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孔雀と泥ひばり

「急げエドガー、お客様のご到着だ」 「わかってる」 繊細な亜麻色の髪と聡明な鳶色の瞳を持った貴公子が、純銀の枠に時計草を彫刻した姿見に向かい、気乗りしないため息を零す。 「絵の続きを描きたい」 「また始まった」 肩越しに立ち回る赤毛の青年がうんざりする。 「またって何さ」 「夜会の度に言ってるじゃないか」 「ダンス苦手なの知ってるだろ」 「お気の毒様、主催の息子が壁の花ってわけにはいかないもんな」 貴族の身支度には使用人があたるのが基本。エドガーの着替えはオリバーの役目だ。 肩越しに動き回るオリバーを目で追い、期待を込めて尋ねる。 「君も出るんだろ」 「誰かさんのお守りが仕事だからな」 「皮肉っぽい言い方しないで」 「事実だろ?」 二人の付き合いは長い。他の使用人や当主が不在の場所では、気兼ねなく軽口を叩き合い冗談を飛ばす。 「絵を描いてた?」 「なんでわかる」 「右手人さし指の爪に赤い絵具が。カドミウムレッドかな」 バツ悪げな顔。 「念入りに洗ったんだが」 「油絵具は厄介だね」 「落としてくる」 「そこまでしなくても」 「ばれたらうるさい」 「気付かないよ」 「気付いたろ」 「僕はね」 胸を反らし得意げにのたまえば、オリバーが興味を示す。 「同じ絵描きだから?」 「それもある。よく見てるから自然と気付くんだ」 今だって目で追っていた。友人の気配を探るのは習慣と化している。エドガーの発言を単なる冗談と受け取ったのか、オリバーがそっけなく鼻を鳴らし、ドアへと足を向ける。 「手袋とってくる」 「部屋に戻るの?」 「手荒れが見苦しいって注意されたんだ」 「お父様に?」 「他に誰が?」 意地悪い切り返し。良心が咎めて申し出る。 「貸すよ、たくさんあるんだ」 「シルクの?」 「気に入らないかい?」 「……いや」 オリバーは何故か顰め面。潮騒のような談笑のさざめきが階下から届く。エドガーはドレスシャツに袖を通す。 「頼むよオリバー」 正装用の紳士服は大抵後ろ開きだ。一人で着脱は困難な為、誰かの手を借りる必要がある。 舌打ちが聞こえた気がした。背後に回り込んだオリバーが、手慣れた様子でボタンを留めていく。 後ろ開きのメリットは前が閉じられている為、はだけずにして見た目を美しく保てること。 「最近は前開きがモードらしい。付け襟もじき廃れる」 「詳しいね。おしゃれには興味ないとばかり」 「又聞きだよ」 詮索するのはよした。心当たりはある。 「息が酒臭い」 「……」 「またジン引っかけてきたの?」 「追い水で希釈した。水割りは水と一緒」 「酔いが顔に出ない体質でよかったね。首元赤いけど」 オリバーが不機嫌になる。 「俺がどこで何しようが勝手だろ」 「場末のパブに入り浸るのやめなよ、危ない目に遭ったらどうするんだ」 「実家はあっちだけどな。イーストエンドの娼館の角部屋……」 「オリバー!」 語気を強めて制す。オリバーが反省の素振りもない、軽薄な口調で茶化す。 「心配ご無用、ちゃんと平民のナリしてる。ポーカー仲間の酔っ払い連中にだって怪しまれてないぞ、一昨日は大金巻き上げてやった」 「まさかイカサマ……」 「コツ知りたいか?」 好奇心に負けて頷いた矢先、うなじに指が触れた。 「教えてやるもんか」 一番上のボタンを穴に通す。 「スタンホープ伯爵のご子息に悪い遊びは教えられない。ばれたら麻袋に詰められてテムズ川にどぼん、泥ひばりが死体を啄む」 「聞いたことない鳥だ」 鏡越しの青年が鋭い眼差しを突き刺す。エドガーより僅かに濃い茶色の瞳。 「ドブさらいの別名。お坊ちゃんは知らないか。下町のダチにいたよ、みんな死んじまったけど」 エドガーは愚かだ。 世間知らずを恥じるべき状況下において、オリバーが砕けた口調でほのめかす、自分以外の友達の存在に胸が騒ぐ。 「狙い目はテムズ川の干潮時、ボロ靴でぬかるみを踏む。持ってないガキは裸足。一年中冷たい川床漁ってるせいで肺をやられちまうのさ。手足をガラスや石ころで切って、そっから黴菌入って命を落とすヤツも多い」 指の温度が肌に沁み、吐息に乗じた囁きが耳裏をくすぐる。 エドガーはオリバーを、オリバーだけを見ていた。 狂おしく食い入るように。 「誰が殺した泥ひばり 私が殺ったと孔雀が言った」 マザーグースの替え歌を口ずさみ、エドガーの首に付け襟を当て、見栄えよく巻き付ける。 「ピンは?」 天鵞絨の小箱を掲げ、恭しく蓋を開く。台座に収まるネクタイピンは二個。片方は上品に艶めくブラウンダイヤモンドを象嵌したひばりのブローチ、片方は銀細工にエメラルドを散らし豪奢な孔雀の羽を模す。前者は母の形見、後者は先祖代々受け継ぐ家宝。 鏡を介しオリバーと視線を結ぶ。ブラウンダイヤモンドの欠片を戴く二対の眼差し。 片や純粋な尊敬と善意に溢れ、片やちりちりと劣等感を燻らせ。 気の迷いと判じかねる一刹那だけ眼光に憎しみを滾らせたオリバーが、全幅の信頼を宿すエドガーの直視に怯み、俯く。 「こっち」 神の被造物として完璧に調和がとれた、労働と無縁な指がひばりを指す。 「ご随意に」 貴族の身支度は従者の務め。自分で靴下を履こうとした幼い日、まだ存命だった母に「人の仕事を奪ってはいけません」と諫められた。彼女は息子に説いた、「従者には奉仕に能うべくして報酬が与えられるのです」と。 世話係の建前がオリバーの立場を保証すると痛感したのは、まだ幼い彼がメイドにガラス片を盛られた時。 「イカサマのやり方知りたい」 「駄目」 「どうしても?ずるいな、自分から言い出したくせに」 「お前相手なら殆どの奴は負けてくれるさ、伯爵のご機嫌損ねたくないもんな」 「君は?」 骨ばった手が細首にネクタイを回す。 「手加減なんてしないだろうね」 油彩と水彩どちらが良いか。どちらがより美しく生き生きと、オリバーの赤毛を表現できるだろうか。 ブライトレッド、カーマイン、マダーレーキ、バーミリオン……脳内に存在するパレットの絵具を混ぜ合わせ、最も相応しい色を創造する。少し茶色も足そうか。逆光に透ける感じを出すにはどうすればいいか。そばかすの点描には特にこだわり…… 「エドガー?」 戸惑いがちに呼ばれ、束の間の妄想から返り咲く。 「君の番だね」 エドガーのお召し替えを優先した結果、オリバーの支度は遅れていた。まだ付け襟もしていない。 「自分でやる」 「たまにはいいだろ交代しても」 「人に見られたら」 「ここには君と僕しかいない。告げ口は心配ご無用」 もっと近くで見たい、堂々と触れる口実が欲しい。オリバーになぞられたうなじの火照りがエドガーを駆り立てる。 「……わかった」 ぞんざいに肩を竦め、糊の利いた付け襟を放ってよこす。エドガーはオリバーと向き合い、手中の付け襟を首に回す。 オリバーが眉間に皺を刻んでぼやく。 「首輪みたいで苦手」 「動かないで」 至近距離にオリバーがいる。吐息の湿り気を感じる近さ。伏せた睫毛の瑞々しい色艶や鼻梁に散ったそばかすの濃淡まで鮮明に捉え、耳裏の血流が脈打ち、気分が高揚していく。 秘め事じみた衣擦れに生唾飲み、引き締まった首に沿って付け襟を巻き、変声期を経て突出した喉仏に一張羅を着せた直後、衝撃が貫く。 鎖骨の斜め上、肩口に歯型が穿たれている。 エドガーの視線に気付き、オリバーが素早く身を離す。 「誰が噛んだ?」 「ジョージィ・ポージィ」 「何年も前に死んだろ」 「お前にゃ喜んでしっぽ振って、俺には最後まで懐かなかった」 歯型にはうっすら血が滲んでいた。できて間もない証拠だ。気色ばんで詰め寄るエドガーに対し、オリバーは鼻白む。 「首突っ込むな」 「娼婦?」 「さあな」 「恋人?」 「かもな」 「僕の知ってる人?」 その問いには一呼吸だけ沈黙し、ぎらぎら底光りする瞳でエドガーを睨む。 「だったら?」 ふてぶてしい挑発に言葉を失い、ズボンのポケットから白手袋を出す。 「手を前へ」 無造作に突き出された右手を見下ろし、フェティッシュな奉仕の精神でもって、内張りの質感さえ官能的なシルクの手袋を嵌めていく。 ゆっくりと指に通し、手の甲を覆い、尺骨より切り込み深く手首を包む。 一連の動作はキャンバスを張り直す作業に似て、絵具の剥片が潜り込んだ爪と指をしまったことで独占欲が高まっていく。 シルクの手袋を嵌めた右手を捧げ持ち、甲に接吻する。 「似合うね。すごく」 オリバーを噛んだ人物への殺意を胸の内に折り畳み、囁く。 「僕の手袋が君の色に染まるところを見たい」 キャンバスの絵具を混ぜるように、真っ白な手袋を染め上げてほしい。 「プロポーズみたいだな」 友人の突飛な行動を失笑で受け流し、今度こそ踵を返す。 「有難く借りとく」 オリバーは知らない。エドガーの魂がオリバーの色に染まっている事を。

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