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2-1-取引

「――本当にまだ宜しいのでしょうか」  頭を打って意識を失っていた伊吹生は、鈍い頭痛に苛まれながらの最悪な目覚めを迎えた。 「念のため、誰かスタッフの者をつけておきましょうか?」  顰めっ面で気怠そうに寝返りを打つ。肌に直接触れる柔らかな寝具の感触に、眉間の縦皺が著しく増えた。 「いいえ。必要ありません」  重たい瞼を持ち上げれば、四方に広がる天蓋が目に入った。暗色に統一されたベッド一式。寒いくらいに空調が効いている。  全裸で羽毛布団に包まっている状況に伊吹生は唖然とした。  豪奢な天蓋付きのベッドがよく馴染む寝室だった。火のない暖炉に壁飾りのキャンドルホルダー。ステンドグラスがはめ込まれたアーチ窓。重厚感の漂う内装にモダンな調度品がバランスよく配置されていた。 (プールに落ちて、その後、どうなった?)  ここは恐らくVIPルームだろう。それにしても、着ていた服は下着も含めてどこへ行ったのか……。 「……拓斗は」  少年の身を案じて上半身を起こしかけた矢先、唯一の扉が開かれた。 「ああ。やっと気がつきましたか」  一人の青年が寝室へ入ってきた。  百八十は超えていそうなスラリとした長身だった。トップス、ボトムス、身につけているもの全てが黒だ。深黒の髪は満遍なく濡れていた。 「具合はどうですか。頭痛や吐き気はしませんか?」  うっすらと色づく薄い唇が穏やかな声を紡ぐ。  隅々まで整った眉目秀麗な顔立ち。きめ細やかな真珠色の肌。前髪のかかる双眸は闇夜の深みを湛えていた。 (嫌味なくらい綺麗な顔だな)  上半身を起こして見返している内に、プールに落下したときの記憶が徐々に蘇り、伊吹生は頭を下げた。 「あー……プールから引き上げてくれて、どうも。おかげで助かった」  眼差しに危うげな色香を滴らせる美しい青年は、悠然と微笑んだ。 「出血はしていませんでした。打ちどころがよかったのが幸いです」  ベッドに浅く腰かけた彼に側頭部を撫でられる。ズキッとした痛みが走り、伊吹生はつい顔を背けた。 「でも、後で腫れるかもしれないですね」 「……君は、ここの常連なのか?」  名乗らずとも互いに「吸血種」だとわかっていた。同種間では直感的に察する。大抵の「普通種」も、雰囲気やオーラで自分達とは異なる存在を見分けることができるそうだ。 「まだ学生に見えるが」 「ええ。僕はまだ大学生ですよ。甫伊吹生司法書士さん」  財布の中の会員証か名刺でも見たのだろう。伊吹生は特に動揺もせず、羽毛布団の下で胡坐を組んだ。 「司法書士というのは、存外、過激なお仕事なんですね」 「さっきのは業務に関係ない。それよりも、普通種のバイトが今どこにいるか、知らないか? 一人、今すぐ連れて帰りたいんだ」 「血を吸われるだけで死にはしないのに。心配性で大袈裟な司法書士さんですね」 (そうだ、コイツはカーニバルの客なんだ) 「僕はカーニバル・デイが目的で来たわけではありません」  広いベッドに腰かけた青年は、すぐさま自分の心中を見透かされて口ごもる伊吹生を肩越しに見、クスリと笑った。 「何となく来てみたら、偶々カーニバルの日だった。そもそも、このイベントには元から興味がありません。血液パックで十分です。わざわざ餌の顔を見て摂取する必要、ないでしょう」 「……」 「豚肉や牛肉を食べるときに、豚さんや牛さんの顔色を窺う必要、ないでしょう?」  助けてもらった身でありながら、彼に対する苦手意識がはたらき、伊吹生は一先ずベッドから出ようとした。 (待てよ、初対面の相手の前で曝すのは、さすがに)  ついつい躊躇した伊吹生は、突然、館内に鳴り響いた大きな鐘の音にぎょっとする。 「零時。カーニバル開始の合図です」  不穏な音色は天井に取り付けられたスピーカーから流れていた。 「零時? 俺は四時間も寝てたのか?」 「カーニバルは大広間で行われます。もう間に合いませんよ」 「始まろうと問題ない、拓斗を外へ連れ出せばいいだけの話だ」 「彼等は高額の報酬を得たいがため、自ら生き餌になることを志願しています。ノスフェラトゥとは相互利益関係にあると思いますが」 「俺の服はどこにある?」 「カーニバルがどういう風に進行するのか、ご存知ですか?」  質問に質問で返されて不満を覚えつつも、伊吹生は口を閉じて答えを待つ。  青年は微笑まじりに伊吹生に回答した。 「生き餌は十字架を模した磔台にステージ上で固定される。オークション形式で競り落としたゲストに大衆の面前で血を吸われる」  伊吹生は限界まで眉根を寄せた。  グズグズしてはいられない。青年が服を出す素振りはなく、致し方ないが、自分で探すためにベッドから立ち上がった。 「松森拓斗君を生き餌バイトから除外するよう、僕が口を利いてあげても構いませんよ」  羽毛布団が音もなく床に滑り落ちる。 「ここの支配人とは顔見知りです。正確に言えば兄の友人で、今、電話をしてお願いすれば、松森拓斗君を外してくれるでしょう」

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