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5-1-二度目の

 朝、携帯のアラームが鳴る前に伊吹生は目を覚ます。  事務所から徒歩十五分、築四十年になるマンション。内部はリフォームされているが、色褪せたタイル張りの外観は悪く言えば古臭く、よく言えば味がある。  七階建ての五階、こざっぱりした1LDKに伊吹生は一人で暮らしていた。  和室の押入れに布団を直すと、部屋中のカーテンを開け放つ。角部屋で日当たりはいい。バルコニーからの眺望は、似たり寄ったりなマンションやビルで埋め尽くされていた。  半袖シャツにハーパンのまま、電動シェーバーで髭剃りを済ませる。ハンガーラックにかけっぱなしのノーアイロンのワイシャツに腕を通し、リビングに面している洗面所の鏡の前でネクタイを締めた。  八月半ば、残暑の厳しい水曜の朝だった。 「甫伊吹生司法書士事務所」の営業時間は平日の午前九時から午後六時までとなっている。使い古したビジネストートバッグを肩から提げ、余裕をもって自宅を出た伊吹生は、牛丼屋で朝定食をかっ込み、事務所が入るビルへ……。 (……何だ……?)  伊吹生はビルの前で立ち止まり、辺りをぐるりと見回した。コインパーキングに開店準備中の美容室、閉ざされたシャッターの前で丸まる野良猫、各々の目的地へ急ぐ人々。いつもと何ら変わりない朝の光景が広がっていた。 (誰かに見られている)  執拗な視線を感じた。  凌貴のものではない。それだけはわかった。ひょっとすると、彼に付き纏うストーカーに敵視されて、素性を探られているのか……。 (凌貴といい、暇な奴が多い)  正体不明の視線にいつまでも構ってはいられず、伊吹生は階段を上って事務所の扉を解錠した。  災厄は再び訪れた。 「拓斗君を僕の自宅に招待しました」  レザーバッグを携えた凌貴の第一声が脳天を直撃し、伊吹生はとうとう手が出そうになった。 「危害は加えていません」  ギリギリのところで堪え、手触りのいい黒シャツを引っ掴み、廊下から事務所の中へ乱暴に招き入れる。 (水曜日の今日は定休日だが、本当の話なのか?)  同じブロックに位置する店舗兼住宅の「マツモリ食堂」へ駆け込んで確認するか、どうするか。考えあぐねる伊吹生の横を凌貴は擦り抜けた。整理整頓されたミーティングテーブルに着席し、筆記用具入れからペーパーナイフを取り出す。 「散らかすな、もうすぐ依頼人が来る」 「拓斗君より依頼人の方が大事ですか?」  こちらのテリトリーに涼しげに踏み込んでくる、いけ好かない外敵に伊吹生は拳を握った。 (コイツのことだ、本当に拓斗を……招待というより拉致したに違いない) 「自宅はどこだ。非常識な真似ができるってことは、一人暮らしなのか?」  ペーパーナイフの先をなぞる凌貴は答えない。怒りが今にも沸点に達しそうな伊吹生は、深呼吸を一つした。 「伊吹生さんは、松森拓斗君を愛していますか?」  ハイカットブーツを履いた凌貴は長い足を組み、伊吹生を仰いだ。 「あの普通種の恋人になりたいと夢見ていますか?」  とんでもない問いかけに、さすがに伊吹生は目が点になった。 「肩を抱くなんて親愛の情以上のスキンシップでしょう?」 「は……? 一体、何の話だ……」 「土曜日、拓斗君の肩を抱いて事務所へ連れていきましたよね」  事務所に入るところまで見られていたとは。一体、どれだけ車を停めて様子を窺っていたというのか……。 「あれは、拓斗をお前達から早く引き離したかっただけで、深い意味なんてない……説明するのも馬鹿馬鹿しい」  呆れて物が言えない状態になりかけた伊吹生が、何とか言葉を繋げれば、凌貴はキョトンとした。 「親は飲食店の経営者で、その手伝いをしている。菖さんと境遇が似ているでしょう?」 「……その見方こそ馬鹿げてる」  拓斗はよく利用する「マツモリ食堂」の主人の息子で、両親の手伝いに一生懸命励んでいる姿は見ていて気持ちがよく、放っておけない弟のような存在だった。  凌貴にわざわざ説明するのも億劫で「そもそも菖と俺は家族同士だ。どうしてそうも歪んだ見方をしたがるんだ、お前は」と、伊吹生は投げ遣りに呟く。  まだペーパーナイフにじゃれついている彼は、上目遣いに愉しげに伊吹生に囁きかけた。 「菖さんには関わらないと言いましたが、拓斗君については、これといった取り決めをしていなかったので」  油断ならない狡猾さに伊吹生は自制を忘れた。凌貴の胸倉を鷲掴みにし、イスから強引に立たせ、拓斗の居所を白状させようとした。  ノックされたスチールドア。  ほぼ時間通りの来客に伊吹生は一時停止に陥る。その隙を凌貴は見逃さなかった。服を掴む両手を払い、俊敏な黒豹さながらにスルリと司法書士を掻い潜り、出入り口へ直行した。 「どうぞ、お待ちしておりました」  伊吹生はぎょっとする。 「えッ……あ、はい、あの……?」  訴訟の打ち合わせで来た女性の顧客もまた、凌貴の出迎えに困惑している様子だった。舌打ちしたいのを堪え、伊吹生は急いで対応に回る。 「おい……」  退出するどころか、事務所の奥へ引っ込んだ凌貴に眩暈がした。顧客の前で言い争うわけにもいかない。伊吹生は彼を追い出すのを諦め、打ち合わせを始めた。  パーテーションの向こう側で伊吹生のデスクについた凌貴は、それからというもの、やりたい放題だった。 「はい、甫伊吹生司法書士事務所です」  電話に出る、受信したファックス文書の整理、水回りを片付ける。身勝手な振舞が気になって、伊吹生は集中力を持続させるのに苦労した。 「申し訳ありません、甫司法書士は只今、接客中でして」 (こんなときに限って電話がよく鳴る)  打ち合わせは三十分で終わった。  いつになく上の空だった顧客を見送り、扉を閉めた伊吹生は、肩で息をつく。 「どうぞ、甫先生」  凌貴が持ってきたグラスを奪い取り、冷えた緑茶を一気に喉へ流し込んだ。 「この三十分の間に得た情報は全部忘れろ」 「もちろん。電話の内容はメモしてデスクに置いています。届いたファックスはクリアファイルに入れておきました」  デスクをチェックしてみればパソコンのキーボード上に付箋のメモが、容姿のみならず文字まで端整で、伊吹生は苦虫を噛み潰したような顔をした。  

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