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プロローグ:退廃と享楽の異世界へ

 「──ひぃ…ッ、や…ぁ、…ご主人様(マスター)──!…もう…無理…です──っ…!」  M字開脚になるように足首と手首を縛り上げられ、調教用の開脚台の上に(くく)りつけられた真治の両脚の間には、媚薬をたっぷりと塗り込めたデコボコで細長い玩具が深々と突き立てられていた。その持ち手を掴んだ指がぐちゅぐちゅと乱暴に玩具を出し入れするだけで、粘膜が(めく)れ上がるほどの快感が背骨を突き抜ける。  果てたくて、イキたくて、緊縛された腰を切なげに振るのに、下腹で完全にそそり勃った牡の部分には射精管理用のきついコックリングを嵌められていて、それもできない。  直径二センチほどの球体が連なって長い棒になったような形をした玩具を操って、真治の奥のさらに奥までを抉るように何度も貫く褐色肌の青年は、藍色の眼をニィ、と細めて残酷に笑った。  「こんなモンで速攻泣き入れてんじゃねぇよ、今日は、この穴だけで完璧にイけるようになるまで徹底的に仕込んでやるからな…。」  「っ、そ、──そんな…ぁ──ッ…。は、ぁ、あァ──ん…っ──!」  すらりと長い褐色の手足。切れ長の藍色の眼に、藍色の長い髪。そして、人間のそれとは明らかに異なる長い耳と、額の少し上からは山羊のような二本の角が生えた美しい淫魔の青年の手によって、平凡な会社員だった真治の身体は、今、一匹の淫らな性奴隷に造り替えられようとしていた。 □■□■□  「アハハッ…。じゃ、俺らこれから飲みに行くんで、残りの仕事お願いしますね、新人さん!」  「バッカ、ちげぇよ。新人さんじゃなくて真治さんだろぉ?この人、何年選手だと思ってんだよ。」  「え、十年目だっけ?それにしちゃ要領悪すぎでしょー。じゃ、そゆことで!」    時計の針は、とっくに午後七時を回っている。繁忙期、溜まりに溜まった残業をドン、と真治の机の上に載せて、陽気な二十代の後輩たちは嘲りの言葉を口にしながらさっさと職場を後にしていった。口うるさい係長や、何事も見て見ぬふりをするだけの課長の姿は、とっくの昔にオフィスから消え去っている。後は、山のように押し付けられた仕事と、カチコチうるさい壁掛け時計と、真治ただひとりだけ。  「はぁ…。」  がっくりと肩を落として溜息をついても、聞いてくれる相手も、手伝ってくれる相手もいない。うず高く積まれた見積書や領収書の山は、後輩が勝手に重ねていく前からデスクに積み上がっていたものも合わせれば、片付けるのに軽く数時間は掛かる。  昔からどうにも要領が悪く、仕事の手は遅いし、強引に頼まれればどれだけ無茶でもはっきり嫌とは言えない性格だった。悪い意味でのマイペースが災いし、後から入社してきた後輩にも物事を強く言えずに、延々とナメられるばかり。しまいには、真治の名前をいじって『新人さん』というあだ名までつけられ、事あるごとにいびられるようになったが、同僚や上司はそんな逆パワハラを注意するどころか、完璧にスルーするか、一緒になって笑うかのどちらかだった。  まさに地獄でしかない労働環境。どうしてこうなってしまったんだろう、どうして僕はこんなところにいるんだろう、と幾度考えたかわからない。転職活動をしようにも、ベキベキになるまでへし折られた自信で別の会社の面接をパスできるとはとても思えなかったし、第一、残業に残業が続く日々の中では身動きも取れない。朝起きて、満員電車で揉みくちゃにされ、会社では堂々と笑いものにされながら残業を強いられて夜遅くに帰って寝るだけの生活が、かれこれ一年近くは続いていた。  「……はぁ。」  一心にキーボードをカタカタと叩き続け、ようやく書類の山が片付いた時には、壁の時計は二十二時を回っていた。これでは、コンビニで買った弁当を食べて、シャワーを浴びて寝ることしかできない。帰る準備の前にふらりと寄ったトイレの鏡に映る自分の顔は、当然のことながらひどくやつれて、目の下には薄い(くま)まで出来ている。  背は低め、中途半端な長さの黒髪に、何の特徴もない童顔の、おどおどとした気弱で中性的な顔立ちの真治が女性にモテた試しはなく、婚活はおろかデートさえ夢のまた夢。何より今は、誰かといるよりもただひたすらにゆっくり寝る時間だけが欲しかった。    オフィスの警備をセットして、ひと気のなくなった道を駅へと向かう。途中、怒鳴るような声を上げて騒ぐ通りすがりの酔っ払いにビクリと身体を竦ませながら、冬を告げる木枯らしの寒さにスーツの下の身体をぶるっと震わせた。  カードを当てればピピッと無機質な音を立てる自動改札も、終電を告げる駅の電光掲示板も、何もかもが寒々しく見える日だった。冷たい風の吹き抜けるホームで各駅停車を待つ真治の耳に、駅員のアナウンスが飛び込んでくる。  『間もなく、回送電車が通過します。危険ですから、黄色い線の内側に下がって…』  あまりにも寒い日に、たった一人で佇む駅のホームには、目に見えない悪魔がいた。その悪魔は、真治の耳許に架空の声でそっと囁き掛ける。  『もう、楽になったら?ここから一歩踏み出せば、こんなどうしようもない毎日なんか一瞬で何もかも終わるんだからさ──。』  ぼんやりと焦点の合わない目と虚ろな思考回路で、頭の中に忍び込んできたそんな想いを拒絶することができなかった。自分なんかいてもいなくてもいい、一段と強く吹き付けてきた冷たい北風に後押しされ、革靴の足を、線路に向けて一歩ずつ踏み出す。  顔の横を照らす回送電車のヘッドライトの眩しさに目が眩んだ。鼓膜を突き破るような、けたたましい警笛の音が響き渡る。不思議と、怖いという気持ちは湧かなかった。そして、ためらわずにホームのコンクリートを蹴る。ふわ、とつま先が空中を踏み、身体が虚空に浮かんだ。電車に跳ねられる瞬間っていうのは痛いのか、その痛いのはどのくらい続くのか、などと漠然と考えながら、真治という存在がこの世からいなくなる、最後の瞬間が迫るのを感じてぎゅっと瞼を閉ざした。  スッ、と目の前が暗転する。これが死ぬっていうことか、と漠然と考えながら、真治は頭を真下にして真っ逆さまに落ち続ける感覚の中で意識を失っていった。  頭の奥で、ぼんやりと声が聞こえる。  「──あぁ?何で首輪ナシの人間がこんなところに転がってんだ?…ま、イイか。見つけたモノは俺のモノ、それがここのルールだ。服の下に烙印も刺青も無かったら、ちっと調教してから軽く売り飛ばしてやるかねェ──。」  抱きかかえられる、というより担ぎ上げられるような揺れを感じて、酷く気分が悪かった。しかし、目を開いてみようという気分にはなれない。自分が今、どこでどうしているのかもわからないまま、泥沼に沈むように真治は再び意識を失う。

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