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3 浜辺の出会い

   ――あなたは私を、殺したんだ。  2年前、恋人だった男に突き付けた言葉。  追憶の奥底から覚醒して、広海は瞼を開けた。  南国の潮の香り。前髪から透ける太陽。  視界を邪魔するそれを払おうにも、濡れた白衣が重たく張り付いて腕が動かせない。 「気が付いたか?」 「……え……」 「人魚が溺れてるのは初めて見た」  耳慣れないその声とともに、そっと前髪が梳かれる。  すると、よく焼けたこげ茶色の男の顔が、広海の頭上に現れた。  その男は若々しく、まるで海神の彫刻のような凛々しい容貌をしている。   「どなた……ですか。このビーチは立入禁止ですよ」  見覚えのない男を訝しんで、広海は眉をひそめた。  西表島と石垣島の間に広がる石西礁湖。  この日本最大の珊瑚礁海域に浮かぶ小さな島、竹富島に、広海が勤務する観測所は建っていた。  地球温暖化による海洋環境への影響を調査しているのだ。 「ビーチを荒らされるのは困ります。申し訳ありませんが、出て行ってください」 「つまらないこと言うなよ。こっちは駄目、あっちはいいって、海の中に線なんかないだろ?」  男は精悍な頬を笑顔で崩しながら、濡れた長めの髪をかき上げた。  観測所の私有地であることを知らずに、ビーチに観光客が紛れ込んでくることがたまにある。  茶髪に片耳ピアスという今時の若者らしい彼は、きっとその類だろう。  ダイビング中だったのか、ウェットスーツ越しにも、胸から腹まで彫刻のような筋肉を纏っているのが分かる。  彼の膝を枕にしていたことに気付いて、広海はひどくばつが悪かった。 「すみません、起きます――」 「ああ、いいから楽にしてろ。少し水を飲んでいたみたいだ」 「大丈夫です。……潜ることには慣れていますから」 「白衣でいつも潜水してるのか? ボンベもつけずに、無茶をするなよ」 「私はダイビングをしていた訳ではないので、ボンベは不要です」 「それでも水着くらいは着ろ」  男の視線が、広海のずぶ濡れの体に注がれる。  胸元に直射日光の熱を感じて、広海は指を伸ばし、はだけられていたそこを撫でた。  海と同化できなかった肌は温かく、既に水分を蒸発させている。 「あの……君の名前は?」 「尚樹(なおき)。あんたは何て言うの」 「――広海、です。広い海と書きます」  へえ、と感心したように尚樹は瞳を見開いた。 「海はいいよな。俺は夜明けの海が一番好き。……海が眠りから覚めていく、陽を浴びて再生していくようでさ」  彼は詩的な表現で囁きながら、広海の膨らみのない胸元を撫でた。 「ちょ……っ」  まるで海面を撫でるような、尚樹の武骨な掌に心臓を鷲掴みされる。  そんな錯覚が、広海をどきりとさせた。  久しぶりに感じた他人の体温が、小さな電流のような衝撃となって、広海の内側を駆け抜けていく。 「やめてください」  反射的に体を起こして、広海は白衣の身頃をかき寄せた。  忘れかけていた人肌の感触を、無理矢理に呼び覚まされたようで落ち着かない。 「ダイビングスポットは他にあります。ここにはもう立ち入らないでください。さよなら」  立ち上がった拍子に、広海はぐらりと視界を眩ませた。  潜水した名残りか、頭の奥に鈍い痛みが走る。 「急に動くと体によくないよ」  長い腕が伸びてきて、広海の腰を抱こうとする。  咄嗟に逃げたせいで、眩暈はいっそうひどくなった。

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