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第30話・フェロモンのコントロール
杉野は箱の文字を読み、目的のものではないと元に戻す。
そして、どこか遠くを見るような目で静かに語り出した。
「第二性の診断より前に、日直が一緒だった子と2人になったんです。それで、隣に座るその子の香りがいい匂いだなって思った。だけだった、はずなんですけど……」
まだなんの自覚もなかった杉野から、無意識に発情を誘発するフェロモンが出ていたのだという。
オメガだったらしい相手の子は、その影響を受けて初めてのヒートに入った。
「その後の俺は完全に理性を無くしてて、記憶も飛んでるんです。気がついた時には先生たちに羽交締めにされて……あの子はもうその場にいなかった」
ハイアルファはなかなか居ないため、アルファのフェロモンが原因の事故というのは本当に珍しい。
しかし、第二性診断前のオメガに早めにヒートがきて同級生のアルファをラット状態にしてしまう事故は稀にだがある。
性別が分からないため抑制剤もまだ飲んでいない彼らの事故は、防ぐのが難しい。
杉野の場合は発見が早かったため、結論から言うと「何も無かった」という。
だがそのオメガの同級生はその日以降、学校に来ることはなかった。
フェロモンのコントロールが難しい幼いオメガは、オメガ専門学校に通える年まで隔離施設で生活することになるのだ。
「ヒートの原因も襲ったのも俺なのに。俺はそのまま変わらない生活をして、被害者のその子は親元からも離された……おかしくないですか」
杉野本人にとっては完全なトラウマとなった。
だからヒートを誘発できるハイアルファであることが知られるのが「怖い」のだと。
藤ヶ谷は杉野が妙にアルファに対して警戒心が強い理由も、なんとなく理解した。
有事の際、様々な観点からオメガが圧倒的に不利だ。
それをオメガである藤ヶ谷よりも、身をもって体験しているのだから。
杉野は事故未遂以降ずっと、フェロモンを調整する薬を飲んでいる。
否応なくアルファには気づかれているが、プライドの高い彼らは誰も「杉野は自分より上位だ」などとわざわざ口にしない。
それが、杉野にとっては好都合らしい。
(お前は悪くないだろ)
藤ヶ谷は思ったことをそのまま伝えたかったが、口を閉ざす。
そんな言葉はきっと今まで何度も何度も言われているはずだ。
どうしようもなかったことなど杉野も分かっていて、「抑制剤を欠かさず飲む」という結論が出ているのだ。
(慰めて欲しいわけじゃないよな、お前)
倉庫内を歩きながら、藤ヶ谷は出来るだけ言葉を選んで口を開く。
「まだ上手くコントロール出来ない、のか?」
「分かりません。怖くて薬が辞められない……って言うと、相当ヤバいやつなんですけど」
杉野は自嘲したが、藤ヶ谷は笑わなかった。
藤ヶ谷のヒートに合わせて過剰に思えるほど抑制剤を飲んでいるのも、同級生を襲いかけた後悔の念からなのだろう。
「でもハイアルファ用の薬って少ないんです。だから兄さんは出来るだけ体に負担の少ない薬を開発するからって。その時からずっと言ってて」
「それで製薬会社の開発部か。すごいな。そういやあそこの会社、他のとこよりアルファの薬にも力を入れてるイメージだ」
オメガの抑制剤は研究が早く始められ、今ではどこでも手に入る。
それに比べるとアルファ用の薬は、確かに少ない。
藤ヶ谷が存在するかも怪しいと思っていたハイアルファなら尚更だ。
優一朗は率先してハイアルファ用の薬の研究に勤しみ、杉野に薬が回るように手配しているのだ。
「だから兄さんは良い人って話で……なんか長くなってすみません」
「すげぇ伝わったよ。お前のことも、辛いのに教えてくれてありがとうな」
藤ヶ谷がいつもと変わらない調子で笑いかけると、話しながら強張っていた杉野の表情が和らぐ。
確実に優一朗への好感度を上げながら、藤ヶ谷は自分も高いところの箱を確認しようと台に登る。
段ボールの側面に貼ってある商品内容のラベルが目の前にきて、作業が捗る。
逆に杉野は腰を屈め、下に置いてある箱を次々と見ては戻しとしながら項垂れた。
「薬を常用せずに抑制剤だけ持ち歩けば、ここまで心配させることなかったんですけど」
「無理すんな。今のところ体に異常はないんだろ?だったらお兄さんに甘えとけよ」
フェロモンの分泌は健康状態はもちろん、精神状態も大きく左右する。
オメガでも、初めてのヒートの際の状況によっては、2度目のヒートがなかなか来ないなどの弊害が出るという例も聞く。
逆に番の浮気が原因でずっとヒートのような症状が出ることもあるらしい。
副作用が少なからずあるのが厄介なことではあるが、自分でどうすることもできないならば薬に頼るのも手だ。
当然だと思って藤ヶ谷が答えると、杉野は不意に真っ直ぐ見つめてきた。
「……藤ヶ谷さん、逃げないんですね」
「逃げるって、なんでだよ」
「俺は今ここで、藤ヶ谷さんをヒートにして襲うことだって出来るんですよ」
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