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第8話

 浴室のドアの向こうから琥珀の気配が消えると、暖はコツンと目の前の鏡に額をぶつけ、目を閉じた。  瞼の裏にさっきの琥珀の姿が現れる。  白く薄いTシャツが濡れた肌にピッタリと張りつき、細身の身体の輪郭を浮き上がらせていた。  暖を見上げる琥珀の大きな目。  昔から色素の薄いあの瞳に見つめられると身体の奥が熱を持つ。  ツンと澄ましたような鼻に細い顎、華奢な喉、そしてその下にある胸の小さな二つの突起。  身体の奥の熱がポッと発火したのが分かった。 『暖……』  半開きの柔らかそうな唇とそこから覗く舌先。  ぎゅっと自分の中心に血液が集まり、大きく膨らみそうになるのを手で押さえ込んだ。  首を左右に激しく振り、頭の中から濡れた琥珀を追い出した。 「血の誓いその一、琥珀と暖は死ぬまで唯一無二の親友である」 “親友”その言葉が重く暖にのしかかる。  剥ぎ取って粉々に砕きたい衝動に駆られた。 「ちくしょう……」  暖は鏡に額と拳を打ちつけた。  親友という言葉を失くせないのなら、自分のこの気持ちを砕くしかない。  部屋に入ると、ベッドの横に敷かれた布団の上で琥珀が走れメロスの台本を広げていた。  じろじろとこっちを見てくるので「なんだよ」とちょっと不機嫌な声を出してしまう。 「風呂上がり、化粧水とかなんかつけねぇの?」 「そんなもん、つけねえよ」  ふむふむと、琥珀は暖の返事をノートに書き込む。 「今日ずっと思ってたんだけど、そのノートなんだ?」  暖から学んだ男らしくなる秘訣を書き込んでいるんだと琥珀は答えた。  暖は馬鹿らしいと思ったが、琥珀の顔があまりにも真剣だったので、何も言わないでおいた。  琥珀はノートを閉じると走れメロスの台本を手に取り、ゴロンと布団に横になる。  胸を膨らませて深呼吸すると、その長いまつ毛を伏せた。かと思うと、ベッドに腰かけた暖の方にクルリと向き直る。 「俺と暖で走れメロスやれるなんて、めっちゃ嬉しい」  琥珀の裏表のない真っ直ぐな視線に心を見透かされそうで暖は目を逸らした。  逸らした先に、琥珀の短パンから伸びたスラリとした足が眩しくて目を瞑る。  早やりそうになる鼓動が落ち着くのを待って目を開けると、琥珀の視線が待っていた。 「暖、セリヌンティウス役を引き受けてくれてありがとうな。特訓に付き合ってくれてありがとうな」 「俺たちは無二の親友だからな」  琥珀が拳を向けてきたので暖はいつものようにそれに拳で応じた。  自分に言い聞かせるように吐いた言葉はナイフのように胸を切りつけ、暖は痛みを誤魔化すように微笑んだ。  暖の朝は十キロのロードワークから始まる。  しかし運動音痴の琥珀がそれについていけるはずもなく、その日は三キロ走っただけで終わった。  暖は週に三回学校帰り、街のムエタイジムに通っている。  琥珀はそれにもついてきた。  自分も入会するとやる気満々の琥珀を、 「まずは基礎体力をつけないとだから、十キロ走れるようなったらな」  と、どうにか説得した。  琥珀に怪我をさせたくなかった。   琥珀は髪型もファッションも暖を真似たがった。  が、どちらも店の人から琥珀と暖とでは頭の形も体格も違うので似合わないときっぱり言われてしまった。  帰り道、しょんぼりする琥珀を横目に、暖はなんと声をかけていいのか分からなかった。  琥珀はそのままが一番いいのに、そのままの琥珀が誰よりも魅力的なのに。  そう言ってやりたかった。

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