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第23話 近づく気配

 僕はいま、二、三日に一回ほどの割合で月桃宮に通っている。リュネイル様の肖像画を描くためで、他の王族の依頼は駄目だと言っていたノアール殿下もリュネイル様のならと許可してくれた。  久しぶりの肖像画に、僕は俄然やる気を出していた。どんな絵でも描くのは好きだが、やはり一番は肖像画だ。年齢性別関係なく、その人をキャンバスに写し取るのは楽しいし描き甲斐がある。久しぶりに体の奥からわくわくしているからか、たまにお腹の奥がぞくりとしてしまうほどだ。 (それに、今回は女神かと思うほど美しいリュネイル様だしな)  骨格の美しさもだが、何より目や鼻、唇の位置が絶妙にすばらしいのだ。大きさもこれが最適解だと言わんばかりに整っていて、果たして自分に描ききれるのだろうかと不安さえ覚える。 「いいや、描ききってみせる」  思わず絵筆を持つ手に力を入れていると、「休憩しましょうか」というリュネイル様の声が聞こえてきた。 「あ、すみません。お疲れになりましたか」  絵に描かれる側は動いてはいけないので、適度に休憩を挟まないと疲れてしまう。いつもならそのあたりもしっかり考えているのに、描くことに夢中になって失念してしまっていた。 「いいえ。わたしは大丈夫ですけれど、殿下のほうが少し休まれたほうがよいかと思いまして」 「僕ですか?」  目をぱちくりさせると「ふふっ、やはり僕という言葉のほうが可愛らしい」とリュネイル様が微笑んだ。  ノアール殿下の前ではすっかり「僕」だったため、何度も「ぼ……わたし」と言い直していたのがリュネイル様は気になったらしく、早々に「僕でかまいませんよ」と微笑まれてしまった。 「頬を赤くしながら描いている殿下のほうが、お疲れになったのではと思いまして」 「いえ……その、久しぶりの肖像画なので少し力んでいるのかもしれません。でもしっかり描きますので、そこはご心配なくと言いますか」 「心配はしていません。ランシュ殿下といえばアールエッティ王国一の画家とうかがっています。そんな殿下に描いていただけるなんて、わたしは幸せ者ですね」 「いえ、僕のほうこそ……」  絵を褒められることには慣れているはずなのに、美しい微笑みを向けられると段々顔が熱くなってくる。「これはたしかに一度休憩したほうがいいかもしれない」と判断した僕は、リュネイル様に勧められて鮮やかな赤色の冷たいお茶を飲んだ。 「これもハーブティーなんですか?」 「はい。祖国では温かいまま飲むんですが、この国の夏は暑いですからね。こうして冷たくして飲むようになりました」 「ほどよい酸味があって、とてもおいしいです」 「それはよかった。これは血の巡りをよくしてくれると言われています。多めに取り寄せましたから、帰りに茶葉を差し上げましょう」 「ありがとうございます」  この間はお腹を温めるというハーブティーの茶葉をいただいた。あちらは少し甘い香りの金色のお茶で、朝飲むとよいらしい。 「そういえば、殿下から少しだけ香りがするような……。もしかして、ハーブティーの効果でしょうか」 「え?」 「発情が近いのではありませんか?」  リュネイル様の言葉に、またもや目を瞬かせる。 「おや、違いましたか。ランシュ殿下からほんのわずかですが甘い香りがしたので、てっきり発情が近いのかと」 「そうなんでしょうか。いえ、疑っているということではなくて、自分の発情のこともいまだによくわかっていないので」 「そういえば、ランシュ殿下はΩになられたばかりだとおっしゃっていましたね」 「はい。二十四歳でΩになったせいか、ついこの前までΩの香りすらしなかったんです。それにαの香りもわかりませんし、あぁでも、ノアール殿下の香りだけはわかるようになったんですが」  僕の返事にリュネイル様がにこっと微笑みを浮かべた。 「少しずつΩの体として安定してきているのでしょう。そのうちノアール殿下の香りも嫌というほど感じるようになりますよ」 「嫌というほど、ですか?」 「はい。とくに発情すればいつもの何倍も強く感じますから、気をつけないと相手の香りに溺れてしまいそうになるくらいです」 「たしかに」  殿下に噛まれたときの発情では、たしかにそんな感じがした。あちこちから入ってくる濃いミルクの香りに息ができなくなりそうなくらいだった。 「ほんの少しではありますが、この甘い香りは殿下から香っているのだと思いますよ」  そう言われて自分の腕をくんと嗅いでみたが、絵の具の匂いしかしない。そんな僕がおかしかったのか、リュネイル様が「ふふっ」と笑った。 「わたしの鼻はとても敏感なのです」 「そうなんですか」 「これも体質のせいでしょうね。自分が放つ香りも強く、さらにΩの香りも強く感じてしまうので、この館ができるまでは大変でした」  αの香りさえわからなかった僕には想像もできないことだが、Ωが大勢いた後宮ではさぞかし大変な思いをしたのだろう。 (そういうことも、この月桃宮を建てた理由なのかもしれないな)  それを命じたのは国王だ。そうするくらい国王はリュネイル様を大切にしているということになる。「あの陛下が」と思わなくもないが、ノアール殿下の父親なら情に厚い人なのかもしれない。そんなことを考えながら自分の腕をくんと嗅いだとき、あることに気がついた。 「そういえば、もうリュネイル様の香りを感じない気がします」 「あぁ、それは発情が終わったからでしょう。大体二日ほどで終わりますから」 「二日ですか」 「個人差はあると思いますが、わたしは昔からそのくらいですね。香りが強いぶん互いに耐えられなくなってはいけないと、本能が短くしているのかもしれません」 「なるほど」  自分の香りがわからないからか、いまだに発情と香りについてしっくりこない。しかしリュネイル様の話から察するに、うなじを噛まれたあとも香りに左右されるということなのだろう。 「たった二日間でも、わたしの香りは陛下を決して逃したりはしません。むしろ二日間で終わるのは陛下のためかもしれませんね」 「え?」 「αはすべてにおいて頂点に立つと言われていますが、Ωに対してはそうではありません。本来、Ωのほうがαを選ぶ立場なのです」 「選ぶ?」 「そう。Ωが噛ませるべきαを選び、許しを得たαがうなじを噛む。Ωの香りをαのものにする代わりに、αはその香りから決して逃れられない。本来、αとΩはそういう関係なのです」  どういうことだろうか。難しい話のようには聞こえないのに、うまく理解できない。それなのに僕のなかの何かは「そうだ」と納得しているように感じる。 「ランシュ殿下は遅咲きのΩですが、本質はわたしに近いのではと思います。もしくは、男のΩ自体が原始のΩに近いのかもしれません。そんな殿下がノアール殿下を選んだのですから、お二人は結ばれるべくして結ばれたのでしょう」 「そうなんでしょうか」 「お二人の間には誰も割って入ることなどできません。大丈夫、心配することは何もありませんよ」  まさに女神と言わんばかりの微笑みに、ふと金髪碧眼の青年の顔が脳裏をよぎった。  十日前に王宮へやって来たその青年は、髪や目の色がリュネイル様と似ているからか少しだけ面影が重なって見える。肌も白く、そういえばペイルルという名前もラベルミュール国の言葉に近い響きだ。 「心穏やかに過ごすのは大事ですが、自信を持たれることも大事ですよ」 「ありがとうございます」  リュネイル様とはこうしてたびたび会っているが、ペイルル殿の話はしていない。しかし月桃宮も後宮の一つ、それにリュネイル様は国王の妃なのだから知っていてもおかしくはない。きっと僕が何を感じているかもわかるのだろう。 「自信があるかと問われると困りますが、それでも僕はノアール殿下の子を生むと決めました。殿下もそれを望んでいますし、期限まであまり時間はありませんが大丈夫だと信じています。まぁ、そのくらいしか僕にできることはないんですけど」 「ランシュ殿下なら大丈夫です。あぁ、でも気負いすぎてもよくありませんから、そこは程々に」 「はい」  気がつけば、僕の相談話のようになってしまっていた。そのつもりはないのだが、リュネイル様の雰囲気がそうさせるのか、ついいろいろと話してしまう。まるで母上を前にしているような気分だなと、おかしなことを思ってしまった。  きっと同じ男のΩ同士だからに違いない。Ωのことを真に理解し切れていない僕にとっては、母というより師と仰ぎたくなる人だ。そんなことを思いつつ、今日は下塗りを終わらせてしまおうと再び絵筆を手にした。  月桃宮に行かない日は、午後からノアール殿下の執務室で庭の絵を描くことにしている。王族からの依頼があるということも理由だが、初心に戻り殿下のそばにいることで発情が促されないかと考えてのことだ。  今日も執務室で一枚塗り終わり、殿下が人と会う約束があるからと部屋を出て行ったあとで僕も後宮に戻ることにした。絵の道具は執務室に置いたままでよいと言われているので、完成した絵だけを手に廊下に出る。 「そういえば、最近ベインブルに行ってなかったな」  毎日忙しくしているから、すっかり足が遠のいてしまっていた。久しぶりに少し覗いてみるかとベインブルのほうに足を向けたとき、金髪を揺らしながら歩いて来る人物が目に入った。肩で切り揃えられた金髪はキラキラと光り、海より澄んだ碧眼が鮮やかに輝いている。  そんな姿に思わずため息が漏れたのは感嘆からではなく、彼との遭遇を若干憂鬱に思ったからだ。 「ランシュ殿下」  踵を返す前に声をかけられてしまった。さすがにこのまま無視して歩き出すわけにはいかない。 「ペイルル殿」 「また絵を描いていらっしゃったんですか? わぁ! 美しい花の絵ですね!」 「ありがとう」 「そういえば、この前の絵も花の絵でしたけれど、花の絵しか描かれないんですか?」 「いや、これは依頼されたもので、」 「そうだった! ノアール殿下はまだ執務室にいらっしゃいますか?」  答えを遮るように次の質問を投げかけられてしまった。別にペイルル殿に悪気があるわけじゃなく、こういう性格なのだ。それは初対面ですぐにわかったことで、こうした行動は無邪気さに拍車をかけるからか年齢よりも幼い人だなという印象が強くなる。 (これで十七歳だと言われても信じられないな)  十六歳の妹のほうがよほど大人に見える。いや、こういう雰囲気のほうが男のΩとしてはいいのかもしれない。 (それにしても、まさかビジュオール王国に男のΩが三人も揃うなんてなぁ)  いや、リュネイル様は男のΩだと知られていないから、公にはペイルル殿で二人目だ。それでも滅多に生まれない男のΩが二人も揃うなんて、とんでもなく珍しいことに違いはない。  ペイルル殿は北方の国シリュス王国の有力貴族の子息だ。シリュス王国から第三王子が親善のために訪れたのは十四日前で、一行の一人としてペイルル殿もやって来た。王子一行は八日前に帰国したが、ペイルル殿は後学のためにと滞在を延長している。 (ペイルル殿が男のΩということで、陛下が許可されたのだろう)  ノアール殿下が僕を選んだということは、同じ男のΩなら近くに置くのではと考えたのかもしれない。殿下の誕生日までまだ時間はあるが、一向に発情しない僕のことなどすでに見限っているのだろう。 (問題は、ペイルル殿にその気があるかどうかだが)  少なくともペイルル殿の家には思惑がありそうだ。そうでなければ、Ωをわざわざ親善一行に参加させたりはしないだろう。  これまでΩだと知られていなかったペイルル殿らしいが、今回わざわざ“男のΩ”だと公にしての来訪は意図してのことに違いない。もしくは、一行がやって来る前から水面下で王太子妃の話が進められていた可能性もある。  無邪気に僕を見ている碧眼が何を考えているかはわからない。ただ、彼がノアール殿下を慕っているのは明らかだった。 「ランシュ殿下?」 「ええと、ノアール殿下は執務で応接間へ行ったよ」 「あぁ、残念! 今日こそはと思ったのに」 「今日こそは?」 「はい。ノアール殿下が執務室の近くの庭に、美しい蓮の花が咲く池があると話していらっしゃったんです。わたし、どうしてもその花が見てみたくて、ノアール殿下に案内していただこうと思っていたんです。でも昨日もその前も、わたしが執務室を訪ねたときはいらっしゃらなくて」  残念そうな表情は何とも可憐で庇護欲を誘う。代わりに僕が案内してもいいが、そういう気持ちにはなれなかった。  殿下が話した蓮の池は、おそらく僕が絵を描いていた場所に違いない。あのときはまだ花は咲いていなかったが、そろそろ池いっぱいに咲き誇っている頃だ。少し前に蓮の葉のスケッチを見た殿下が「そろそろ花が見頃になるな」と話していたのを思い出す。  だからか、どうしてもあの池にペイルル殿を案内することができなかった。池を見たからどうということはないのだが、できればペイルル殿とではなく殿下と二人で見たい。 「うーん、残念。あ! 足を止めてしまってごめんなさい」 「あぁ、うん。それは大丈夫」 「よかった! このまま待っていても殿下がいつ戻られるかわからないし……うん、また明日お訪ねすることにします」  明日も殿下は執務が詰まっていたはずだがと思っていると、「そうだ! 銀の耳飾りの方にお尋ねすればいいのか!」と聞こえて来た。 「銀の、ええと、誰にだって?」 「お名前はわかりません。美しい銀の耳飾りをされている方で、三日前に庭でお目にかかったのです。たぶんお庭に詳しいどなたかだと思いますけど」 「それじゃあ失礼します」と頭をぺこりと下げたかと思ったら、足取りも軽やかに廊下の奥へと消えてしまった。何とも賑やかで身軽な様子は、本当に子どものようだ。  しかし、細い首にはしっかりとした濃紺の首飾りが着けられている。シリュス王国周辺で使われているΩ専用の首飾りらしく、ビジュオール王国のものより少しだけ幅が広い。宝石など飾りはついていないが、代わりに特殊な加工がされているのか光の加減で玉虫色に色が変わる珍しいものだった。 「そういえば、Ω用の薬を服用していると話していたな」  その薬はシリュス王国でしか使われていないらしく、ノアール殿下も知らないようだった。なんでもΩの発情を抑えることができるとかで、Ω特有の香りを出さずに済むためαに襲われることもないのだという。それに薬を服用している間は子ができることもないらしく、シリュス王国のΩは薬を服用しながら比較的自由に行動できるのだと話していた。 「同じΩでも、国によって随分と違っているのだな」  自由があるペイルル殿のようなΩもいれば、リュネイル様のように閉じこもらなければならないΩもいる。僕に至ってはΩらしい特徴がないままのΩだ。 「それに、香りがする前に殿下に噛まれてしまったし」  殿下いわく、もう誰も僕の香りを嗅ぐことはできないらしい。つまり、Ωとしての僕の香りを知っているのは世界に殿下ただ一人ということだ。 「いや、僕を噛むべきα(・・・・・・・)は殿下だけだから当然か」 (……って、いま僕は何を……?)  何かとんでもないことを口走った気がするが、頭の芯がフッと揺らいで何を言ったのかわからなくなる。そういえば体も少し熱っぽい。 「もしかして、本当に発情が近いのかもしれないな」  もし発情が来るのなら、今度が期限までの最後の発情になるかもしれない。今度こそ、絶対に子を孕まなければ。発情の間はずっと殿下のそばにいて、空になるまで注いでもらわなければいけない。  そうだ、殿下の香りも心も体も何もかも僕だけのものだ。僕がそう望むのだから、殿下のすべてを僕の腹の奥にもらわなくては。 「……なんだか、少し頭がぼんやりするような……」  そのせいで、何を考えているか自分でもよくわからなくなってきた。これが発情前の感覚なのか、残念ながら僕には判断できない。前回はどこかで発情だとわかったはずなのに、どうだったか思い出せなかった。 「少し部屋で休むか」  このあと殿下との夕食の時間まで用事は入っていない。リュネイル様の肖像画を少し進めておきたいと思っていたが、体調が優れないときに手をつけては逆に駄目にしてしまうだろう。  そう思い、とにかく夕食まで少し横になっておこうと廊下を急いだ。 「……これは、どういうことだ?」  むくりと起き上がった僕がいるのは、毎日寝ているベッドの上だ。それは間違いない。そうではなくて、問題はベッドの上の惨状だった。  なぜかベッドの上にはシャツや上着が散らばっている。何事かと周りを見ると、ついさっきまで頭を載せていた枕が目に入った。 「これは殿下のものだな」  四隅に飾りがついている豪華な枕は殿下が使っているものだ。ちなみに僕の枕は飾り気のない真っ白なもので、アールエッティ王国で使っていた枕に似たものを用意してもらった。 「シャツも上着も殿下のものだ」  手に取ったシャツも隣に無造作に置いてある上着も殿下のものだった。このベッドで殿下と一緒に寝る機会が増えてから、寝室には殿下専用のクローゼットが追加された。見ると片方の扉が開いているから、僕自身が取り出してベッドに広げたのだろう。 「……まったく覚えていない」  頭がぼんやりするから夕食まで横になろうと考えたことまでは覚えている。後宮に戻り、部屋に入ってイーゼルに完成した絵を載せた。上着を脱いでタイとほどき、両手を手首まで丁寧に洗ってから寝室に入って……そこからの記憶がぷつりと途切れている。 「靴は脱いでいるが、服はそのままだな」  これではあちこちに皺が寄ってしまっただろうし、殿下との食事にはふさわしくない。 「着替えないと……いや、殿下の服を片付けるほうが先か」  ベッドから下りて、散らばった服を手に取った。幸い汚れてはいないし、皺もそれほどついてはいない。部屋でくつろぐときの服だから、そのままクローゼットにしまっても問題なさそうだ。  そう思って腕に服をかけ、クローゼットの前に立ったところで甘い香りが漂っていることに気がついた。 「これは……殿下の香りだ」  濃くて甘いミルクの香りが鼻にすぅっと入ってくる。クローゼットから殿下の香りを感じたのは初めてだ。もしかして、これも僕の発情が近づいている証なんだろうか。 「……そうだ、それに発情のときは殿下の香りが近くにないと駄目なんだ」  発情のときは僕だけのαの香りが近くにないといけない。殿下の香りに包まれれば安心できるし、本来の発情の準備も整う。 「……うん? 僕はいま何を考えた……?」  駄目だ、今日は何かがおかしい。ペイルル殿に会ってからはとくに変だ。 「やっぱり、気にしているってことか」  ペイルル殿を紹介されたとき、ドキッとした。同じ男のΩということに驚いたのもあったが、新しい王太子妃候補としてやって来たに違いないと思ったからだ。  それからは努めて気にしないようにしてきた。たしかにΩではあるものの、後宮に来たわけじゃないペイルル殿をそんな目で見るのは失礼だとも思った。  それでも心の奥ではずっと気にしていた。同じ男のΩであるペイルル殿がノアール殿下の近くにいることから目を逸らすことなんてできなかった。後宮にいた三十人近くの姫君たちのことは気にならなかったのに、どうしようもなく胸がざわついた。 「僕の気持ちが変わったからかもしれないな」  後宮に来たときは、国のために妃にならなくてはと思うだけだった。しかしいまはノアール殿下のことを好きになり、そういう意味でも妃になりたいと思っている。 「もし、殿下がペイルル殿に惹かれたら……」  僕に子ができなかったら、遅かれ早かれ殿下は新しいΩを迎えることになる。もちろん僕だってそれはわかっているし王太子として当然のことだ。ただ、それがペイルル殿かもしれないと思うと心がやけにざわついた。  ペイルル殿はΩ用の薬を服用していると話していたが、それだって飲むのをやめれば普通のΩと同じように殿下を誘うことができる。もし意図的に服用をやめて、発情状態で殿下に近づけば……。 「いや、そんなふうに考えるのはよくない」  こんなもやもやした気持ちでは発情がうまくいかないかもしれない。もっと心穏やかに過ごさなくては。そうして発情を迎えて、今度こそ子を孕むんだ。もしペイルル殿が香りを使ったとしても、殿下は僕の香りに囚われているから誘われるはずがない。 「……駄目だ、どうにも頭がぼんやりしてしまう」  何度か緩く頭を振ってから、殿下の服をクローゼットにしまった。それから自分のクローゼットを開け、着替えのシャツと上着を出す。 「それにしても、夕方なのに少し暑いな」  着替える前に顔を洗って、ついでに体を少し拭っておくか。シャツは薄手のものにしてタイはもうしなくてもいいだろう。  そんなことを考えながら、冷たい水でジャブジャブと少し乱暴に顔を洗った。

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