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第5話 カエレス

 どこもかしこも随分と小さくて不安だというのが、ティティアの第一印象であった。  かくいうハニも、不本意なことに種族がら小柄な方ではあるのだが、その分馬鹿にされまいと努力を積んでここにいる。  そんな己よりも、さらにティティアは小さいのだ。  カエレス直属の部下である狐の獣人であるニルと共に、お嫁様を国の外まで迎えに行ったまでは良かった。オメガのためだけに国を出て、生贄のその時まで一身に守り通したロクが、初めて王の番いであるティティアを連れ帰って来た時。ハニは想像以上に小柄で弱々しい姿に、すぐに死ぬのではないかと思ってしまった。 「熱で死んじゃったらどうしよう」 「馬鹿野郎、ロクも言ってたろ。このくらいでは死にませんって」  不安げな獣人二人の声が、静かな部屋に溶ける。心配が祟ったのだろうか、それとも環境の変化のせいだろうか。  砂漠の暑さにやられて火照ったティティアを、今はロクが面倒を見ている。アテルニクスも暑いはずなので、きっとここまでの疲れが出たのだろう。二人が部屋を出る前に見た姿は、氷水の入った大きな器に顔が隠れる姿だった。  あんな小柄な生き物が嫁いできたのだ。ティティアの姿をカエレスが目にしたら、どうなってしまうのだろう。   「発情期あるってことは、やっぱり産めるんだよな。人間の成人って、みんなあんな大きさなの」 「しらね。獣人基準に考える方が間違いだろう。もう、あっちには戻れねえんだから、合わせてもらうしかないだろ」 「だろうけど……、うまくいかなかったら、カエレス様は……」  ロクから追い出された扉の前で、ハニは胸に凝る思いに疲弊しているようだった。  獣人の国でもあるアキレイアス国。人間の国のすぐそばにあり、しかし存在は知られていないこの国を収めるカエレスは、神話に残る獣神の血を引いている。  狼の顔に鋼の肉体。黒鉄の毛並みは滑らかな光沢を放ち、均整の取れた体を覆う被毛は戦地では鎧にも勝る。  人が崇めるアテルニクス神の姿をもつカエレスはしかし、治ることのない病と呪いに犯されている。神の器だけがかかるそれが、少しずつ体を蝕んでいるのだ。 「黙れハニ。前をみろ」 「あ」  ハニのオアシスの瞳が、真っ直ぐに向けられた先。アーチ状の天井が美しい白い通路をゆったりと歩く獣がいた。天鵞絨の毛並みの下で、しなやかな筋肉が動いている。  大きな肉食の獣は二人の姿を認めると、立ち上がるようにして姿を変えた。 「王としての自覚はおありですか?」 「ニル!」  鋭いハニの叱責を前に、ニルは面倒くさそうな顔をした。  優秀な部下の指摘を前に苦笑いを浮かべた獣頭の王カエレスは、金糸水晶の瞳に二人を映す。どうやら番いの匂いを嗅ぎつけていてもたってもいられなかったらしい。  豊かな尾で床を撫でると、耳心地の良い声色で宣った。 「待っていようにも、我慢が効かなかった。こればかりは本能だから仕方がないだろう」 「お嫁様は今、砂漠の熱にやられてふせっています。ロクが看病してますが……、念のためにウメノを呼びますか」 「そんなに悪いのかい?」 「いいや、本人は元気です。ただ少し興奮状態というか……、見慣れない場所で目が冴えていると行った方がいいかもしれません」  俺たちも人間相手に何をすべきなのかはわかりません。と言ったニルの無言の訴えを悟ったのだろう。カエレスはふむと言った表情で扉を見た。   「獣人は人間の見た目に近いですから落ち着いていますが、今のカエレス様を見たらどんな反応をするか」 「ニル、だからお前は……」 「怯えられても、事実は覆らない。たとえ番いが拒絶しようとも、私は生きるために体を使わせてもらうしかないからね」  カエレスの言葉に、ハニが黙りこくる。  皆と変わらぬ姿で生まれたカエレスは、物心着く頃からその体を獣に変えた。王の証を身に受け入れるまで、随分と時間がかかった。歴代の王はみな、この姿で玉座に座るのだ。その身を支えるのは過去と、周りの畏怖の瞳。  今は、命を維持するための魔力が少しずつ減ってきている。番いのいない王がなる不治の病だ。  まるでアテルニクスがオメガを求める本能を忘れるなと言うように、カエレスは獣に姿を変えてからずっと侵されていた。 「彼には悪いが、種を残すための犠牲になってもらうしかないだろう。私は、民のために生きねばならないからね」 「あ、カエレス様」  獣の特徴を表す大きな手が扉に手をかける。カエレスはハニの言葉も聞かぬまま両開きの扉を開け放つと、白で統一した無機質な部屋の中に入った。  鼻腔をくすぐるのは、今まで感じたことのない芳醇な花の香りだった。大きなベットの上、ロクに看病されるように寝具に埋もれる青年の姿を捉えると、カエレスの中に流れる魔力がさざめいた。 「おっきい……いぬ?」 「ティティア様、カエレス様はこの獣人の国アキレイアスの国王様ですよ」 「……」  うっかりと口にしてしまったのだろう、ロクの窘めを前に、カエレスの視線を捉えて離さない青年は、しまったといわんばかりに両手で口元を押さえた。  夕焼けのような美しい瞳がカエレスに向けられている。切り揃えられた射干玉の黒髪も、ツンと上を向く小鼻も、柔らかそうな唇も。青年の容姿はどの造形を一つ取っても実に見栄えがした。  カエレスの知る人間の雄とは違う生き物だ。声は、確かに雌には思えない。寝具からわずかに見える手足は折れそうなほどに心許ないし、何よりもその細さが健康的な小麦色の肌には不釣り合いだった。 「オウサマ……」 「カエレスだ。君は」 「ティティアだ、よです」  ロクの咳払いによって、無理くり言葉を直したらしい。妙な挨拶を返したティティアに、カエレスの心は少しだけほぐされた。  長い尾で、ゆっくりと床を撫でる。不思議そうな顔で立ちすくむカエレスが気になったらしいロクが気使うように立ち上がれば、夕焼けの瞳が縋るように姿を追いかける。 「気に食わないな……」 「え」 「……それは、どういう」  ロクへと向けられる番いの視線に、カエレスの無意識の不満が言葉で漏れる。それは、場の空気を凍らせるには適していた。  こわばったロクの声は、カエレスの耳には届かなかった。金糸水晶の瞳は他を認識することを拒むように、真っ直ぐにティティアへと向けられていた。  カエレスが意識するよりも早く踏み出した一歩は大きく、陰で飲み込むように見下ろしたティティアは緊張するように動きを止めていた。  本当に、待ち望んだ番いが彼なのだろうか。まるでその存在を確かめるように、カエレスはティティアへと手を伸ばした。

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