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9 凪に落ちた一滴 5
「ふざけないでくれ」
思わず背けた広海の顔が、バスルームの曇った鏡に映り込む。
島暮らしで幾らか日焼けをしたが、きめ細かい肌を持つ首筋やうなじは隠しようがない。
研究所勤務の頃から、広海は歩けば誰もが振り返るほど端整な容姿をしていた。細くてまっすぐな黒髪も、同じ色のつぶらな瞳も、ぽってりと肉を載せた薄桃色の唇も、かつての恋人が好んで触れた場所だ。
「…っ」
ぶる、と首を振って、広海は脳裏から恋人だった男の思い出を消そうとした。
二年前の辞令を甘んじて受け入れて、広海はこの観測所でひっそりと生きている。
「知ってるか。人魚の肉を食ったら、不死の体になれるって」
「……人魚も、不死も、迷信だ。昔の人はジュゴンを見て人魚だと言ったんだよ」
「よくある説だな。――俺は聞き飽きた動物学より、夢のある童話の方が好きだ」
シャワー音が止み、尚樹の両腕が背中から広海を抱いた。
予期しなかった彼の行為に、驚いて声を上げる。
「尚樹…っ?」
「やっと俺の名前を呼んだな」
嬉しそうな尚樹の声が、広海の困惑を大きくさせた。
「君が何を考えているのか分からない」
「昨日、言ったよ。一目惚れだって」
そんなからかい半分の言葉を、信じられる訳がなかった。
それに、たとえ本当に一目惚れをしたのだとしても、広海には尚樹を拒絶してもいい理由がある。
誰かに好かれたり、自分から好いたりすることが、広海は怖かった。
二年前に閉ざした心を、もう一度開くことは難しい。
「私のことを知りもしないのに、よくそんなことが言えるな」
「これから知っていけばいいんだよ。広海さんのこと、俺に教えて」
笑みを含んだように言って、尚樹は抱き締める腕の力を強くした。
唇が近付いてくる気配を感じて、広海は咄嗟に顔を俯ける。
こんな軽薄な、遊び慣れた風の若者に、ペースを乱されてばかりではいけない。
ここは旅先で手短な相手を見付けるような、リゾート地とは対極にある場所だ。
「観測所で妙な真似をする気なら、今すぐ出て行ってくれ」
有無を言わせない、厳しい口調でそう告げる。
すると、尚樹は観念したのか、やっと広海を抱き締めていた腕を解いた。
「悪かった。あんたの仕事場を汚すようなことはしないよ」
両手を頭の高さに挙げる尚樹の仕草が、やっぱり軽い人間に思えて、広海は溜息をついた。
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