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第20話 新たな日常のスタート
ようやくノアール殿下と身も心も繋がった。しっかりとうなじを噛んでももらった。互いに思いを告げ、気持ちを確かめ合うこともできた。
今回の発情は二日間だったと聞いた。日数的には長くないものの、強制的に起こされた発情は体に負担がかかったらしく、数日間は部屋でゆっくり過ごすことになった。
「おかげで下絵が随分と進んだ」
ケーキ皿ほどの大きさのキャンバスに描いているのは、ノアール殿下の顔だ。本当はビジュオール王国に来る前に届くはずだった肖像画を、いま僕自身が描いている。
「あのときは、とにかく急いでいたからな」
何とか借金を返すためにと大急ぎで準備を進めた。そのため顔を知らないままビジュオール王国へとやって来た。当然父上も母上もノアール殿下の顔を知らない。それでもかまわないのだろうが、やっぱり顔くらいは知りたいんじゃないかと思って肖像画を描くことにした。
「子どもの婚姻相手の顔すらわからないままというのは、さすがになぁ」
両親がそろって遠いビジュオール王国に来ることはできない。王太子であり唯一の直系王族であるノアール殿下がアールエッティ王国に行くのも現実的ではない。それならと、両親に肖像画を送ることにした。
「それにしても、本当に結婚できるなんて思わなかったな」
そう、僕とノアール殿下の婚姻が正式に決まった。男のΩである僕が殿下の一人目の妃に選ばれたのだ。
そのことに僕より驚いたのは父上だった。それもそうだろう。数日前には「帰国します」という手紙を寄こしてきた息子が、今度は「婚姻が決まりました」と送ってきたのだから「何が起きているんだ?」と混乱してもおかしくない。
「何より僕自身が驚いているんだ」
僕は、ノアール殿下の妃になることを最終目標にビジュオール王国にやって来た。国のためにはそれが最善だと考えていた。しかしそれは叶わないのだと諦め、数日前は帰国する準備を進めていた。ところがいまは、婚姻の準備で慌ただしくなりつつある。
「人生、何が起きるかわからないってことだな」
アールエッティ王国ではさぞかし大騒ぎになっていることだろう。つい数カ月前まで王太子だった僕がΩだと判明し、さらにこんな大国に嫁ぐことまで決まったのだ。
「そうか。そういう意味ではビジュオール王国でも騒ぎになっているか」
僕は存在自体が珍しい男のΩだ。αやΩが身近に存在する国だからこそ、アールエッティ王国よりもよほど騒ぎになっているに違いない。中には「本当にΩなのか?」と訝しんでいる人もいるだろう。
しかし僕の耳には騒ぎの欠片すら聞こえてこなかった。殿下に「部屋でしっかり休むように」と厳命され、部屋を出られない僕には外の様子はわからない。後宮にいる姫君たちの反応もわからないままだ。
「そろそろ部屋の外に出たい気もするが……」
体調はすっかり戻っている。以前の僕なら「スケッチでもするか」と気軽に部屋を出ていただろう。
しかし、いまはノアール殿下の妃になる身だ。首を噛まれたとはいえ身辺には十分気をつける必要があるし、殿下の許可をもらうまでは部屋の外には出ないほうがいい。それに侍女たちからもやんわりと足止めされていて、それを無視してまで外に出ようとは思わなかった。
「肖像画を描く時間ができたと思えば、まぁいいか」
ベッドで寝ている必要はないから、製作時間だと思えばいいだけだ。今日も朝からキャンバスに向かい、さて色を塗るかと絵筆や絵の具をあれこれ用意したところだ。
「そういえば、肖像画を描くのは久しぶりだな」
後宮に来てからは、もっぱら植物ばかりを描いていた。勘は鈍っていないだろうな、なんて少し心配しながら絵皿に絵の具を出す。そうして「まずは下塗りだ」と絵筆を持ったところで、ぴたりと右手が止まってしまった。
「これは絵だ。別に本物の殿下と見つめ合っているわけじゃないぞ」
わかりきっていることなのに、正面を向いた殿下の絵を見るたびにドキッとする。視線が合うわけじゃないのに見つめられているような気がして胸が高鳴る。
「いやいや、これは絵だ。僕は何を考えているんだ」
これは肖像画であって本人じゃない。それなのにやけに気恥ずかしくなるというか、首のあたりがそわそわするというか、どうにも落ち着かなくなる。
「だから、これは絵なんだ」
自分に言い聞かせるように声に出し、改めて絵筆を持った。そうして下塗りを進めては時々絵筆が止まり、また言い聞かせ……そんなことを何度もくり返す。これではいくら時間があっても足りないなと思いながら、僕は頬を熱くしたまませっせと絵筆を動かした。
「うーん、この色だと少し顔色がくすんで見えるか」
テーブルに首飾りの試作品を並べ、時々自分の首に当てながら鏡を見る。色合いを改良してから二度目の試作品は、真紅より少し深い色味になっていた。悪くはないが、首につけると少し肌映りがよくない気がする。
「なるほど、だから母上は何度も試作品を作っていたのか」
とくに帽子は色も形も作り直すことが多かったような気がする。おそらく顔にもっとも近い場所にある装飾品だから、肌との色合いや全体の雰囲気など調整することが多かったのだろう。そんななか次々と美しい帽子を作り出していた母上には、心の底から尊敬の念を抱かざるを得ない。
「深みを求めるよりも、いっそ鮮やかなほうに切り替えるか」
アールエッティ王国では革を鮮やかな色に染めることができた。Ω用の首飾りの革は特殊なものらしいが、きっと同じように染められるはずだ。
「僕に染め物の知識があれば、もっと的確に指示を出すことができるんだけどな」
とりあえず職人には色味を再調整してもらうことにしよう。紙に色鉛筆で参考の色を塗り、その横に具体的な雰囲気を文字で書き記す。
「それにしても、もう一度首飾りの作業に関われるようになるとは思わなかった」
ビジュオール王国を去ろうと決意したときは、試作品まで進んでいた首飾りの完成が見られないことを残念に思った。僕が考え得るデザインや色、カラーストーンを使ったときの図案などは用意したものの、本当は最後まで見届けたかった。
それが、僕と殿下の婚姻が決まったことで再び関わることができるようになった。今度こそ最後まで見届けようと決意する。
「さて、次は留め具だが……」
留め具の試作品を手にし、どんな具合か付けたり外したりをくり返してみる。
「悪くはないけど、自分では付けづらいかな」
自分で装飾品をつける姫君はいないだろうから、これで十分かもしれない。しかし民にも生まれることがあるらしいΩのことを考えると、やはり自分で取り外しができるほうがいいだろう。
「それに、僕も一人で身に着けるわけだし」
よし、こちらももう少し試作を重ねてもらうことにしよう。
具体的な要望を紙に書いたところで、侍女が届けてくれた手紙の束が目に留まった。二通は見慣れた色と柄の封筒でアールエッティ王国からのものだ。残りはビジュオール国内の王族からの絵の依頼だろう。
王族からの依頼が届いた当初、ノアール殿下は少し難しい顔をしていた。それでも数日後、植物画や風景画なら受けてもいいという話になった。本当は肖像画こそ描きたいところだが、殿下の許可が得られない以上仕方がないと諦めている。
「まぁ、身分的なことを考えれば当然だな」
王太子の妃が、ほいほいといろんな人に会うのはよくない。ということで、依頼されて描くのももっぱら後宮や殿下の執務室から見えるものばかりになった。はじめは肖像画の依頼が多かったものの、最近では風景画や静物画が増えているからちょうどいい。
今回届いている手紙もそういった絵の依頼だろう。そう思って何通か手にしたところで、見慣れない封蝋に気がついた。
「これは……?」
小さな花が頭を下げているように見えるから鈴蘭だろうか。これまでこんな模様の封蝋は見たことがない。そもそもノアール殿下の母君である王妃以外の手紙で、封蝋が施されているのは初めてだった。
「もしかして高位王族からか?」
疑問に思いながらも封蝋を解いて中身を見た。取り出した紙には封蝋と同じ鈴蘭の透かし模様が入っていて、流れるような美しい書体で文章が綴られている。
「なになに……招待状か?」
文章の最後に“リュネイル”と書かれている。おそらくこの人物が差出人なのだろう。文中には「月桃宮へお越しください」とあるから、招待状で間違いない。
「リュネイル様? どなたかわからないけど、王族のお一人だろうか」
月桃宮は王太子の後宮と国王の後宮の間にあると書かれている。ということは後宮に準じた建物ということだ。
「もしかして、ノアール殿下の関係者か?」
殿下からは月桃宮という言葉を聞いたことはない。ということは、国王の後宮ということだろうか。
「そうか、陛下の妃のいずれかからの招待状か」
ビジュオール王国に到着してから今日まで、僕はまだ一度も陛下に拝謁していなかった。三十人近くいる息子の妃候補に毎回会っていては大変な手間だからおかしなことではない。
王妃にお目にかかったのも先日が初めてだ。もしかして他の妃たちも僕に会いたがっているのかもしれない。それで、こうして手紙を寄越したということなら理解できる。
「男のΩはやっぱり珍しいんだろうなぁ」
物珍しそうに僕を見た王妃の顔を思い出した。「やっぱり珍獣のようだなぁ」なんて久しぶりに思ったが、他の妃たちも同じ反応をしそうな気がする。
「なになに、殿下には内緒でお出でください、か。まぁ、陛下の後宮なら報告しなくても問題ないかな」
それに殿下に首を噛まれたのだから、他のαにどうこうされる心配もない。後宮なら同じΩ同士だし、国王の寵愛を奪い合う相手でもないのだから大丈夫だろう。そう考えた僕は、手紙に書かれていたとおり翌日の午後、月桃宮なる建物へと向かうことにした。
月桃宮は想像していたよりも小さな建物だった。とはいえ、さすがは大国ビジュオール。趣向を凝らした美しく優美なたたずまいに「ほぅ」とため息が出た。
いつかこの建物も描いてみたいと思いながら侍女に案内された先には、これまた美しい扉があった。音も立てずに開いた扉の先には、なんとも表現しがたいほど美しい人がいた。
(まるで愛の女神のようだ)
芸術の神の妻である愛の女神は、金髪碧眼で美しい姿をしていると言われている。小さい頃から聞いていたその女神が降臨したのかと本気で思った。
(なんという造形美……このような美しい人は初めて見た)
思わず肖像画を描かせてほしいと言いかけ、慌てて頭を下げる。
「どうぞ、座ってください」
「ありがとうございます」
なんと、女神は声まで美しいのか。心地よく耳に響いたのは、低く落ち着いた声で……低い声?
(いまの声は、もしかしなくても男性か?)
勧められたソファに座り、改めて愛の女神を見た。
長く美しい金髪は三つ編みにされ右肩から垂れている。碧眼は僕の色よりずっと濃く、穏やかな海のようにも見えた。肌もアールエッティの民のように白く、ビジュオール王国や周辺国の人でないのだろう。
(見た目は姫君のようにも見えるが、骨格は男性のように見える)
ドレスではないが、男性が着る一般的な服装とも違う。ゆったりとしているから胸が膨らんでいるかは判断できない。
(というより、この服はたしか……)
「ご足労いただいて、ありがとうございます。本当はわたしのほうから出向きたかったのですが、この宮から出ることが許されていないので不躾にもお呼び立てしてしまいました」
「いえ、それはかまわないのですが……。あの、もしかしてラベルミュール国の方でしょうか」
「はい。よくおわかりに……あぁ、殿下はアールエッティ王国の王子でしたね」
「第一王子のランシュと申します」
独特のデザインをした服と色素の薄い容姿からそうではないかと思ったが、どうやら当たったらしい。そういえば、名前もラベルミュール国の響きに近い。
ラベルミュール国はアールエッティ王国と同じ大陸の北西側にある小さな国だ。アールエッティ王国より北に位置し、島々から成り立つ珍しい国でもある。国王はおらず、各島の領主が集まって政治を行っているとも聞いていた。
そんな国の男性が遙か遠い大国ビジュオールの、しかも後宮に近い建物にいるとはどういうことだろう。
「申し遅れました。テュロー島の領主の息子でリュネイルと申します。ここでは、一応国王陛下の妃の地位にあります」
「……え?」
いま、国王の妃と言ったか?
「わたしも殿下と同じ男のΩなのですよ」
「男性の、Ω」
生まれて初めて見る男のΩに、自分もそうだというのに驚きのあまり口をぽかんと開けてしまった。
「驚かせてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「いえ……、あの、驚きはしましたが」
「わたしも少し驚いています。自分以外の男性Ωがビジュオール王国にいるとは思っていませんでしたから」
それには僕も大きく頷いた。
リュネイル様の話では、これまで男性のΩに会ったことは一度もないそうだ。そこに珍しいΩが王太子の後宮にやって来たという噂を聞いた。漏れ聞こえる話で僕が男のΩだとわかり、さらにノアール殿下の妃になるということで一目会いたいと思ったのだという。
さらに驚いたのは、いま国王の後宮には王妃とリュネイル様しかいないということだった。殿下からは三十二人の妃がいるという話を聞いたばかりだったが、他は全員家や国に帰されたのだという。
「では、陛下の後宮には王妃殿下がお一人で住まわれていて、リュネイル様はこちらに一人で住んでいらっしゃるのですか?」
「最後の妃が後宮を去ったのは、もう二十年以上前になります。それ以降、新しい妃が迎え入れられたことはありません」
ノアール殿下の話では、国王と王太子は多くのΩを妃にして子を作ることが努めだということだったが、なぜ国王は二人以外の妃を帰したのだろうか。もし他に子があれば、殿下が一人で背負わなくてもいいことがたくさんあったはずだ。
僕が訝しんでいることに気づいたのか、リュネイル様が「いろいろ難しいですね」と微笑んだ。
「わたしに子ができれば、少しは陛下や王太子殿下のお心も安らいだのかもしれませんが」
「それは……」
「子ができなかったというのに、こうして月桃宮に住み続けているのです」
そう言いながら微笑む顔はとても美しく、まさに女神のようだと思った。それなのに、どこか少しだけ憂いを含んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
(……そうか、首飾りをしていないということは)
Ωであるリュネイル様は、αである国王に首を噛まれているのだ。だから子ができなくても後宮から出られないのだろう。ということは、家や国に帰された妃たちは噛まれていなかったということになる。
(殿下の後宮にいる姫君たちも、皆お揃いの首飾りをしたままだったな)
いまならわかる。それは平等のように見えて本当は残酷なことだ。
姫君たちは首飾りを見て誰も選ばれていないことに安堵しながら、誰が最初に選ばれるか常に意識することになる。家や国を背負い、自分こそが最初の一人になるのだと必死に願うだろう。同時に自分以外の姫君たちが消えることを望み続ける。そうした日常を、後宮という場所は姫君たちに強いていた。
そんな姫君たちの姿が首飾りに象徴されているような気がして、何とも複雑な気持ちになる。
「後宮のことは陛下も悩んでいらっしゃいました。その結果、集められた大勢の妃たちが帰されたのです。噛まれていなかった彼女たちは、その後全員他のαに嫁いだと聞いています」
「そうでしたか」
「そういう経験をしたというのに、ご自身もノアール殿下に同じことを強いようとしている。これでは嫌われたとしてもしょうがないと言うのに」
リュネイル様の言葉に「え?」と思った。もしかして、国王と殿下は仲がよくないのだろうか。
(そういえば、王妃のことは母上と呼ぶのに、国王のことは陛下と呼んでいたか)
いままで気にしたことがなかったが、仲違いしている上でそう呼んでいるのだとしたら……。いまだに僕の国王への拝謁が叶わないのは、そのあたりが原因かもしれないと思い至った。
(僕もよく思われていないかもしれないってことか)
殿下の妃に決まったいま、どこかで必ず国王に拝謁しなくてはいけなくなる。もしかしたら、そこで何かしら言われるかもしれない。たとえば「子はまだか」だとか「次の妃は誰か」だとかは十分に考えられる。
(それを王太子であるノアール殿下が断ることは難しいだろうな)
殿下に新しい妃を……想像しただけで胸がちくちく痛んだ。殿下は僕以外に妃を迎えるつもりはないと話していたが、子ができなければそうも言っていられなくなる。発情のときにαとΩが閨を共にすれば懐妊するものだと聞いているが、男のΩが本当に懐妊できるのかもわからないままだ。
(それに、リュネイル様には子ができなかった)
それが答えだとしたら……。
「大丈夫ですよ」
優しい声に視線を向けると、柔らかい笑みを浮かべたリュネイル様が僕を見ていた。
(あぁ、なんて美しいんだろう)
こんなに美しい人を一度でいいから描いてみたい。考えなくてはいけないことがいろいろあるのに、僕の中の画家としての欲望が頭をもたげ始める。
黄金の髪が映えるのは青空だろうか。海のように濃い碧眼と空の対比は見惚れるほど美しいだろう。もしくは優美な庭園を背景にしても映えそうだ。あぁ、窓の向こうに広がる庭など、女神のようなリュネイル様にぴったりじゃないか。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
リュネイル様の声にハッとした。話の途中だったのに、僕の頭の中はすっかり絵を描くことでいっぱいになっていた。改めて「我慢、我慢」と自分に言い聞かせながらリュネイル様を見る。
「あの、大丈夫とは……?」
「ノアール殿下は、間違いなくランシュ殿下を大事にされるでしょう。お小さい頃から見てきましたが、そういう気質の殿下でいらっしゃいます」
「はい、何となくわかります」
殿下は真面目な方だ。しかし考え方は柔軟で、僕が絵を描くことにも賛成してくれている。首飾りのデザインという新しいことにも挑戦させてくれた。それらすべてが僕を思ってくれてのことだというのは、ちゃんとわかっている。
「それに、先手を打つのも早くていらっしゃる。それだけランシュ殿下のことを真剣に思っているということでしょうね」
「先手を打つ?」
「陛下が何かおっしゃったとしても、気にされないことです」
「あの……はい」
よくはわからないが、どうやら僕を気遣ってくださっているらしい。
(もしかして、同じ男のΩだから気にかけてくださったんだろうか)
だから、こうして月桃宮に招いたのかもしれない。それも、おそらく国王には内緒でだ。
(しかし、それほど陛下と殿下の仲がかんばしくないのであれば、殿下に言わずにここに来たのはまずかったかな)
そう考えた僕に、何もかもお見通しらしいリュネイル様がにこりと微笑んだ。
「ノアール殿下には先ほど使いを出しましたから、殿下がここにいらっしゃることはご存知です。ただ、先に知られると止められたでしょうから“殿下には内緒で”と書かせていただきました」
「そうでしたか」
理由はわかったが、同じ男のΩだからと正直に話せば止められることはなかったような気がする。そう思い、もしかしてと考えた。
(もしかして、殿下はリュネイル様が男のΩだと知らないのでは?)
というよりも、王宮の誰も知らないのではないだろうか。そうでなければ、僕を珍獣のように珍しがったりはしないはずだ。
理由はわからないが、秘密にしているのなら余計なことは言わないようにしよう。よその国から来た僕が口を出して後宮で揉め事が起きては大変だし、そうなってはますます殿下と国王の仲が拗れてしまいかねない。
(それに、こういう配慮もよその国から嫁ぐ妃の心構えだそうだからな)
閨教育の本で学んでおいてよかった。あの本にはそういう苦労をする妃たちを労ることも大事だと書かれていたが、まさか自分が妃の立場になって実感することになるとは思わなかった。
「もしノアール殿下にお叱りを受けるようなことがあれば、わたしのせいにしてください」
「いえ、殿下はこのくらいで叱ったりはされないと思います」
「ふふっ、たしかに」
あぁ、やはりリュネイル様の微笑みは女神のようだ。いつか絵に描くためにもと、失礼にならない程度にしっかりと目に焼きつける。
「男性のΩは発情が不安定になりやすいと言われています。普段から気持ちを和らげ、あまり考えすぎないことです。そうだ、お嫌いでなければハーブティーやポプリを使われるのもよいかもしれませんね」
「なるほど、よいことを教えていただきました」
「子どものことは、周囲がうるさく言っても思い悩まれないことです。お二人はまだお若いのですし、ご結婚され、落ち着いてからでよいと思いますよ」
「そうですね」
リュネイル様の言うとおりだ。思い悩んだところで子ができるわけでもないし、いまは婚姻に向けてしっかり準備するほうが大事だ。それに発情が安定すれば子もできやすくなるに違いない。
リュネイル様と話すことで、案じていたことが少し晴れたような気がした。
月桃宮でしばらくリュネイル様と話をしたあと、部屋に帰る前にアールエッティ王国から届いた荷物を取りに行くことにした。すっかり帰国する気でいたから多くの画材を送り返してしまったが、この先ずっとビジュオール王国にいるとなると再び大量の画材が必要になる。
そこで、父上に定期的に画材を送ってもらうようにお願いした。もちろん到着時にきちんと代金を支払う手続きも済ませてある。支払うのは僕で、ビジュオール王国で売れた絵画の代金を当てることにした。
「少しでもアールエッティ王国の収益になればいいんだが」
そう思ってはいるものの、残念ながら画材代だけでは大した金額にはならない。今後ずっと支払うとしても、送ってもらう手間を考えるとよい方法だとは思えなかった。
「やはり、根本的な部分をどうにかしないとなぁ」
本来、こういうことは王子である僕が考えることではないかもしれない。しかし国の財政難をどうにかするためにビジュオール王国に嫁ぐのだし、両国にとってよい形の取引ができないか考えるのは僕の役目だ。
「何にしても、一度じっくり考える必要がありそうだ」
そんなことを思いながら、今し方受け取った画材を見た。今回はキャンバスを多めに送ってもらったが、やはりビジュオール王国のものとは質がまったく違う。この質のキャンバスを求めるならアールエッティ王国から運んでもらうしかない。
何枚も重なったキャンバスを見ながら、後宮の出入り口に近い自分の部屋へと向かった。長い廊下に僕が歩くトントンという足音が響く。
(やけに静かだな)
これまでなら、そろそろ姫君たちの集団に出会うところだ。キャンバスを抱えている妃候補らしからぬ姿では何か言われても仕方がないなとため息が漏れる。
(婚姻が決まったのに、まだ画家のようなことをしてとか言われそうだ)
それも仕方がないと覚悟をしながら足を進めたが、一向に姫君たちは現れない。
「そういえば、月桃宮に行くときも誰にも会わなかったな」
少なくとも一度は姫君たちの集団に出くわしそうなものなのに珍しいこともあるものだ。「まぁ、会わなくて済むのならそれに越したことはないか」と思い、かさばるキャンバスを抱え直して廊下を歩いた。
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