませんが、ノアールでも抱けたのなら問題ないでしょう。ふふ、怯えて震える様はまるで子兎のようですよ」 「……っ」  震えたくて震えているわけじゃない。強烈なαの威嚇を受け続けているせいだ。 (……違う、それだけじゃない)  怖くて不快で嫌なのに、なぜか僕の体はルジャン殿下の吐息に別の何かを感じていた。それは負の感情ではなく、もっと別の……。 「ほんのわずかですが、Ωの香りがするような……」  首筋を嗅がれてゾクッとした。一瞬感じたルジャン殿下の熱に肌が粟立つ。それは恐怖から来るものではなく、間違いなく快感の類いのものだった。 (こんな状況でルジャン殿下を相手に、どうして僕は……っ)  ルジャン殿下に対して好意的な気持ちはまったくない。近づかれただけで不快に感じるし、こうして香りを嗅がれれば吐き気もする。それなのに、なぜか僕の体は心地よさを感じていた。 「これまで一度も感じたことがない香り……潤んだ目……そうえいば、頬も火照っているような……」  ルジャン殿下の言葉にハッとした。一度しか経験していないが、自分でも「まさか」と思った。肌が焼けるような熱を感じながら、体の芯が凍えるように冷たくなっていく。 「もしや、発情しているのですか?」 「……っ」 「ははっ、これは何という……。まさか発情に出くわすとは、運がよかったと言うべきでしょうか」  最悪だ。まさか本当に発情していたなんて、人生最大の不運だ。 「ノアールがあなたと発情を過ごしたと聞いたときは噛んだのだとばかり思っていましたが、本当に噛んでいなかったとは」 「……っ」  うなじのあたりを首飾りの上から何度も撫でられ、不快さがさらに増していく。それなのに体はどんどん熱くなり、むしろ触ってほしがっているような気さえした。 「ちょうどいい。発情のときに交われば間違いなく子ができる。その子を見るたびにノアールがどんな顔をするのか……想像するだけで笑いがこみ上げそうだ。あなたは二度とノアールのものにはならない。わたしが一生飼ってあげましょう」 「ぃ……っ」 「嫌だ」と叫びたいのに声は出なかった。それどころかますます首を圧迫され、犬のように「はっ、はっ」とした息しか出ない。苦しさのあまり顎が上がり、目を開けているのもつらくなる。  あまりの息苦しさに目を細めたとき、滲んでいるルジャン殿下の顔がグッと近づいてくるのが見えた。咄嗟に「やめろ!」と叫ぼうとしたが、やはり声は出ず体を遠ざけることもできない。 「諦めの悪いΩですね」 「や……っ」  言葉を封じるように唇を塞がれた。呼吸さえも封じるつもりなのか、顎を掴まれさらに持ち上げられる。そうしてほとんど爪先立ちに近い状態のまま唇を奪われ続けた。  威嚇で首まで締め上げられていた僕は、本気で窒息してしまうと思った。不快感と恐怖、それとは真逆の気持ちよさが入り混じり、そこに息苦しさが加わって訳がわからなくなる。どうにもできない状況に、このまま首を噛まれてしまうに違いないと覚悟した。 (こんな覚悟なんて……こんなことなら、もっとノアール殿下に……)  ノアール殿下に気持ちを伝えておけばよかった。時々見せてくれた殿下の笑顔を思い浮かべながら、いまさらながらそう思った。  殿下との芸術談義がいかに有意義だったかを、いや、ただお茶を飲むだけの時間でさえ楽しかったのだと伝えておけばよかった。一緒に食事をすることで寂しさが和らいでいたことも、首飾りのデザインという新しいことに挑戦させてくれたことに感謝していることも、もっと伝えておけばよかった。  なにより一緒にいるだけで楽しかった。国のことも自分の立場も忘れてしまうくらい充実した日々を送ることができた。 (ノアール殿下と伴侶になったら、どれだけ楽しいだろうかと何度思ったことか)  たまに見せる殿下の笑顔を思い出すだけで胸が苦しくなる。あの笑顔をもっと見たいと思っていたことに初めて気がついた。 (僕は、ノアール殿下にこんなにも特別な感情を抱くようになっていたのか)  こんな最悪な状況になって初めて気がつくことになろうとは。 「先ほどより少し香りが強くなったような……。不出来なΩでもαを誘うことはできるということですか」 (違う! ルジャン殿下を誘ったりはしない!) 「うなじからも、かすかにですが甘い香りがしています。これは何の香りでしょうね」 (これ以上近づくな! 僕の香りが何かわからないくせに、近づくな……!) 「まぁいいでしょう。香ってさえいればそれでいい。どうせ噛んでしまえば、わたししかわからなくなる香りです」 (わからないくせに……それなのに噛むとか言うな……!)  僕の香りはノアール殿下が好きだと言ってくれた香りだ。僕自身でさえわからないのに、殿下はミルクセーキの香りだとはっきり口にした。ノアール殿下のようにはっきりわからないαになんて、噛まれてたまるか!  心の中で何度も罵倒し抗おうとした。気持ちが萎えそうになるたびに奮起し、必死に気力を保とうとした。  それでもうなじに口づけられた瞬間、全身から力が抜けるような感覚に襲われた。かろうじて保っていた気力が一気に霧散する。嫌だと思っているのに、体は「そこだ」と訴えるように体の奥から何かがあふれ出しそうになる。 (違う。これは僕の気持ちじゃない。絶対に違う……!)  僕が求めているのはルジャン殿下じゃない。僕に触れていいのは、僕を噛んでいいのはノアール殿下だけだ。  それなのに、体が興奮を感じている。恐怖と不快さしかないはずなのに、快感にも似た感覚に上書きされて頭がおかしくなりそうだった。嫌だと心が叫んでいるのに、体が勝手にその先を求めてしまう自分に吐き気がした。 「……っ」  震える肌に硬い物が触れた。きっとルジャン殿下の歯だ。 (噛まれて、しまう)  絶望的な気持ちのなか、体が歓喜に震えた。αに所有されることを喜ぶかのように体の奥から熱が膨れ上がる。「この人じゃない!」と叫んでも聞き入れてくれない体に涙があふれた。  ちり、と小さな痛みが走った。硬質なものが肌に入り込もうとしている。薄い皮膚を突き破り、自分のものにしようとする獣のような気配を感じた。 (もう駄目だ。僕は、もう……)  決められない覚悟はただの諦めだ。自分ではどうにもできない状況に放心し、同時にすべての感覚が閉じていく。  絶望も恐怖も悲しみも、肌に感じる焼けるような熱も矛盾する快感も、うなじを食い破ろうとしている硬い存在も、すべて遮断してしまおう……そう思い、ぎゅっと目を閉じた。 「ぅ、ぐ……っ」  うなじの痛みに覚悟していた耳に、うめき声のようなものが聞こえた。その声に反応するかのように、閉じていた感覚がすぅっと戻ってくる。 「それ以上踏み込むな。わたしはおまえを失いたいとは思っていない」 (……ノアール殿下の声、だ)  最初に感覚を取り戻したのは耳だった。それから閉じた瞼をゆっくりと開く。 「ノアール、殿下」  気がついたら、殿下の名前を口にしていた。  ルジャン殿下が苦悶の表情を浮かべている。その顔が少し遠のき、そのまま後ずさるように離れていった。  ルジャン殿下の斜め後ろにはノアール殿下が立っていた。殿下はいつもと変わらない表情を浮かべているが、ルジャン殿下を見る眼差しは見たことがないほど鋭い。 「遅くなってすまない、ランシュ」  視線をルジャン殿下に向けたまま、ノアール殿下がそう口にした。 (え……?)  もしかしなくても、いま僕の名前を呼んだだろうか。一瞬空耳かと思った。しかし「ランシュ、大丈夫か」という殿下の声に、「初めて名前を呼ばれたぞ」と間抜けな感想を抱いてしまった。  突っ立ったまま呆けていると足早に殿下が近づいてきた。ルジャン殿下に視線を向けたまま、ぐいっと抱き寄せられる。 (……あぁ、ノアール殿下だ)  なぜかそう思った。目で見てわかっているのに、触れた熱にようやく実感、いや安堵した。  そう感じた途端に体がカタカタと震え出した。閉じ込めようとしていたいろんな感情や感覚が一度に吹き出し、頭も気持ちもぐちゃぐちゃになる。ホッとしているのにあちこちから恐怖がわき上がり震える体を止めることができない。 「もう大丈夫だ。いや、やはり遅かったな。すまない」  殿下のクンと鼻を鳴らす音がすぐ近くから聞こえた。抱き寄せたまま僕の頭頂部を嗅いでいるのだろうか。 (……まるで恋人のような……)  そう思った途端にぶわっと熱が広がった。心臓はかつてないほど忙しなく動き、体からはじわりと何かがにじみ出す。殿下の呼吸を感じるたびに熱が上がり、頭が段々とぼんやりし始めた。 (もっと、僕の――を、嗅いでほしい)  強烈な感情が急激に膨れ上がった。そう感じたのは一瞬で、すぐに頭がふわふわして何も考えられなくなる。 「発情が始まったか」  ノアール殿下の声は聞こえているがうまく理解できない。それよりも、もっと僕を嗅いでほしいという欲求が頭をいっぱいにしていた。 「間に合ってよかった。ランシュのこともだが……おまえのこともそう思っている」 「ノアール、殿下」  やけに苦しそうな声がするほうに視線を向けると、少し離れたところに黒髪の人物がいた。耳のあたりが光って見えるのは装飾品だろうか。体を少し屈めている姿勢はやけに苦しそうだ。 (嫌な匂いがする人だな)  甘ったるくて喉が焼けるような……そうだ、これは蜂蜜を煮詰めたような香りだ。花の蜜が好きな姫君たちにはたまらないのだろうが、僕には濃厚すぎて不快な甘さだった。 「おまえがわたしを敵視していることは知っている」 「知っていて、無視していたということですか」 「違う。いや、見て見ぬふりをしていたとのは間違いない」 「……それは、わたしが取るに足らぬ存在だからですか」 (そんな人のことなんて放っておけばいいのに)  苦しそうな、それでいて悔しそうな声は耳に障る。そんな人より、いまは僕を見てほしかった。ようやく僕にも――が出せるようになったのだから、もっと僕を見てほしい。 「そうじゃない。わたしは……いや、何を言っても言い訳にしかならないか」 「あなたに見下されていたことなど、いまさらです」 「見下したことなど一度もない。ただ関心を持たかなっただけだ」 「それは、見下しているのと同じことですよ」 「そう受け取られても仕方ない状況だったことは認めよう。抗いたいと思いながら放置してきたのは事実だ。ほしいものが目の前にあるのに一歩を踏み出す勇気すら持てなかった。愚かなのはわたしも同じだ」  ノアール殿下の声がいつもより気弱に聞こえる。顔を見ようとしたが、肩を強く抱かれて顔を上げることができない。そのうち濃厚なミルクの香りが鼻に入ってきたせいか、何をしようとしていたのかわからなくなる。 「おまえたちが何を画策してきたかは知っている。後宮を襲わせたことも、王家に連なる血筋の者たちとよからぬことを企てていることもだ」 「それなら、さっさと処分すればいい」 「処分はしない」 「……その甘さが命取りだと、いつもヴィオレッティに言われているでしょう」 「これ以上、王族の血を引くαの数を減らすことはできない。それはおまえもわかっているはずだ」 「αの数が減れば国の未来に関わる、ということですか」 「逆らうなら威嚇で従わせれば済む話だ」  殿下に触れている部分からじわりと熱が流れ込んでくる。そうだ、これはベインブルで感じた体の芯を溶かす熱風に似ている。 「だが、それでは意味がない。それに優秀なαを処分することもできない」 「何をいまさら。わたしが出来損ないのαだということは、あなたも知っているはず」 「そう思っているのは見る目のない者たちだけだ。いや、そういった意味では能力がないαとも言えるか」  殿下の熱を感じるからか、僕の体まで熱くなってきた。その熱が体からあふれ出そうとしている。そう、これはずっと待ち望んでいたものだ。早く、早く僕の香り(・・・・)に気づいて。 「おまえは優秀だ。優秀なαを手放すのは惜しい」 「何をいまさら……弟たちにさえ見下されているというのに」 「本当にそうか? それならなぜ弟たちは城に上がれない? なぜおまえは陛下に謁見できる?」 「……いまさら、そんなこと、」 「努力できることは才能の一つだ。いかにαであっても怠ればただの人と変わりない。努力し続けているおまえは優秀な王族αだ」  ノアール殿下の力強く静かな声が心地いい。声を聞き、香りを嗅ぐだけで頭の芯が溶けるような気がする。  気がつけば話し声が聞こえなくなっていた。胸焼けするような蜂蜜の香りも消えた。ようやく邪魔者が消えてくれたということだ。  僕は殿下に抱きつき、濃いミルクの香りを思い切り吸い込んだ。 「あぁ、とてもいい香りがする」 「ランシュからも甘くてよい香りがしている」 「ふふ。僕はいい香りですか?」 「誰よりもよい香りだと思う」 「ふふ、ははは」  よい香りだと言われたのが嬉しくて心が弾んだ。いまなら僕の身長よりはるかに大きなキャンバスの絵も、すぐさま描き終えることができそうな気がする。  浮き足立ちながら殿下に抱きついたはずが、気がつけば体がゆらゆら揺れていた。そういえば足元に床の感触がしない。 「……あれ?」  背中に柔らかなものが当たった。目を開けると、目の前にノアール殿下の造形美がすぎる顔がある。 「殿下?」 「発情が始まった。わかるか?」 「あー……なんとなく」  そうか、それでさっきから気持ちが高揚しているのか。それに濃くて甘いミルクの香りもずっと感じている。  すぅっと胸いっぱいに香りを嗅いだ。大好きな甘い香りに頭が痺れ、同時にお腹の奥がジンと疼いた。尻のあたりがじわりと濡れたような気もする。 「念のために確認するが、発情の相手をしてもいいな?」  殿下の黒い目がやけにギラギラしている。声もやたらと熱っぽい。 (そうか、また殿下と発情を共にできるんだ)  そう思ったら、体の芯にボッと火が灯るような熱を感じた。それがどんどん膨れ上がり、体の外にぶわっと飛び散る。 (やっとだ)  僕の体からノアール殿下を誘う香りが出ているのを感じた。どうしてそう思ったのかわからないが、いまの僕にははっきりと断言できる。 「僕の香りが、わかりますか?」 「もちろんだ。わたしが大好きなミルクセーキの甘い香りがする」 「よかった」  ノアール殿下はちゃんと僕の香りをわかってくれている。僕の香りが好きだとも言ってくれた。 (それに……この濃いミルクは殿下の香りだ)  いつも僕の周りにあったのは殿下の香りだったのだ。 (この香りと、混じり合いたい)  そうして大好きなこの香りをもっと嗅ぎたい。僕の香りもたくさん嗅いでほしい。たくさん嗅いで、そうして僕を殿下だけの香りにしてほしい。 「僕は、殿下に相手を、してほしいです。殿下以外は、嫌です」  ようやく言えた。他にも伝えたいことはたくさんあるが、これが一番言いたいことだった。  Ωの僕はノアール殿下と発情を共にして、そうして噛んでほしいと思っている。それは諦めでも望みでもなく、僕のΩとしての覚悟だった。

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