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第21話 7章 医師として
彰久が連れてきたのは、三年前まで蒼が暮らした離れに面した庭だった。花桃が艶やかに咲いている。
「うわあーっ、今年も咲いたね! きれいだ!」
蒼はこの花が大好きだ。春の訪れを告げるように咲く花。可憐で、華やかで気持ちを明るくする。ここへ越してきた時も咲いていた。そして、去った時も咲いていた。あの時は、涙を堪えるのが精一杯で、花を見るゆとりはなかったが……。
「毎年咲いてるよ。咲くたびにあお君を思い出していた。花が散るまでに会いたいっていつも思っていた。漸く今年はその願いがかなったよ」
「あき君……」
「あお君聞いて、僕はあお君のことが好きだ。僕の大切なただ一人の人だと思っている」
それはあまりに真剣な愛の告白だった。蒼より体は大きいが、未だ十五歳の少年の真摯な思いが伝わる。蒼は、声が出ない。出せないのだ。どう応えればいいのか分からないのだ。彰久の思いが嬉しいというより、怖いのだ。
受け入れられれば、こんな嬉しいことはない。蒼も、彰久への思いを自覚していた。自覚するからこそ、抑えねばならないと、それは自分で分かっていた。
「あ、あき君……」蒼は、絞り出すように言葉を発した。彰久は、蒼の手を握り、蒼を見つめるその目は、蒼の全てを飲みこんでしまうような眼差しだ。
「あ、あき君の気持ちは嬉しいけど、僕は、あき君に思われるような人じゃない……年も上だし」
「どうして? 僕はあお君が好きんなんだよ! 初めて会った三歳のあの頃からあお君が一番好きだった。あお君ほどきれいで、優しい人はいない。僕にはあお君が一番だ! だから、待って。僕が子供だから駄目なのは分かってる。急いで大人になるから、大人になるまで待って!」
蒼の手を握ったまま真剣に訴える彰久。蒼は、これ以上はいけないと思った。自分の中のオメガ性が疼きだす気配を感じる。ここでそんなことになれば、取り返しがつかない。そうなれば、理性で抑えられるものでもない。
蒼は、膝から崩れ落ちそうになる。彰久の手を振り払って逃げ出したいが、その力がない。
どうしよう……このままでは……。
「ここにいたのか、いつの間にいなくなったと思ったら」雪哉の声がした。
「花桃を見ていたのか? 今年もきれいに咲いたな。この花が咲いたら、春を実感する。寿司も届いて食卓が凄いことになってるぞ。さあ、一緒に食べよう、彰久のお祝いだ」
蒼は助かったと思い、ほっとした。雪哉に促されるままついていく。雪哉も気遣うように、蒼の背に手をやり、母屋に入った。雪哉には蒼のオメガとしての反応に気付いた。彰久と二人でいたから反応したのか? ここで発情させてはいけない。それは、誰のためにもならないと、そう思った。
彰久は突然の母の登場に不意をつかれた思いで、二人に付いて行く。自分の思いは告げられた。それは良かった。今日は絶対に告げたいと思っていたから。ただ、蒼の返事はまだ聞いていない。
しかし、今はそれでいい。自分の思いを告げる、今はそれだけでいいと彰久は思った。この時の彰久は、自分の思いを真剣にぶつければ、蒼は振り向いてくれると思っていた。
蒼は、自分のオメガ。自分は、蒼のアルファ。それを疑う気持ちはかけらもなかった。それ事態に間違いはなく、蒼が気持ちに応えてくれても、二人が結ばれるためには、越えなければいけない壁があるとは理解していなかった。体は大きくても、心は、十五歳の少年だった。
蒼は、大人だった。彰久の気持ちは嬉しい。あれほどの思いを告げられて、嬉しくないはずはない。しかし、同時に怖かった。
自分も同じ年頃なら、告げられた思いに頷き、自分も好きだと告げただろう。しかし、現実は十五歳と、二十七歳。子供と大人。それは、どうしようもない大きな壁として、二人の間にある。
何かが起これば犯罪だ。自分が犯罪者として、断罪されるのはいい。しかし、彰久が犯罪被害者になるのは許せない。例え、その加害者が自分でもだ。いや、自分だからこそ、余計に許せない。
彰久が可愛い。可愛いだけでなく、それ以上に好きだ。大好きだ。この思いは愛だろう。彰久を愛している。
彰久も同じ気持ちだと告げられた。だが、彰久の思いには応えられない。だから、苦しいのだ。怖いのだ。
あの時、雪哉が来たから助かった。もし、来なかったらと思うとぞっとする。初めての時みたいに、発情していただろう。そうなれば、もう理性は効かない。
初めての時ように、発情しないように、あらかじめ抑制剤を飲んで行った。それなのに、反応してしまう。自分のオメガ性が恨めしかった。
だから、オメガは蔑まれる。アルファに反応して、アルファを求めて、体が疼く。
どうすればいい……蒼は、一人自宅のマンションで思い悩んだ。
今日は、あの後皆と賑やかに祝いの食卓を囲んだ。自分も何事も無く振舞えたし、彰久も普通に過ごしていた。自分は特に、彰久の祝いに水を差したくなかった。故に、帰る時も、皆が口々にまた来てねという言葉に、にこやかに頷いた。そればかりか、また来ますねとも言った。
だけど、もう行けないと思う。会わずにいること、それしか方法はない。
物理的な距離を置けば、彰久の思いもいずれは冷めるだろう。これから、高校へ入り、大学へも行けば、必ずや素敵な人と出会える。親に見捨てられた庶子の生まれで、十二も年上のオメガを相手にすることはない。
御曹司アルファに相応しい人と出会えるはずだ。そのためにも、自分の存在は邪魔になるだけだ。消えなければならない。
蒼にとって、その決意こそ彰久への深い思いではあった。
今はまだ、後期研修の身で、病院を移ることは難しい。研修が終わったら、関連病院に出向を願い出よう。本当は、後期研修後も雪哉の下で働きたい。それが、研修を受けた病院への恩返しにもなるから、当然蒼もそう思っていた。
けれど、あえて出向を願い出よう。地方の病院への出向は皆嫌がる。都会の人間は地方住まいに慣れないし、出世の道からも遠ざかるからだ。だからこそ、地方を希望すれば、かえって恩返しにもなるかもしれないと蒼は考えた。
雪哉夫夫に受けた恩は、それしきのことで返せるものではないが、それで許してくださいと、蒼は一人で泣いた。
泣きながら、自分がオメガであることを忌々しく思った。
思えば亡くなった母も、オメガだからこそ、悲しい人生だった。もし、自分もオメガでなければ、父の扱いも違ったはず。どうして、オメガはこんなにも、制約があり面倒なんだろう。
ひとしきり泣くと、蒼は急激に恥じる心が沸いてきた。泣くだけでは、余りに情けない。強くならなければと思った。
母も、オメガの自分を呪うことなく、強くなってくれと、希望を託していた。それに、自分は応えなければいけない。
雪哉もだ。同じオメガとして、様々に目を掛けてくれた。配慮も可能な限り、いや、それ以上にしてくれる。二人のためにも強くあらねばと思う。
強く、毅然としていなければ、それこそ望まぬアルファから番にされてしまう。そうなれば、オメガとしてはどうすることもできない。今までの努力は水の泡。受けた恩を返すこともできない。
彰久を求めることができない以上、自分から番を求めることはない。
尊敬し、憧れの存在である雪哉は、番と同時に婚姻関係も結び、充実した人生を歩んでいる。オメガの生き方の理想形だと思う。
しかし、自分は違う。番も持たず、結婚もしない。一人生きていく。孤高のオメガとして。おそらく、それは雪哉の生き方よりも、困難が多いだろう。それでも、逃げ出すことはできない。
田舎の病院で、地味に暮らしていこうとは思うが、うらぶれるのは情けない。何年か過ぎた後に、立派になった彰久の消息を知った時、穏やかにその幸せを喜べる状態ではいたい。余りにも落ちぶれるとそれは無理だろう。自分も、一人で頑張っているよ、と言えるくらいの状態ではいたい。
むしろ、パイオニアになればいいのだ。
医師になり、同じ医師の夫と対等な関係を結ぶ雪哉もパイオニアといえる。ならば、蒼は一人自立したオメガとしてのパイオニアになろう。それが、新たに蒼の目標になった。
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