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【XX回目の婚約破棄ですけど、指輪はお持ちくださって結構ですよ、殿下】

「きみとの婚約を解消する」 と彼は言った。 「承知しました」 と私は答えた。 「ではこの指輪はお返ししますね」  私は懐に手を入れた。厚紙とセロファンに守られた、シロツメクサの押し花。丸く結ばれた花の指輪は、もう小指にも入らない。  彼が顔を歪めた。 「すまない。俺は、許されるならきみと」 「子供の頃の口約束です」  私は遮った。 「あなたの正式な婚約者は、■■■■様ですよ」  彼女と言葉をかわしたことはない。写真でしか見たことはないが、聡明で誠実な人だと聞いている。  私は彼の手を取った。深いしわが刻まれた、骨の浮いたか細い手を。 「悲しまないで、私の愛。どうか健やかであってください。それだけで良いのです」  私は彼の手を離し、振り向かずにその場を去った。  リノリウムの床が靴底を叩く。地面からも責められているようで、この感触は好きではない。  詰め所から同僚の職員が声をかけてくる。 「いつも大変ね」 「好きでしていることですから」  私は更衣室への廊下を進んだ。 「お電話ありがとうございます。マカドフィア王立養老院です」  ドアを閉めると、同僚の電話応対の声は聞こえなくなった。  あの方がやんごとなき立場にあったのは、もう六十年以上昔のことだ。お年相応に物忘れをすることはあっても、自らを忘れてしまうようなことはなかったらしい。  私がこの施設に職員として入社するまでは。  私は自分のロッカーを開けた。鏡には見慣れた20代の男が映る。  母いわく、私は祖父の若い頃に生き写しらしい。  新人として挨拶に伺ったあの日、彼は私を見て表情を凍らせた。  もちろん私は自己紹介をした。彼は、私の祖父の友人だったと言った。  けれど、その日を境に、あの方の心は六十数年前に帰ってしまった。  シロツメクサの指輪は祖父の形見だ。かつては書斎の引き出しの底に、小箱に入ってしまわれていた。  幼い私が何度だだをこねても、祖父はこの押し花だけは譲ってくれなかった。私の手からそっと押し花を取り上げ、しまい込む眼差しがあまりに哀しく、愛しげだったから子供心に余計に価値のあるものに見えた。 「よかった、まだいたな」  せわしなくドアが開いた。先輩がシロツメクサの押し花を差し出す。 「忘れもんだぞ。ったく、何回目だよ」 「勝手に持ってきたんですか」 「バカ言え。殿下に聞いたら、『それは彼のものだから、届けておいてくれ』って」 「……そうですか」  私はため息をついた。  おそらくきっと、近い経緯で、指輪は祖父のもとへ戻ったのだろう。彼の深層に刻まれた『婚約破棄の日の行動』を止めることはできない。  明日も彼は私に婚約破棄を告げるのだろう。年月を経てなお精悍さの残る顔立ちを歪ませて、ブルーアイににじむ涙を落とすまいとしながら。 「……ヒゲでも生やしましょうか」 「規則で禁止だ」 「知ってます」  もっと遅く出会えば良かった。彼は私の顔を見るたび、祖父へ別れを告げた日に戻らなければならない。  あるいはもっと早く、私が子供の頃に出会えていたら、彼を違う過去に連れてゆくことができただろうか。  例えば、祖父にこの指輪を渡した日に。 「あー、なんだ……担当変えるか? 今すぐは無理だが、来年別棟を立てるって計画もあってな」 「結構ですよ」  私は顔を上げた。 「好きで、やっていますから」 end.

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