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第32話 遅咲きオメガ王子は大国の王太子妃になる1

「え?」 「ご懐妊です。おめでとうございます」  満面の笑みを浮かべているアフェクシィ殿を見て、ぽかんとしてしまった。 「懐妊というのはつまり、子ができたということか?」 「はい。国王陛下や王太子殿下に二人目のお子様ができるのは随分久しぶりのことですから、慎重に確認させていただきました。初期の段階ではありますが、間違いありません」  まだぺたんこの自分のお腹を見る。前回も驚いたが、今回はそれ以上の驚きだ。  最近やけに食欲が増したなとは思っていた。昨年は暑くなると食欲が落ちていたのに変だなとも思った。殿下もそのことには気づいていたようで、念のためにとアフェクシィ殿に診てもらうことにした。  彼女が「慎重に」と言ったとおり、心音以外にも体のあちこちを調べられた。あまりに詳細に調べられることに「もしや病気なのでは」と心配になったほどだ。しかし、すべては新たな子を孕んでいたためだった。  右手で撫でるお腹はぺたんこのままだが、ここに再びノアール殿下の子ができた。ビジュオール王国では国王や王太子には子が一人しか生まれないと聞いていたが、あっさりと覆ったことになる。  ふぅとため息をつき、ソファの背もたれに寄りかかった。 「ランシュ殿下?」 「シエラのときより驚いた。そうか、二人目ができたのか」  少しずつ頭が状況に追いついてきた。どうしよう、嬉しくて顔がにやけそうになる。たしかに「シエラに兄弟ができるといいんだが」と思ってはいた。僕自身も妹がいてよかったと思っているし、なにより一人ではシエラも寂しいはず。  今後一人の時間が増えるだろうし、そのとき兄弟がいれば寂しくないはずだ。それによき相談相手にもなってくれるだろう。  ただ、正直二人目は難しいだろうと思っていた。殿下に聞いた歴代の国王の状況を考えても子が二人できる可能性は低い。これまでの国王の兄弟も、念のためにと親族を養子に迎えて補っている状態だと聞いた。それに僕は遅咲きのΩだし、シエラがすぐに誕生したのも奇跡だと思っていた。 「そうか、二人目か」  じわじわと喜びがわき上がってくる。「そうかそうか」とお腹を撫でていると、やや乱暴な音を立てて部屋の扉が開いた。 「ランシュ」 「殿下」  珍しく慌てた様子に思わず笑ってしまった。おそらく執務中に僕の懐妊を聞き、急いで後宮に来たのだろう。胸元のストーンカメオが少し傾いているのが何よりの証拠だ。 「ランシュ、二人目ができたと聞いたが」 「そうみたいですね」  笑いながらそう答えると、立ち上がったアフェクシィ殿が「おめでとうございます」と殿下に頭を下げた。 「本当なのか?」 「わたくしを信用していただけるのなら」 「僕は信用していますよ」  僕の言葉に殿下が慌てたように「わたしもだ」と答える。見たことがないほどの殿下の慌て振りに「殿下も可愛いところがあるなぁ」なんて思ってしまった。 「しかし、そうか。二人目というのはこれまでにないことだし、さらに気を配る必要があるな。そうだ、子が生まれるまでランシュの執務は減らすことにしよう」  殿下の言葉に「は?」と顔を上げた。執務というのは王太子妃の仕事のことだ。画材工房のことも含まれるのだろうが、いまでも十分に仕事量は少ない。  そもそも結婚式が終わったというのに王太子妃としての仕事がほとんどないのだ。いまだに殿下は僕が王太子妃として人前に出ることを嫌っているようで、先日のルジャン殿下とペイルル殿の結婚式にも出席できなかった。  さすがにあのときには「ふざけるな」と思い、丸三日間殿下と口を利かなかった。ルジャン殿下はノアール殿下の従弟ということだけでなく、いまや王太子を支える重要な側近だ。そんな人物が結婚式を挙げるというのに王太子妃が出席しないなんてあり得ない。 (それに、ペイルル殿はリュネイル様の甥だということもわかったのに)  はじめてリュネイル様からそのことを聞いたときには言葉も出なかった。リュネイル様自身、ペイルル殿とは直接会ったことがないらしい。「わたしの代わりに様子を見てやってください」と頼まれたのに、式の数日前に会うことしか叶わなかった。  僕はリュネイル様にいろいろお世話になってきた。僕がシエラを妊娠できたのもリュネイル様の助言があったからだと思っている。だからこそ今度は僕がペイルル殿を助けようと思っていたのに、結婚式をこっそり見ることすらできなかった。 (いま思い出しても腹が立つ)  なぜ結婚式に出てはいけないのか、散々問い詰めたが結局理由はわからないままだ。今回は二人目の懐妊という理由があるにしても、このままでは僕が無能な王太子妃と言われているようで気分が悪い。なにより殿下に信用されていない気がして悲しかった。 「それは結構です。というより、王太子妃としての執務はいまもほとんど与えられていません。これ以上僕から何の仕事を取り上げるつもりですか?」  不満に思う気持ちがあったからか、つい厳しい声を出してしまった。殿下にも僕の怒りが伝わったようで、スッと表情がなくなる。 「取り上げているわけではない。それに二人目の懐妊となれば、どんなことが起きるか予想できないだろう? 気をつけるに越したことはない」 「それは今後の話ですよね? じゃあ、これまで僕から仕事を取り上げていた理由は何なんですか? 先日のルジャン殿下の結婚式に出席することすら止められました。理由を尋ねても殿下は答えてくれません。それでは納得できません」 「……わたしにもいろいろと考えがある」 「その考えを教えてほしいと言っているのです。それとも、僕では王太子妃は務まらないと考えているんでしょうか」 「所詮、僕は小国の元王太子というだけですからね」ととどめを刺せば、殿下が眉を寄せて不快そうな表情を浮かべた。  僕と殿下を交互に見るアフェクシィ殿が「これは困った」という顔をしている。こんな場面に居合わせることになってしまったアフェクシィ殿には申し訳ないと思うが、いい加減ぶちまけたくて仕方がなかったのだ。 「……そんなことは思っていない」  表情と同じくらい殿下の声が固い。これは話したくないという気持ちの表れだ。そうはいくかと殿下の顔をしっかり見ながら立ち上がり、「では、理由は何なんですか?」と強い口調で問い詰める。 「それは……いや、言うほどのことでは、」 「それなら言ってもかまわないですよね?」 「本当に大した理由ではないのだ」 「じゃあ話してください。僕は聞きたいです」  絶対に聞き出すからなという気持ちで畳みかけると、ほんの少し眉を下げた殿下が「はぁ」と息を吐いた。 「殿下」 「……わかった。だが、本当に大した理由ではないんだ」  本当に大した理由がないのなら、それこそ僕を馬鹿にしているということではないだろうか。駄目だ、ますます腹が立ってくる。 「その大したことがない理由を話してください」  僕の強い言葉に、諦めたように殿下が口を開いた。 「ランシュの能力を侮っているわけではない。むしろ王太子だったときの経験はわたしを大いに助けてくれると思っている。王太子妃としてよりも、わたしの片腕としてそばにいてほしいとも考えていた。ただ……」 「ただ?」 「その、なんというか……皆が、ランシュに会いたがるのが許せないのだ」 「……はい?」 「結婚式でのランシュの姿は国内外で大きな話題になった。勝手に絵姿が出回っているとも聞いた。そのせいか、外交団でやって来る者たちは皆口を揃えてランシュに会いたがる。美しい王太子妃に挨拶を、美しい王太子妃に似合う首飾りを贈りたい、ぜひ美しい王太子妃と一曲踊りたい、そんなことばかり聞かされる身にもなってほしい」  何を言っているのか理解できなかった。そもそも「美しい王太子妃」という言葉の意味がわからない。「珍しい王太子妃」ならわかる。東側の国々では僕のような色の薄い姿は珍しいだろうし、とくに白銀でふわふわの髪の毛は珍妙に見えるはずだ。  それなのに「美しい」というのは語弊がありすぎる。これがリュネイル様なら大きく頷くところだが、僕は生まれてから一度も「美しい」なんて賞賛されたことはない。 「僕の姿が珍しいのではないのですか? だから間近で見たいのだと思いますが」 「そうではない。それに、結婚式での皆の眼差しを見ただろう?」 「たしかに、男のΩだからか物珍しがる視線は感じました。しかし、それが美しいという言葉に繋がるとは思えません。殿下のように造形美がすぎるだとか理想的な骨格だとかならわかりますが、こんな貧弱なだけの元王太子を美しいと感じるはずがありませんからね」  ……おや? 殿下だけでなくアフェクシィ殿までぽかんとした顔で僕を見ている。何か変なことを言っただろうかと内心首を傾げた。 「まさか、本人にまったく自覚がないとは思わなかった。あれだけじろじろと見られたのに気づいていなかったのか?」 「だから、結婚式での視線なら気づいていました。それに男のΩか、といった声も聞こえましたし」  そう考えると、あれも一種の珍獣を見るような状況だったのかもしれない。ということは、これからも同じように見られるかもしれないということだ。それはさすがに嫌だなと思わなくもないが、だからといって王太子妃の仕事を放棄しようとは思わない。 「まさか、ここまで自覚がないとは思わなかった」 「それがランシュ殿下のよいところだと思います。そういうお心持ちだからこそ、お二人目を懐妊されたのではないでしょうか」 「なるほど、気負うことがなく周囲の圧力や言葉にも潰されないということか。それは素晴らしい才能だと思うが、もう少し自覚を持ってもらわなければ心配で仕方がない」 「もしかして、ランシュ殿下の美醜の基準はご自身が絵に描きたいかどうかという点なのでは?」 「それは大いにあり得るな。わたしのことも造形美がどうだとかで評価していたくらいだ」  殿下の言葉に「ただの造形美じゃない。芸術の神に愛された造形美だ」と訂正したかったが「いま言うべきことじゃないな」と思い口をつぐんだ。  もちろん造形美も素晴らしいと思っているが、それだけじゃない。可愛らしいところもあるし、万人が見惚れる容姿だということもわかっている。王太子としても王族αとしても優秀で、それでいて努力を惜しまない。大国の王太子なのに考え方は柔軟で、僕の芸術話を楽しそうに聞いてくれるところも素晴らしいと思っていた。  そんな殿下が僕の前では悩みを吐露してくれる姿に何度心を動かされただろう。強さも弱さもある殿下だからこそ、僕は隣で助けていきたいと思った。日々惹かれ、心から愛しいと思っている。 (……っと、そういうことじゃなくて)  余計なことまで考えてしまったせいで、何だか顔が熱くなってきた。 「とにかく、僕はきちんと王太子妃の職務を全うしたいのです。もちろん体調には十分気をつけますが、逆に言えば二人目だから体も慣れていると言えるでしょう。出産のときまで王太子妃の仕事は続けようと思っています」  ここでしっかり言っておかなければ、本当にすべての仕事を取り上げられかねない。両手を腰に当てて若干胸を張りながらそう宣言すると、殿下が「フッ」と小さく笑った。 「ランシュは変わらないな。そういうところも好ましいと思っている。そうだな、無理のない範囲でなら仕事をしてもかまわない。そうするほうがランシュにとっては良さそうだ。あぁ、ただしアフェクシィ殿の言うことには必ず従うこと。アフェクシィ殿、申し訳ないがまたランシュの専属医に戻ってほしい」 「承知しました。シエラ殿下のときの記録も詳細に取ってありますし、しっかりと見守らせていただきます」  アフェクシィ殿の言葉に大きく頷いた殿下が僕に近づいてきた。まだ腰に手を当てたままの僕の頬に右手で触れ、眩いばかりの笑みを浮かべる。 「やはり、こうして言い合えるほうがよいようだ」 「僕はいつでもそう思っています。それなのに、殿下が言わなかったんじゃないですか」 「それは……いや、たしかにそうだ」 「なぜ言ってくれなかったんですか?」 「…………周囲全部に嫉妬していると思われるのが、どうにも恥ずかしかったんだ」 「嫉妬?」  くり返すと、殿下がスッと視線を外した。まさかの言葉に一瞬ぽかんとしてしまったが、じわじわと気恥ずかしい気持ちがわき上がってくる。 「仲がよろしいのは、お腹の子にも大変よいことだと思いますよ」  アフェクシィ殿の言葉に、ますます顔が熱くなった。そんな僕の両頬を包み込んだ殿下が顔を寄せ、そのまま唇に口づけをされる。  アフェクシィ殿の目の前で、と焦ったのも最初だけで、気がついたら僕のほうが熱心に殿下の唇を吸っていた。そうして顔が離れたときには、すでにアフェクシィ殿の姿はなかった。  それからの僕は、これまでの生活を変えることもなくシエラを身ごもっていたときと同じように過ごした。少し違うのは絵の制作を続けていることだろうか。シエラのときは油の匂いが駄目で絵の具を使えなかったが、今回は何の匂いも気にならない。おかげで依頼された絵も順調に描き進めることができている。 「そういえば食事も違うな」  途中から優しい味付けしか受けつけなかった前回と違い、今回は何でも食べることができる。むしろ食べ過ぎるくらいで、アフェクシィ殿からは「これ以上体重が増えないように食事を調整しましょう」と言われてしまう始末だ。おかげでミルクセーキも一日一杯に制限されてしまった。 「殿下は触り心地がよくなったのにと言っていたが、そもそも触り心地って何だ」  いや、何となく想像はできる。だからこそ気づかない振りをしている。  二人目の懐妊がわかって四カ月が経ったが、殿下は寝るときにやたらを僕の体を触るようになった。小さな膨らみのお腹を撫で、それからなぜか胸にも触れる。 「もしかして、少女のように胸が膨らむのを待っているんじゃないのか?」  男には女性の体でとくに好きになる部分があるという。僕は特定の部分よりも全体の骨格や均整のほうにばかり目が向くが、殿下は胸が好きなのかもしれない。 「ということは、平らな僕の胸では満足できないということか」  思わず自分の胸を見た。すでに元に戻った僕の胸は明らかに平らで男そのものだ。触り心地がいいとは決して言えない。  僕の胸がささやかな膨らみを維持していたのは、アフェクシィ殿の予想どおりシエラを生んで半年間ほどだった。その後はお乳も出なくなったことでシエラの授乳は終わり、いまはミルクと離乳食を食べさせている。おそらく二人目も同じような感じになるだろう。半年ほどは小さく膨らむだろうが、その後はこうして平らに戻るだけだ。 「殿下は真っ平らな胸は好きじゃないかもしれないのか」  それは少し残念だなと思いながら揉むように胸を触っていると、「わたしはランシュの胸が好きなだけだが」という声がしてビクッと肩が震えてしまった。 「で、殿下」 「自分で揉んでいる姿もそそられるが、勘違いされたままでは困る」 「別に、揉んでいたわけでは」 「では、次に発情を迎えたときは自分で揉んでみるか?」 「殿下!」  昼間から何てことを口にするんだ。それに腕に小さなシエラを抱えた状態でだなんて、教育に悪いだろう。シエラもむすっとした顔で殿下を見ている。 「そもそもわたしは胸が好きなわけではない。ランシュの胸が好きなのだ」 「だから、その話はもういいのです」  この話は終わりだと遮ったのに、シエラを子ども用の椅子に座らせた殿下が僕を見ながら「もちろん膨らんだ胸も捨てがたいが」と続けた。 「殿下!」 「ちー!」  僕の言葉に重なるように、シエラが「ちー」と大きな声を出した。まだ「父上」と言えないシエラは殿下のことを「ちー」と呼んでいる。いまの大声は、おそらく僕が殿下を叱っているとわかり一緒に叱っているつもりなんだろう。 「ほら、シエラも怒っているじゃないですか……って、殿下?」  殿下がじっとシエラを見下ろしていた。気分を害したというわけではなさそうだが、それにしては眼差しが少し厳しいように見える。 「殿下?」 「……シエラは間違いなくαだな」 「え?」 「二人目が生まれたら少し考えるか」 「殿下?」  そう言ってシエラの頭を撫でた殿下に、なぜかシエラが「ちー」と言いながら嫌々と頭を振った。よくわからないが、シエラの可愛い仕草に僕の気持ちはすっかりほころんでいた。  僕が絵を描いている足元で、シエラが床に広げた紙に絵を描いている。左手に持っているのは絵筆ではなく顔料を固めたパステルだ。顔料を含めたすべての素材を口にしても大丈夫な植物で作っているから、うっかり舐めてしまっても問題ない。代わりに絵の具のようなはっきりした色合いは出なかったが、中間色のような色味はむしろ新しくてよいのではと思っている。 「さて、何を描いているのかな」  椅子に座ったまま覗き込むと、紙の中央に何かが描かれているのが見える。これは植物、いや人物だろうか。丸いのは顔で、その上にあるのは……雲か? やけに顔に近いところにふわふわとした雲があるが、しっかりと線を描けているのはすごいなと感心した。まだ幼いのに絵だとわかる物が描けるのは、やはりαだからだろうか。 「そういえば、殿下もシエラのことをαだと言っていたか」  やはりαは生まれたときから違うんだなと感心する。ふと、お腹の子もαなんだろうかと思った。これまでのビジュオール王国では、国王や王太子の最初の子は必ずαだった。しかし二人目は長い間生まれていないためαかどうかわからない。 「そういえば、ルジャン殿下の弟二人はαだったか」  ということは、やはりαなのかもしれない。国王とルジャン殿下の父君は従兄弟で書類上の兄弟だと聞いている。そのため二人目の参考にはならないかもしれないが、王族の子の多くはαだというから可能性は高いだろう。 「ヴィオレッティ殿下のところはどうだろうな」  ヴィオレッティ殿下の母君はαでもΩでもないそうだ。そのため国王の異母妹ではないのではと囁かれていたらしい。実際どうなのかはわからないが、ヴィオレッティ殿下の亡き父君は国王の従兄弟叔父だから王族で間違いはない。 「そういうことも子ができない原因だったんじゃないかな」  二人の妃を娶って何年も経つヴィオレッティ殿下だったが、子はいなかった。ヴィオレッティ殿下も悩んでいたのだとしたら、そのことが影響していたのかもしれない。  ところが僕の懐妊がわかってしばらくすると、二人の妃が相次いで懐妊したのだから驚きだ。 「まさか、あの方法で本当に子が授かるとはなぁ」  僕が二人目を懐妊したと知ったヴィオレッティ殿下は、さもおもしろと言わんばかりの表情で「何かまじないでもしたのか?」と聞いてきた。もちろんそんなことはしていないし、僕のほうこそ理由が知りたいくらいだ。だが、そう答えるのもつまらない。  そこで「発情のときにうなじを何度も噛まれたからじゃないですかね」と適当に答えた。それを真に受けたのか、ヴィオレッティ殿下は妃たちとの発情でうなじを何度も噛んだのだそうだ。すると本当に二人そろって懐妊した。 「まさか、本当にうなじを噛まれると懐妊するのか?」  そんな事例はΩの本にも書かれていなかった。だからといって違うとも言い切れない。 「もしそうだとしたら、本気で考えておいたほうがいいな」  ノアール殿下が発情のときに僕のうなじを噛むのは本能に違いない。「あれほど抗いがたい状況に陥るとは思わなかった」とは殿下の言葉だが、つまりはαの本能からくる行動だったということだ。  このままでは発情のたびに噛まれ、子ができることになる。嬉しいことではあるが、さすがに毎回では僕の体がもたない。このままでは以前殿下が言ったとおり「腹が空かない」なんてことになりかねなかった。 「さすがにそれは遠慮したい」  想像するだけでブルッと身震いしてしまった。そんな僕の様子に気づいたのか、シエラが「りゃん?」と言いながら顔を上げた。ふわふわだった黒髪もいまでは殿下と同じようにさらさらになり、空色の目はますます青空そっくりの鮮やかな色になってきた。  シエラは僕のことを「母上」ではなく名前で呼びたいらしい。おそらく殿下がランシュと呼ぶからだろうが、うまく言えないのか「ラン」と言おうとして毎回「りゃん」になるところも可愛くて仕方なかった。 「何でもないよ」  微笑みながらそう言ったが、シエラはジーッと僕を見つめたままだ。それからお腹を見て「とーと」と指をさす。「とーと」が何を指す言葉かはわからないが、ここに弟か妹がいることは理解しているのだろう。 「シエラ?」と声をかけるが空色の瞳はお腹を見たままで、また「とーと」と口にした。そうして僕を見上げ「とーと、とーと」とくり返す。 「シエラ?」  もしかしてお腹でも空いたのだろうかと椅子から立ち上がった瞬間、ふわっとバニラの香りが広がるのを感じた。懐妊してからも僕の香りはかすかに香ったままだが、それとは違う濃さのようなものを感じる。 「もしかして」と思い、そばに置いていた呼び鈴をチリンと鳴らした。それから「よっこらせ」と床にひざまずき、丸い目で僕を見つめるシエラの頭を優しく撫でる。 「今回はさらに早いな」  まだ七カ月にもなっていないが、きっと生まれようとしているに違いない。そう予想したとおり、翌日僕はシエラよりもさらに小さな体をした二人目の子を生んだ。

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