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第1話

 オルシア大国は強く美しい。その大国に君臨する若き王・アルフレッドは文武両道で見目麗しく、民に慕われ、男からは羨望のため息を、女からは憧れのため息をつかれる君主だ。大国との縁を結びたいと政略結婚で輿入れしてきた側室にも義務である初夜以外は手を出さず、誰にも執着を見せない。この若き王は完璧で、淡泊で、人間らしい隙や欲というものが存在しないのではないか。一部を除く官や民からはそんな風に思われてきたが、その考えが全くの間違いであるということは、すぐに気づかされる。  水晶の儀――オルシア大国に伝わる王妃選出の儀で宰相補佐のシェリダンが選ばれてから、王は異常とも思えるほどの執着と愛をシェリダンに向け続けている。わき目もふらず、一途に。 「妃殿下、ジェラルドにございます。少々よろしいですかな」  小さなノックの音と共に聞こえた声に、シェリダンは視線を落としていた上奏状から顔を上げた。近衛が開いた扉から壮年の男――宰相ジェラルドが姿を現す。優しい笑みを浮かべたかつての上司はシェリダンの前で膝をつき、礼をした。 「どうぞお立ちください。何かありましたか?」  かつてはどうであれ、今は王妃たるシェリダンが主でジェラルドは臣下。彼が礼をするのは至極当たり前のことであるが、未だ慣れないシェリダンは居心地悪そうに身じろぎし、ジェラルドを立たせる。広げていた上奏状を閉じて盆に戻すと、聞く体勢に入った。 「フェンベルの戴冠式に出席されていた陛下が今日のお昼ごろには王都へ入られると報告がございました。妃殿下のご都合やご体調がよろしければ、リオン宰相補佐と共に王都の境までお出迎えに行かれないかとご相談したく」  数日前、王が急逝したために王位継承権第一位の王子が戴冠するとの知らせが突然舞い込み、友好と牽制、そして密かに視察するためにアルフレッドはオルシアを発った。当然、戴冠式への招待状はアルフレッドとシェリダンの二人分が使者によって届けられたが、オルシアからフェンベルまでは随分と遠く、移動するだけでも数日は要する。流石にそう長く王と王妃が国を空けるというもの問題であると、今回シェリダンは国に残ることになったのだ。  これが王族の務めであるとわかってはいるが、もう随分と長くアルフレッドと離れていたため、ジェラルドの申し出は非常に魅力的で、あまり感情を表に出さぬようにしているシェリダンも、思わず瞳を輝かせてしまう。 「良いのでしたら、ぜひ。今からなら馬車で間に合いますか?」  シェリダンは馬に一人で乗ることはできないので、どうしても移動は馬車だ。夜とは違い民の往来もある中でどれほど速度を出せるかもわからない。必死に頭で計算しながらチラチラと心配そうに窓の外を見るシェリダンに、ジェラルドは安心させるよう笑みを深める。 「すでに馬車は用意させておりますので、妃殿下のお仕度が整えば、いつでも出発することができます。今からであればなんとか間に合うでしょう。リオンは馬車の前で待つよう申し付けておきますから、どうぞ妃殿下もお仕度を整えて表へとお越しください」  行かないか、と相談するような口調であったが、シェリダンが出迎えに行くのは既に決定事項であったらしい。ジェラルドがシェリダンの性格を熟知しているからといえばそうなのかもしれないが、それにしても何か引っかかる。シェリダンに一礼して退室のため踵を返したジェラルドの大きな背中を見つめ、シェリダンは胸の内でコテンと首を傾げた。しかしあまり時間に余裕が無いと女官達が宝飾品を手に囲んできたことによって、シェリダンの思考は途切れる。公の場に出るわけではないからと外されていた首飾りや耳飾りがつけられ、手早く髪が結い上げられるとアルフレッドの瞳と同じ深蒼のサファイアをあしらった髪飾りをつける。最後にアルフレッドの私用紋が刺繍で縫われた美しいヴェールを被れば完成だ。 「ではレイル、少し行ってきますから、良い子で待っていてくださいね」  愛犬レイルの頭を撫でて、シェリダンは女官を伴いながら部屋を出る。後ろにはシェリダンの護衛であるリーン大将とナグム少将も付き従っていた。  王妃の私室は城の奥にある。馬車が待っている表へと半ば走るように向かえば、そこには既に馬車が用意されており、その馬車を守るように近衛兵が隊列を組んでいた。王族が乗る豪奢な馬車の前にはジェラルドの言葉通り、宰相補佐のリオンが立っている。シェリダンが姿を現した瞬間に、リオンや近衛兵たちが一斉に跪いた。ビクリとシェリダンの肩が跳ねて歩調が僅かに乱れる。いつも通りの光景ではあるが、どうしても慣れない。 「どうぞこちらへ」  シェリダンを支えるようにして馬車に促すと、女官長エレーヌも馬車に乗り込む。そしてリオンも同じ馬車に乗り込んで扉を閉めると、すぐに近衛兵は騎乗し隊列が出発した。 「……リオン、私は何も聞いていないのですが、何かあったのでしょうか?」  常がのんびりしているなどということはないが、この隊列もやはりどこか急いているように見えた。ジェラルドの態度といい、この隊列といい、何かが引っかかる。  シェリダンが知らない以上、緊急性のあるようなものではないだろうが、もしやアルフレッドに何かあったのだろうか。不安そうに首を傾げるシェリダンに、従者側の席にエレーヌと並んで座っていたリオンは苦笑し、首を横に振った。 「何もなかったわけではありませんが、陛下のお命や国に関わるようなことは何も起こっておりませんので、どうぞご安心ください」  何も起こっていないと聞いて少し安堵するが、それにしても〝何もなかったわけではない〟とはどういうことだろう。詳しく話してほしいと視線で訴えるシェリダンに、元々隠す気は無かったのか、リオンは素直に口を開く。 「フェンベルの戴冠式は無事、何事もなく終わったようです。しかし、新しいフェンベル王はオルシアとの強固な絆を求めて盛大にもてなしたようなのです。誰にそそのかされたのか、幾人もの美女を侍らそうとしたとか」  フェンベル新王が自分で考えたという可能性もあるが、彼はまだ十代だ。おそらくは新王を支える臣下の者達があらぬ方向に気を回してしまったのだろう。  他国の王や王子にならば、そのもてなしも有効だったかもしれない。だが、王妃だけをひたすらに愛していると知られているアルフレッドには悪手以外の何ものでもないだろう。 「最初は陛下も場を壊さぬよう、やんわりと断られていたようですが、向こうも随分と頭が固かったようで。最終的には周りを近衛で固めて女性たちを近づけぬようにしたとか。おかげで終始心が休まらなかった陛下は随分とお疲れのようでして。フェンベルを出られてからうわ言のように妃殿下に会いたいと、三分に一度は呟かれていると近衛からの定期報告に書かれておりました」  その報告書を見た高官たちは思わず揃って目元を覆ったらしいとリオンは苦笑する。流石に可哀想だ、すぐに妃殿下に出迎えの打診をしようと口々に言う老年の高官達は、国政こそ厳しい意見を述べることもあるが、普段は年若くして即位せざるを得なかったアルフレッドに甘く、まるで孫を見るような気分でいる者も多い。会議室で行われたであろう会話や光景がありありと想像できて、シェリダンは三分に一度もうわ言を呟くアルフレッドを心配すれば良いのか、アルフレッドが高官達に愛されていることを喜べば良いのか、それとも疲れたアルフレッドにはシェリダンを与えればと思われていることに恥ずかしがれば良いのかわからず言葉に詰まる。 「そ、そうでしたか……」  結局そんなことしか言えず、何やら気まずい空気が流れた。いつもは冗談などを言ったりして息を吸うかのように自然と場を和ませるリオンも何かを胸の内に押さえつけているのか、ずいぶんと口数も少ない。彼の配偶者である近衛隊長リュシアンもアルフレッドに同行していたので、彼を心配しているのかもしれない。今のシェリダンがそうであるように下手な慰めは不要だろうと、無言のまま馬車に揺られ続けた。  王妃であるシェリダンが乗る馬車は警備の関係もあり窓のカーテンは閉め切られている。それでも近衛の馬蹄をかき消すように〝妃殿下〟と呼ぶ民の声が数えきれないほどに聞こえていた。そんな中、門の前で馬車が停まる。先にリオンとエレーヌが馬車を降り、エレーヌの手を借りてシェリダンも降りた。その瞬間、ワッと歓声が沸き起こる。それにビクリと僅かに肩を震わせたが、すぐに顔を上げる。  国民の歓声に紛れて、微かに馬蹄の音が聞こえる。開かれた門の方へ視線を向ければ、〝妃殿下〟と叫ぶ声に〝陛下〟〝お帰りなさい〟との声が混じって聞こえた。  真っ直ぐに続く道の先でほんの少し、砂塵が見える。それは見る間に大きくなって、すぐに駆けてくる馬の軍勢が視界に映る。近衛に守られながらシェリダンが門の前に立った時、こちらに向かってくる馬の軍勢は見事に左右に分かれ、その中央から黒く逞しい一頭の馬が勢いよく出てくる。すぐ後ろでピッタリとくっつきながら走る栗毛の馬以外はグングンと置いていかれるくらいの速さで駆けてくる黒い馬は、門をくぐるとすぐに嘶き、前足を大きく上げて止まる。その馬上から勢いよく降りて走り寄ったその人は、大きく手を広げると強く強くシェリダンの身体を覆いかぶさる勢いで抱きしめた。 「シェリダン――ッ!」  きゃぁぁぁぁぁッ! と大地を震わせるほど大きく甲高い歓声が上がるのも構わず、ギュウギュウと抱きしめるアルフレッドはシェリダンの名前を何度も呼んだ。  ここは道の真ん中で、多くの民や近衛たちの目がある。しかし、本当に随分と疲れているように見えるアルフレッドに、シェリダンは湧き上がる羞恥心を今少し捨ててアルフレッドの背に腕を回した。また大地を震わせるような歓声が上がる。 「お帰りなさい、アル」  お疲れ様です、と宥めるようにアルフレッドの背を撫でる。それでも僅かに肩の力が抜けた程度で、アルフレッドはシェリダンを抱きしめた腕を緩めようともしない。流石にずっとここで抱き合っているわけにもいかないと、シェリダンは無意識にアルフレッドの胸に頬をすり寄せながら「城に戻りましょう?」と告げた。その瞬間、梃子でも動きそうになかったアルフレッドが勢いよく顔を上げ、シェリダンを抱き上げる。無言で側にいたリュシアンに視線を向ければ、彼はわかっているとばかりにひとつ頷いた。それを見て、アルフレッドはシェリダンを抱き上げたまま馬車へ向かう。行きはリオンとエレーヌが同乗していたが、帰りは後ろについてきている使用人用の馬車に乗るのだろう、王族用の馬車にはシェリダンとアルフレッドの二人だけだ。  扉が閉まり、リュシアンが器用にアルフレッドの馬の手綱を取ったのを見て、隊列が城へと進みだす。しばらくは沿道に駆け付けた民に手を振っていたが、しばらくすると窓のカーテンを閉め切り、アルフレッドは先程の続きとばかりにシェリダンを抱きしめ、その肩口に顔を埋めた。 「連れて行かないと決めたのは俺だが、こうも長くシェリダンと離れるのは、やはり堪える」  常とは違う小さな声に、本当に疲れ切っているのだと再確認して、シェリダンはアルフレッドの背を撫でながら、肩口にある黄金の髪に頬を寄せた。 「長旅、お疲れ様でございました。国はつつがなく、特に今すぐご報告せねばならぬような事もございませんでしたから、城に戻られたら湯浴みをして、ゆっくりとお休みください」  夕食の時間になったら声をかけるから、ゆっくりと寝台で眠ってほしいと言うシェリダンに、アルフレッドはどこか不満げな表情で顔を上げた。 「シェリダンは執務に戻るのだろう? ならば俺も戻る。そうすれば早く終わるだろうし、夕食と湯浴みを少し早めて、シェリダンと一緒に寝る」  アルフレッドが言うと〝寝る〟がただの睡眠に聞こえず、シェリダンは視線を彷徨わせる。 「し、しかし、お疲れでしょうから、夕食まで休まれた方が……」 「俺がシェリダンのいない寝室で、独り寝るとでも?」  随分と低い声で言われ、シェリダンはますます忙しなく視線を彷徨わせる。しかし、もともとアルフレッドに対してあまり否を言わないシェリダンは、やはり今回も頬を赤らめながらぎこちなく首を横に振った。その様子にアルフレッドはようやく笑みを浮かべる。 「フェンベルでは、あまり城に居たくなかったからな。頻繁に街に出てシェリダンへの土産もいくつか買ったんだ。甘いものもあるから、城に帰ったら一緒に食べよう」  気に入ってくれたらいいが、と言いながらアルフレッドはシェリダンの腰を抱き寄せ、幾度も幾度もその唇を啄む。ちゅ、ちゅ、と軽い音が馬車の中で響いて、シェリダンは顔を真っ赤にした。それでも、長い間会えずに寂しかったのはシェリダンも同じで、甘えるようにアルフレッドに抱き着いてしまう。 「んっ……、フェンベルには行ったことが無いので、色々とお話を聞かせてください」  物欲は無いシェリダンであるが、知識欲は人一倍だ。まして滅多にない戴冠式の様子などは気になって仕方がない。この目で見ることができなかったのは残念だが、きっとアルフレッドがつぶさにその様子を教えてくれるだろう。そう考えると楽しみで、思わず子供のように瞳をキラキラと輝かせる。そんなシェリダンは大変可愛らしく愛おしいが、そうさせているのが己を極限まで疲れさせたフェンベルであると思うと面白くないアルフレッドは、戯れのように啄んでいた唇に己のそれを重ね、スルリと舌を滑り込ませた。 「んぅっ……」  うち頬を舐め、歯列をなぞり、舌を絡めて。狭い口内をこれでもかと言わんばかりに舌で愛撫すれば、シェリダンは顔を真っ赤にしながら菫の瞳をトロンと蕩かせた。もはや身体に力が入らないのだろう、縋りつくようにシェリダンの手がアルフレッドの衣を握りしめている。 「ぁっ……、ア、ル――んぅッ」  溢れた雫がシェリダンの頬に流れる。それはあまりに艶やかで、淫靡で、どうしてここが馬車の中なのかとアルフレッドは胸の内で毒づいた。ここが寝室であったなら、すぐにでもシェリダンを寝台に押し倒して、その衣を剥ぎ、全身に口づけて思う存分愛することができるというのにッ! 「シェリダンッ、もっとこっちにッ」  もっと、もっと、交じり合うように近くへ。長く触れ合うことのできなかった分を取り戻そうというかのように求めるアルフレッドに、シェリダンもまた身を寄せて口づけに酔いしれる。  そうして城に戻るまでの間中、ずっと口づけを交わし触れ合っていたシェリダンは馬車が停まっても息が整わず、真っ赤な顔を深く被ったベールで隠しアルフレッドに抱き上げられて降りた。その様子を見たジェラルドによって二人で休むよう勧められ、アルフレッドは真っ直ぐに寝室へ向かった。  ピッタリと閉じられた扉に、寝室の様子をうかがうことはできないが、王と王妃が出てきたのは翌日の朝おそくだったことだけは確かだった。 おわり

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