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第20話 ヴィヌス
揺らぐ炎に気を取られるように、カエレスは立ち上がった。
普段なら静かに燃える火だ。空気を弾くように、薄玻璃の内側で音を立てたのが気になった。
変化が起こる時は、大抵良くないことが起こる。ウメノによってお守りがわりですよと分けてもらったアモンの炎が、狭い中を窮屈がるように転がった。
「……何か起きたかな」
金糸水晶の瞳が細まる。カエレスが視線を投げた壁には、アテルニクスを模したネメスがかけられていた。それは、市井に出る時にカエレスがつけるものだ。
狼の姿は呪いによるものだと、ティティアにも言っていない。ネメスを被ることで戻る本来の姿は、城の中でも限られたものにしか知られてはいないからだ。
獣の指先が、壁に伸ばされる。なにかに呼ばれるように、ネメスに触れた時だった。
「カエレス様‼︎」
「ハニ?」
いつもなら、執務室の扉を叩いてから入室する。そんな礼儀正しいハニが、切迫感を表情に宿して部屋の扉を開け放った。
細い体には、いつもとは違う黒い衣服。身に纏うのは有事の際にしか着用しない暗部の装束であった。
外套に、種族を隠すネメスを首から下げている。カエレスは帯剣しているハニの姿を認めると、ネメスに触れようとした指先を握り込んだ。
「随行していたマルカとともに、ティティア様が消えました」
「……わかった。ロクとヘルグはまだ市井かな」
「城門東のヘルグ兵隊長管轄の部隊は市井の出入り口を塞ぎました。状況から侍女のマルカが関わっているかと。ロクはニルと共に」
「私も向かう」
「っなりません‼︎」
カエレスの言葉に、状況報告をしたハニの表情がこわばった。美しい青の瞳に、いつもの穏やかさはない。ハニは立ち上がると、扉の前を退かぬと言わんばかりに両手を広げた。
「今、ウメノがアモンの炎を広げて絞り込みをしています。市井を照らす灯火はすでに手中にあります、カエレス様の出る幕は」
「嫌なんだよ」
「──── 、何を」
く、と眉を寄せたハニが、カエレスを見上げる。獣の表情を読み取ることは難しい。穏やかな声色で呟いた、カエレスの手が壁にかけられたネメスをとった。
「私は、ティティアに嫌われたくない」
カエレスの言葉に、ハニの細い喉がゆっくりと上下した。その言葉の意味を額面通りに取るものはいない。
穏やかな気性のカエレスが、静かに怒っている。金糸水晶の瞳は鈍く輝き、腹の奥底から揺らぎ立つ殺意を抑えているようだった。
言葉を失うハニの眼の前で、狼を模したネメスを被る。それだけで、カエレスの姿はたちまち変化した。ネメスにかけられた術が、仮初の体を導く。神に奪われた、男神アテルニクスの本来の姿へと。
「……カエレス様」
「東門から向かう。相手はもう見当はついているだろう。招かれたのなら向かわねば」
「ヴィヌスの信徒が望むのは貴方の」
「一緒さ。ティティアを奪われれば、どのみち私は死ぬのだから」
長く、緩やかに波打つ黒い髪がハニの横を過ぎる。青い瞳に映るのは、褐色の肌を晒す一人の男。獣頭の時よりも、幾分か小さくはなっているが、それでもまだ見上げてしまう。
元の姿と同じ、腕に金のバングルを嵌めたカエレスは、切れ長の二重でハニを見つめると、小さく笑った。
命が狙われている。それなのに、いつだって堂々としているのだ。番いを奪われて、確かに怒りを滲ませているはずなのに、その矛先の向きは決して誤らない。
大きな手に握られた、蛇を模した杖。穏やかになりつつある治世では見なくなったものだった。それを、カエレスが握っている。
ハニは唇を真一文字に引き結ぶと、悔しそうに表情に影を落とす。それを手にするようなことが起きませんようにと、願っていたからだ。
金と黒の装飾がされた細長い杖を、カエレスがゆっくりと横に滑らせる。足元の影がぐにゃりと歪み、それはハニの影と混じるようにして繋がった。
「向かうよハニ。少し乱暴だけど許してくれ」
水面が揺らぐような、そんな静かな音がした。その瞬間、影は花開くように広がり、あっという間に二人を飲み込んだ。
「う、……?」
一体何が起きたのだろう。ティティアは微睡から浮上するように、ゆっくりと目をあけた。
埃っぽい場所だ、砂壁だろう黄土色の壁に囲まれた狭い部屋に、一人で寝転がっていたらしい。
思考が明朗になってくると同時に感じたのは、静かな焦りだ。
(俺、確かマルカを追って……それで、彼女はどこに)
冷や水を浴びせられたかのように体が冷えていく。慌てて起きあがろうとして、できなかった。受け身も取れぬまま、再び地べたに逆戻りをしたティティアの手足には、枷のようなものがつけられていた。
「な、なに、なんでぇ……⁉︎」
思わず声に出してしまった。黒鉄の冷たい鎖が、自由を奪うように手足に巻きつけられている。その先は壁に繋がっているようだった。
焦りを瞳に宿すように辺りを見回す。入り口らしい場所には鉄の扉が嵌め込まれ、ここから出す気はないと言うように重々しい存在感を放っていた。
何かを間違えてしまったのだろうか。ティティアの細い喉はゆっくりと上下した。
ここに一人でいるとしたら、共に行動をしていたロクとヘルグは罰を受けるかもしれない。悪い考えが、じわじわと追い詰めるようにティティアを焦らせる。
ここに来てから、どれほどの時間が経っているのだろう。初めて城の外に出た、攫われた理由もわからない。
市井の人は、ティティアがカエレスの番いであることは知らないハズだからだ。
嫌な予感が身を苛む。もし、マルカが関わっていたらと頭に浮かんで、悪い予想を払うように頭を振った。
地面を摩擦するような音がして、ゆっくりと顔を上げる。分厚い扉は、ティティアの眼の前で床を削るように開かれた。
光の隙間を埋めるように伸びた影が、ティティアのつま先を撫でる。嫌な汗が滲んで、後退りするように身動いだ。
「こんばんは、初めまして?」
「え、」
「うんうん、戸惑っちゃうよねえ、ごめん」
重い扉を開いて姿を現したのは、随分と人付きのする笑みを浮かべた青年だった。
ティティアの予想と反した姿を前に、戸惑う表情まで読まれていたらしい。茶色い長髪を三つ編みにした男は、細目を緩めて困ったように肩をすくめた。
「こんにちは、カエレスの番い様。僕はヴィヌス、始祖と同じ名を持つ男だ」
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