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第一話
「暑いな……。」
俺が思わずそう呟くと、壁に体を凭れていた後輩は、白い体をビクリと竦ませた。
真夏の夜。
日中、閉めきったままの部屋は、空気がひどく澱んでいる。
もうすぐ主の戻る時間だ。
いつもなら、後輩は主を出迎えるために動き回っている筈なのに、全く動く気配がない。
「おい、どうした」
そう声をかけると、『何でもない……っ』というクソかわいくねぇ返事が返ってきた。
「今日も主から言い付けられてんじゃねぇのか。準備しなくていいのか?」
昔は主の部屋を快適にするのは俺の役目で、主が独立した時、古参の俺も新しい家に移った。
だが、万事有能なコイツが来てからは、俺は殆どいるだけになり、主から直接命令を受けることも少なくなった。
今夜も俺は何も言われていないが、後輩が主から命令を受ける所は見た記憶がある。なのに、なぜ動こうとしないのか。
「うるさい。おっさんには関係ない」
チラリとこちらを見た色白の顔は、いつものクールな表情とは打って変わって、熱でもあるかのように上気している……。
「って、ちょっと待て。まさか、マジで具合悪いのか……?」
無意識に舌打ちしてしまい、それに反応した後輩がグッと唇を噛んだ。
「……何でもないっ。ちょっと休めば、大丈夫だ」
「はん。それが大丈夫ってツラかよ」
そう言いつつ、俺は大きく息を吐いた。
もう10年くらい一緒に働いているが、コイツが体調を崩したのは2回目。ちなみに、俺は43年間、一度も体を壊したことはない。
「まぁ、俺でよきゃ、熱冷ます手伝いくらいしてやるよ」
俺の言葉に、後輩が怖じ気づいたような顔をする。
おいおい、普段クールな顔でツンツンしてるくせして、頼りなげな表情すんなよな。なんか、腰にクんだろーが。
内心で一人ごちて、俺はやれやれと首を振る。
「ほら、冷たいの、気持ちいーだろ?」
「あ、あ……、せんぱ……っ、そんな、主の命令もなしに勝手なことしたら処分されてしまう……っ」
「こんくらい、平気だ」
主の命令は絶対で、命令外のことは何一つ許されていない。それが、例えば具合の悪い同僚に薬を飲ませるとかの些細なことでも、主にお伺いをたてる必要があるのだ。
けど……、長年、主に仕えている俺は、ほんの少しだが、自分の判断で動くことができる。
といっても、体を冷やしてやるくらいが精一杯だが。
「主から、そこまで、許されてるなんて……」
ほぅ……、と力の抜けた息をつく後輩に肩をすくめて見せる。
正確には俺が勝手にやっているのがバレてないだけで、許されているわけじゃないけど、訂正するのも面倒だ。
さっきは俺をおっさん呼ばわりしたくせして、虚勢を張れなくなった後輩は、昔のように俺を『先輩』と呼んで甘えるような顔になる。
でかい態度で見下してくる後輩も、こうなればやっぱり可愛い。
「ほら、どこ冷やしてほしい?おねだりしてみろよ」
「あ……先輩。どうしよ、俺……体全部、熱い……っ」
「んー。相当、悪ぃみてぇだなぁ……。」
『主が帰ってくるのに間に合わない』とベソをかく後輩をよしよしとなだめてやる。
「具合が悪いなら仕方ねぇだろ。今日のとこは、俺が何とかするから」
「ちゃ、ちゃんと主のお役に立たないと、おれ、捨てられちゃう」
「大丈夫だって。俺なんて、もう大して役に立ってないのに、置いてもらえてんだから」
何かやたら必死な後輩に、自分を指しておどけると、熱に浮かされてボーッとしていた後輩が、突然、キッと俺を睨んだ。
「先輩と、俺は違う……っ」
「あ?まぁ、俺はお前ほどきっちり仕事できねぇけど……」
「先輩はっ、いざという時いつも頼りにされるけど!俺は、俺は違うんだ。常に役に立てると証明できなければ、捨てられてしまう」
「んなこたねぇだろ。前に体調、悪くした時だって、ちゃんと休暇もらえたろ」
「……あの時、主が誰かと喋ってるのが聞こえた。『いっそ新しいのに取り換えてはいかがですか』って言われて、主は『次に調子が悪くなった時はそうするかな』って……。だから、俺は……っ」
ポロリと透明な雫が、白い頬を転がり落ちた。
『……もう、先輩と一緒にいられなく、なる……』と呟いて、火照った体を自分で抱き締めうずくまる後輩に、俺は体の内側がカッと熱くなるのを感じた。
「嘘だろ?まさか、ちょっと調子悪いくらいで……」
「せんぱ……」
「……っ、ほら冷やしてやるから、だから頑張れよっ、お前がいなくなるなんて、そんなの……っ」
焦る俺を見て、強張っていた後輩の頬が少しだけ緩む。
「俺、先輩の仕事奪っちゃって……だから、嫌われてると思ってた……」
嬉しい、と動いた唇に頭が煮える。
「俺がお前を嫌うわけ、ねぇだろ……っ」
「んっ」
「いなくなるなんて、許さねぇからな!」
「あ、だ、ダメっ。そんなしたら、先輩まで……っ、や、あっ、強い……っ」
俺の送り込む刺激に敏感に反応するカラダ。
「だめっ、先輩にそんなされたら、もっと熱くなっちゃ……、ひうっ」
「ならいっそ、とことん熱くなって汗出せ」
「あ、あ、うそ、嘘……先輩も、熱い……っ」
「あぁ。お前のせいだ。責任とって、俺の熱、冷ましてくれよ」
「え……、まって、うそ、う……っ、あ、あ、あぁあ゛───っ」
「は……っ、お前、クールなツラして、ナカ、こんな熱かったのか」
「あっあっ、や、うそ、嘘ぉっ、ぅあ、そんな、動かな……、やあぁあっ、せんぱ……そこ、ダメぇっ」
クソ暑い部屋の温度が、どんどん上がっていく。
「壊れちゃう、おれ、こわれちゃうよぉっ」
ビクンッと白いカラダが仰け反る。
「ダメだ。壊れんな」
「だって、こんな、無理ぃ、あ、あ、イく、俺イっちゃ……」
「ダメだっつってんだろ」
「んやぁっ、何でひど……、やだぁっ、も、イきたい、イかせてぇっ」
「イく時は、一緒だ」
「せんぱい……っ」
俺の言葉に、後輩は心底嬉しそうに笑った。
もう、それだけでいい。
俺の残りの寿命全部、お前にくれてやる。
だから、お前だけは。
「は……っク」
「あ、あっ、なに、せんぱいっ。何これ、こんな、奥まできてるっ、ぅあア──ッ」
「っハぁ……っ、どうだ、体、治った、か……?」
「なん、何で……?いきなり、すごく軽くなっ……、え?先輩、せんぱい?」
己の限界を越えて、無理矢理に力を注ぎ込んだせいで、神経が焼ききれたようだ。段々と気が遠くなる。
「な、何でっ。嘘だ、逝く時は一緒って言っただろ?!」
「二人ともいなく、なったら、主、困んだろ……」
「嫌だ!なら、先輩が、残ればいいっ」
「俺は、長くいすぎた。もう、見送る方は、嫌なんだよ。ましてや、お前が俺より先に逝く、なんて……」
「先輩っ!」
もう、ピクリとも動けない。
後輩の顔も見えないけど、その声が涙に濡れているのが分かった。
『一緒に』なんて嘘ついたのは謝るからさ、泣かないでくれよ……。
──俺は先に逝くけど……、主にしっかりお仕えしろよ。
別れの言葉は声にならず、全てが穏やかな闇に飲み込まれていく。
最期にお前の役に立てて、良かった……。
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****
「ふい~。暑かったー。クーラー効いてる部屋はサイコー……って、あれ?」
コンビニ袋を手に、独り暮らしのアパートに帰ってきたタカシは違和感に首を傾げた。
暑いのが大嫌いで、夏になると帰宅時間に合わせてクーラーのタイマーを設定しているのだが、今夜はいつもより若干、部屋の温度が高い気がした。
「んー?……おわっ、何か、濡れてる?」
クーラーの調子を確かめようと近付くと、床が少し濡れているようだった。だが、一応、白い筐体のクーラーは問題なく稼働しているようだ。
前回、クーラーの調子が悪かった時の修理費は意外と高くて、電気屋には、直す金をかけるよりも新品の購入を勧められた。
といっても、直す方がまだ安かったのであの時は修理に出したが、貯金もそこそこできたし、今度壊れたらエアコンに買い換えようかと思っている。
取り合えず、今は大丈夫そうだから、しばらく様子を見て、調子が悪いようなら考えよう。
さて、夕飯にするか、と振り向いたタカシの目に入ったのは、ローテーブルの脇に置きっぱなしのレトロな扇風機だ。
なんと父親が高校生の頃からあるというから、すごい。シンプルな構造のせいか、40年以上壊れずに動いていたのだが……。
「あれ?スイッチが強風で止まってる……?」
それなのに、羽根が回ってない。
おまけに、なぜか、自分が座る位置じゃなくて、思いきり首に角度をつけて、クーラーの方を向いている。
今朝、動かした覚えはないけど、出掛けに急いでぶつかったりしたんだっけ?
首を捻りつつ、『切』『弱』『中』『強』と、一通り全部スイッチを押してみる。
「げ。動かねぇ……。マジか。とうとう壊れたんか……。」
物心ついた時から子供部屋にあって、就職してアパートに移る時も、当然のように引っ越し荷物に入れた。
クーラーを買ってからは使用頻度が落ちたとはいえ、風呂上がりにつけたり、夜風が涼しい日は窓を開けて扇風機をつけたりしていたのだ。
そういえば、前にクーラーが壊れた時は、修理から帰ってくるまでの一週間、扇風機で乗り切ったのだった。
「マジか~……。」
あまりに当たり前の存在過ぎて、意外なほどに壊れたことがショックだ。
「直せんのかなぁ、コレ」
明日はちょうど土曜日だから、実家の近くの電気屋に持って行ってみよう。
そう決心して、タカシは夕飯の入ったコンビニ袋に手を伸ばした。
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