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第8話・脈無し(杉野目線)

「では、このデータは後で送っときますね」 「よろしくお願いします」  仕事の話が一区切りしたころには、会議室から見える景色は薄暗かった。  4人用の白いデスクに手をついて立ち上がりながら、取引先の営業である山吹が藤ヶ谷と杉野に爽やかな笑みを向けてくる。 「少し長引いちゃいましたね。俺直帰だから、この後飯でもどうです?」  人好きのする明るい声に、ホワイトボードとデスクだけのこじんまりとした会議室の空気が和らいだ。  杉野はテーブルの上のタブレットの時間を確認する。  17時25分、ほぼ定時だ。 「ああ、良いですね」  同意して頷く杉野とは反対に、急に落ち着きを無くした藤ヶ谷がデスクの書類や筆記用具を抱えて深々と頭を下げる。 「ごめん! 今日は用事があるからお先に!」 「え?藤ヶ谷さん?」  止める間もなく、バタバタと慌ただしく行ってしまった。  通常であれば来客が帰るまで見送るものだが、山吹には気を許しているせいで扱いがぞんざいになっているようだ。  杉野と2人で置いて行かれた山吹も、そのことを気にした風もなくメガネの奥の目を楽しげに細める。 「デートかな」 「あー……そうかも」 「え、そうなのか」  2人の口調が、ビジネスの場にそぐわない砕けたものになった。  杉野と山吹は高校時代の友人だ。  アルファ同士ということでよく一緒にいたのだが、取引先の営業として出会った時には流石に驚いた。  藤ヶ谷もそれを知っているので、3人で食事に行くこともよくあるのだ。  先ほどの適当な態度も、藤ヶ谷の大雑把な性格と、山吹を友人の1人として扱っていることの表れである。  山吹は藤ヶ谷が出ていった扉を見つめ、大袈裟に目を見開いて口を押さえた。 「あの枯れ専についに恋人が」 「まだ恋人じゃない」 「おっと失礼」  棘のある杉野の声が即座に否定すると、山吹はニヤニヤと唇の片端を上げた。  いつもより乱暴な手つきでデスクの上を片付ける杉野に対し、興味津々で言葉を重ねてくる。 「相手に心当たりでもあるのか?」  杉野はピタリと動きを止め、分かりやすく不機嫌な表情になった。 「こないだバーで会った胡散臭そうなおっさんアルファじゃねぇかな、とは思う」 「説明に悪意を感じる」  クックッと可笑げに喉を鳴らす山吹にため息を吐き、バーで出会った忌々しい男の姿を頭に浮かべる。  若い自分とは違う熟成されたアルファの香りを漂わせ、余裕のある態度であっさりと藤ヶ谷の興味を奪っていった。  実は店に入った瞬間から杉野は彼の存在に気がついていたのだ。  入社して2年間の付き合いで把握した藤ヶ谷の好みにあまりにも当てはまっていた。  だから邪魔されないように計算した席に座ったのに。  藤ヶ谷のセンサーと美貌が2人を引き寄せてしまう。 (せっかく2人で飲んでたのに)  よろけた藤ヶ谷が胸に収まった時の、勝ち誇った視線を思い出すだけで目の前が赤くなる心地だ。  アルファ同士の攻防など、全く気がついてない藤ヶ谷も藤ヶ谷でタチが悪い。  杉野は立ち上がりながら舌打ちした。  長い付き合いの山吹しかいないなら何の遠慮もいらないと、悪態を吐く。 「あの年齢なら番がいるか結婚してろよ。つか年考えろクソジジイ」 「年とか性別とか関係ないっていつもカッコつけてるくせに。嫉妬は見苦しいぞー」 「うるさい」  自身の言動の矛盾を指摘されて、不貞腐れながらも杉野は黙る。  一歩近づいた山吹が、グッと肩を抱き寄せてきた。  不快にならない程度の上品な煙草の香りと共に、アルファ同士で身長の近い二人の顔がグッと近づく。  山吹は悪だくみをするときのように声を潜め、言葉を紡ぐ。 「本気で口説けばいいだろ。それでもアルファか。しかもお前は」 「なぁ山吹」  皆まで言わせないように、杉野は呼びかけた。  至近距離にある、眼鏡の奥の瞳を見る。 「この距離で話して、相手に脈を感じなかったことがあるか?」 「無いな」  即答だった。  アルファはその優秀な頭脳や整った顔立ちのため、性別が判明する前から異性にも同性にも人気があることが多い。  杉野や山吹も例外では無かった。  小さく自嘲して山吹から体を離すと、杉野は髪を掻き上げて藤ヶ谷が出て行ったドアに視線をやる。 「藤ヶ谷さんには脈なんて感じたことがない。本気で俺のことなんて眼中に無いんだよ」  どんなに尽くしてアピールしているつもりでも、藤ヶ谷には全く伝わらない。  蓮池と会ったとき、藤ヶ谷は本人が思っているより相当酔っていた。  大人に対して過保護だとは思ったが、藤ヶ谷は自分の魅力に余りにも疎すぎる。  初対面の相手に住所を伝える羽目になったり、持ち帰られたりする可能性があると思ったから傍を離れなかったのに。  完全に邪魔者扱いだった。 (まぁ、邪魔もしたかったけど)  いつも藤ヶ谷が見ているのは年上のアルファで、如何に彼らが格好いいのかを杉野に語って聞かせてくる。 「強敵過ぎて同情するよ」  山吹は肩を竦ませ、スーツの襟を引いて整える。 「でも、そのくらいの方が落としがいがあるだろ」 「ゲームじゃないんだぞ」  どこまでも楽し気な山吹を睨み付け、床に置いてあった黒い牛革のカバンを持ち上げた。  そこで、ふと思いつく。  カバンを差し出しながら、杉野は熟考せずに山吹に問いかける。 「なぁ、お前顔広いだろ」 「それなりに」 「頼みたいことがある」  真剣な表情を見て目を瞬かせたが、山吹はすぐに口の片端を上げた。 「それは……今日の夕飯はただ飯ってことでいいか」 「相変わらずちゃっかりしてるな」  杉野は藤ヶ谷の顔を思い浮かべながら、依頼内容を脳内でまとめることにした。

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