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第1話
斜め前のテーブルで、こちらに背を向けて座っている、その人のことをいつも何となく見ていた。
頭のいい高校の制服を崩すことなくきちんと着ているその人は、毎日、郁也が町はずれの市営図書館に着く頃にはすでにその席に座っていて、そのまま21時まで勉強して帰っていく。郁也は閉館の21時半まで残ることが多いので、いつも、彼のしわの無いブレザーの背中を勝手に見送りながら、あと30分でここまで暗記して帰ろう、と、小さな目標を立てるのだった。
その日は進路相談があって、いつもより下校が遅くなった。
図書館の裏にひっそりと広がる駐輪場に自転車を停めて、郁也は図書館の二階へ、階段で登る。
先日行われた模試で、希望大学の判定はAだった。けれど、郁也にはそれでも安心できない理由があった。まだダメだ。という焦りが、階段を駆け上がる自分の脚を早める。もっと勉強しないと。こんなんじゃ、まだダメだ。
図書館は相変わらず適度に静かで、適度に音が響いている。
喫茶店などと違う、その小さな小さな雑音が心地よくて郁也はいつもここで勉強していた。
と、いうのは建前だ。
本当は、家に自分の部屋がないのと、喫茶店に行く金がないから、ここにきている。
結果、図書館って集中できるんだな、と気が付いた、というだけだった。
この図書館は、一階に児童書コーナーと事務室、多目的ルームがあり、二階に一般書籍のコーナーと自由に使えるテーブルがあった。調べ物をしたり勉強をする人は、二階の長机を利用する。
当たり前に図書館というのは自由席だ。けれど、毎日通うような人は、だいたいいつも同じ席に座っていた。
郁也にも、『自分の席』と感じている場所があった。階段を登り切った足は、自然そこへ向かう。しかし郁也はすぐに歩みを止めて、そっと眉を寄せた。そこには、スーツ姿の男性がすでに座っていた。見ない顔だった。
いつもより、来るのが遅くなったからだ、と思う。なんとなく、横を通り過ぎてみた。詳しくは分からなかったけれど、資格の勉強をしているようだった。大人になっても勉強する人がいるのだと、郁也は図書館に通い始めて知った。自分が知っている大人は、学校の先生と親くらいだ。先生のプライベートは知らないし、郁也の親は仕事をしているのかしていないのかも分からない。家にたまに来る名前を知らない男性も、テレビを見たり酒を飲んでいるだけで、とても仕事の後に勉強しているようには見えなかった。
郁也はあたりを見回して、他に座れそうな席がないか探した。
満席というわけではなく、人が座っているのはまばらだ。
けれど、どこもいまいち座る気にはならなかった。
知らない人と隣同士、ぴったりと座るのは気が進まない。一席空けても、近い気がする。それは皆そうなのだから、人と人との間には、どこも二席以上の間が空いていた。三席空いている真ん中に座れば、両隣は空席になる。けれど、先ほども言ったように一席ではまだ近い気がして躊躇してしまう。そう考えるのは自分だけではないから、二席空いているところが多い。二席空いているところには座れない。誰かと隣同士になってしまう。
一つだけ、四席空いている場所を見つけた。
それは、いつも背中を見ていた、あの頭がいい男子高校生の隣だった。
彼の横は、四席空いて、女性が一人座っている。その人もまた、何か勉強をしているようだった。
郁也は少しだけ迷ったけれど、男子高校生の一席空けた隣に座ることにした。そうすれば、女性との間には二席の空席ができる。男子高校生は少し嫌かもしれないが、我慢してもらおう。同じ男子高校生だ。邪魔はしないし、今回だけだから許してくれ。もう自分には他に選択肢がない。
郁也は少し緊張しながら、彼の後ろを通り、その横の横の椅子をゆっくりと引いた。なるべく静かに、なんなら自分がここに座ったことに気づかれないように、したい。
けれどそれはさすがに無理だったようで、郁也がキ、と小さく木製の引き、そっと腰を下ろしたところで、彼がハッと顔をあげた。集中していた視界の端に突然人が現れて驚いたのだろう、そのまま彼は反射でこちらに目を向けた。
郁也は、その時初めて彼の顔を正面から見た。
彼はいつも自分に背を向けて座っていて、帰るときも、斜め45度の微妙に分からない角度からしか顔を見ることはできなかった。だから、郁也も思わず彼の顔を見てしまう。
ぱち、と目が合って、二人は一瞬だけ見つめ合った。
キン、と、耳鳴りがした気がした。それは、目の前のことに全ての気が行って、周りの音が耳から遮断された音だった。
郁也は一拍のあとにハッとして、ニコ、とぎこちなく笑って軽く会釈をした。
特に意味のない、あえて言えば「隣失礼します」という意味のお辞儀だ。
すると彼もまたハッとして、少し気まずそうに、視線をそらせながら小さくペコリと頭を下げた。
なんか、まじめそうだったな、と、郁也は思った。黒い髪が直毛なのは後ろから見て知っていたけれど、彼が会釈した時にそれがサラサラと動いたのがなんだか印象に残っていた。
縁の細い眼鏡をかけていた。
特別イケメンというわけではないけれど、誰にも不快感を与えない、けれど、初対面では誰の印象にも残らなそうな、ごく普通の男子だった。
リュックから必要なもの取り出しながら、こっそりと横を見る。
無印良品の質素なペンケースに、無印良品の消しゴムが入っているのが目に入った。マーカーペンも無印良品のものに見える。テーブルに広がっているテキストは、数学のものだった。数ⅢCだ。理系か。自分の学校ではⅢCを学習するのは理系の三年生だけだ。けれど、ちゃんとした進学校のでは理系の二年生はもうⅢCをやるとネットで見たことがある。三年生は受験勉強をしないといけないから、テキストの基本的な内容は二年までに終わらせるらしい。それが本当だとしたら、彼はきっと二年生で、同い年だ。自分も理系だけど、勉強内容には天と地ほどの差がありそう。
ここで勉強をするのが少し恥ずかしくなりながらも、彼はもうこちらに気を留めていないようだったので、郁也は気にせずに今日のノルマを進めることにした。
21時。
いつもと同じ時刻に彼は片づけを始めた。筆記具を半透明のペンケースに仕舞って、それをスクールバッグに入れていく。カタン、と小さな音を立てて椅子から立ち上がると、彼は一つも躊躇なく去っていった。
郁也は、息をついた。
少し緊張していたことに、その時やっとで気が付いた。けれど、なぜだか勉強も思った以上に進んだ。緊張感が逆に良かったのかもしれない。
はかどったし、自分も今日は帰ろうかな。
そう思って、テーブルの上を片付ける。中学から使っている百均の黒いペンケースに筆記用具を仕舞い、問題集やノートをリュックに入れて背負う。
その時、隣の席にノートが一つ置いてあることに気が付いた。
名前が書いてある。
『2年F組 藤井 優斗』
これって。
郁也はそれを手に取って、急いで出口へ向かった。
「ちょ、あの、あんた、……藤井、さんっ!」
は、と息を切らしながら、郁也は声を張り上げた。高校生なら駐輪場にいるはずと思って寄ったが見当たらなくて、そこから正門に回ったので時間がかかってしまった。見つけたとき、彼はちょうど、図書館の敷地を徒歩で出るところだった。
突然名前を呼ばれた彼は、びくりと肩を上げて、恐る恐るという様子で振り向いた。自転車で追いかけてくる郁也を見て、眉を寄せ怪訝な表情を作る。幸い立ち止まってくれたので、簡単に追いつくことができた。
彼の目の前でキッとブレーキを握って、郁也は言った。
「良かった! 間に合って!」
「……えっと、僕?」
知らない男に大声で呼び止められた彼は、不信感を隠さない顔でこちらを見た。上から下まで無遠慮に眺めてきて、こちらの制服が気に入らなかったのか、更に眉間にしわを寄せる。確かに、彼の学校とは決して交わることのない学校の制服だ。
「な、なに」
小さく言った彼に、郁也はノートを差しだして言った。
「これ、忘れ物」
「……え?」
「あれ、あんたのじゃなかった?」
「いや……まって、」
ゴソ、と、彼はスクールバッグの中を探る。そして言った。
「うわ、僕のだ」
「だよな! 良かった!」
はい。と、彼にノートを渡す。藤井優斗はそれを受け取ると、「あ」と一度言葉を詰まらせてから、
「ありがとう」
と、なんだかぎこちなく言った。
近くで見ると、彼は自分より少しだけ背が低かった。
と言っても、郁也は176センチで平均的なので彼も特別小さくも大きくもない。細くてすらりとしているから、勝手に自分より背が高い気がしていて少しだけ驚いた。
彼はノートをバッグに仕舞うと、一重の切れ長の目でこちらを見た。なぜか一瞬、怒られる、と思って郁也は身構えた。そういうピリッとした雰囲気を、彼は持っていた。真っすぐに見られると、背筋が伸びる様な、力のある視線だった。小さく息をのむ郁也に、しかし当然彼は怒るわけではなくそっと尋ねた。
「ごめん、急いで来てくれた? 君、いつも図書館にいるよね。明日でもよかったのに」
「え、俺のこと、知ってるの?」
「うん、知ってるよ。君も、僕のこと、認識してるでしょ」
もちろんだ。でも、向こうに認識されているとは思っていなかったので、郁也はなんだか嬉しくなって、こくこくと頷いた。
「うん、うん。でも、俺の方がいつも後ろにいたから、あんたからは見えなかっただろ?」
「そうだけど、あれだけ通ってたらさすがに覚えるよ」
「そっか」
なんとなく照れてしまう。へへ、と笑うと、彼は眉を下げて困ったように笑った。
郁也は言った。
「帰り、どっち?」
「あ、あっち。駅」
彼は、そっと坂の下を指さした。この坂を下って真っすぐに行くと、確かに駅がある。けれど、それは決して近いとは言えない場所だった。
「駅。電車通?」
「うん、そう」
「へえ、大変。だから閉館前にいっつも帰ってたんだ」
「まあ、歩くと、30分くらいかかるしね、駅」
「かかるね」
うん。と、彼は言う。寒いのか、彼はそっとカーディガンの袖を伸ばしていた。
「一緒に帰っていい?」
郁也が言うと、「え」と彼はこちらを見た。嫌そうにも見えるし、ただ驚いているようにも見える。まずったかな? と思ったけれど、郁也は静かに返事を待った。
少し視線を泳がせて、彼はゆっくりと、慎重に言った。
「いいけど、僕、歩きだよ。君、自転車でしょ」
「うん、いいよ。一人でチャリより、誰かとしゃべって歩いたほうが楽しい」
「そう?」
「そう」
「ふうん」
彼はそう言うと、そのまま駅に向かって歩き出した。郁也は慌てて追いかけて、自転車を押しながらその横に並んだ。
「名前」
坂の中腹あたりで、彼がぼそりと言った。慌てて、言う。
「あ、ノート見た。ごめん。同い年」
「そうなんだ。そっちも教えてよ、名前」
「上野。上野郁也」
「上野」
「うん」
あまりはっきりとは覚えてないけれど、半年以上前から、郁也は彼のことを知っていた。もしかしたら彼も、それくらい前から自分を知っていてくれていたのかもしれない。それなのに、今日初めてお互いの名前を知った。同じ学校だったらありえないことだし、同じ塾でも、同じバイト先でもありえないことだ。ずっと見てきた人だったのに、『あ、この人、実在するんだ』なんて、よくわからない気持ちに郁也はなった。
「藤井、の学校、頭良い学校じゃん。大学どこ行くの。あ、言いたくなければいいけど」
ずっと気になっていたことを、郁也は聞いた。彼は「ん?」と一度こちらを見てから、そっと笑った。
「別に、大丈夫。一応、〇〇大」
「あ、思ったよりすごいトコじゃないんだ」
「なにそれ、どういう意味」
ふは、と、何がおもしろいのか彼が吹き出す。
「いや、なんか、東大とか、そういう、有名な、とんでもないところだと勝手に思ってたから」
「制服見て喋ってるでしょ。僕は、できればあんまり遠くないところが良くて。でも、一人暮らしはしたいから、そこそこ遠いところが良くて。それで、行きたい学部があるから、そういうのを全部加味して、そこが志望。別に、東大も行こうとすれば行けますけどね?」
「えー、それって、本当? あんたの言い方、本当か嘘か分かんない!」
笑って言うと、彼もまた、あはは、と笑った。
どうでもいい会話をしていたら、駅に着いた。彼は腕時計を見て、「もう行かなきゃ」と言った。電車の時間が近いようだ。
「市内?」
と聞かれたので、「俺んちは市内」と言うと、いいなあ、と言われた。
この辺りはとても田舎で、市内に住んでいても全然都会じゃない。けれど、この市を出ると、この地方は更に何もないのだ。
じゃあ、と言って、彼がこちらを見る。
郁也は、始めの印象よりずいぶんと柔らかくなった彼の視線を見つめ返して、
「うん」
と言った。
「また、明日」
恥ずかしいくらい、おずおずと、ぎこちなくその言葉は出た。
彼は一瞬きょとんとしてから、ニ、と笑って、手を振ってきた。
「うん、また、明日」
しわの無いブレザーの背中が、駅の中に消える。
郁也はそれを見送って、家まで自転車をこぐ間ずっと、彼との30分の会話を何度も思い出していた。
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