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第24話 8章 留学

 その後、彰久は留学に向けて勉強に打ち込んだ。元来首席の彰久だから、その学力はアメリカでも十分に通用する水準にまで上がった。英語力も上がり、アメリカ人と対等に学べるほどになっていた。  留学経験のある高久から見ても大丈夫だと思われた。高久は、自分の経験からも、これがアルファの底力だと思えた。  運命のオメガに出会ったアルファは強い。運命のオメガを自分の者にするため、全力を上げるからだ。決して逃さないと思うと、人は強くなる。  やはり、彰久の運命は蒼なのだろう。彰久が帰国するまでの八年、己が蒼を守ってやらねばならない。雪哉も無論、その気持ちだが、いざという時は、やはりアルファの力がものを言う。  これは、息子に対する親心だなと高久は、少々苦笑するような思いを持った。彰久は初めて授かった我が子だ。可愛くないはずはなかった。 「母さん、僕の出発する日のこと、あお君に伝えた?」 「ああ、時間もちゃんと伝えた」 「来てくれるって?」 「それはどうかな、はっきり来るとは言わなかった」  留学することを伝えてから一度も会っていない。もう半年近く経つ。彰久は会いたい思いを抑えて、勉強に打ち込んできた。しかし、日本を出発する時は会いたい。最後にもう一度『行ってきます。待ってて』と伝えたい。  蒼は来てくれるだろうか……来てくれることを信じよう、彰久はそう思った。  蒼は、雪哉から彰久の出発時刻を聞かされた時、来るべき時がきたとの思いだった。同じ日本の東京にいてもめったに会わない。しかし、アメリカになると、その距離は絶望的に遠い。同じ大地に立ってもいない。空気も違う。体を、心を引き裂かれるような気持ちになる。  気持ちよく送り出してあげないとならない。それが、自分の務め。彰久にとって留学は益になる。それは、高久を見ても明らか。  彰久は、待っててと言ってくれた。その気持ちだけで十分だ。自分は待っている。他の人を求める気持ちはない。彰久が帰国するまで一人でいる。否、それ以降も自分は一人。  帰国した時彰久は、二十六歳、花の盛りだ。その時、自分は三十八歳。とても釣り合うとは思えない。きっと彰久には年相応の相応しい人が現れる。それが彰久にとっての最善、幸せ。それを、自分が邪魔をしてはいけない。  大恩ある方のお子様というだけでなく、彰久は自分の最愛の人。自分の幸せより、彰久の幸せ。  有り難いことに、雪哉はじめ北畠家の人達は自分を家族のように接してくれる。その行為に甘えて、兄のような立ち位置で彰久の幸せを見守っていければいい。それで満足するべきなんだ。  庶子の生まれで親兄弟から見放された自分を、兄のように思ってもらえるだけでもありがたいことなんだ。  蒼は悩んだ。当日の朝になっても決めかねていた。彰久の出発の見送り行くかどうかを……。八年何があっても会えないことを思えば、行きたいのが本音。しかし、冷静に見送ることが出来るか自信がない。そうなれば、他の家族の迷惑にもなる。北畠家の人達にとって、彰久は愛する子供であり、慕う兄なのだ。その彰久との別れは家族にとっても淋しいもの。それを自分が邪魔をしてはいけない。  結局蒼は、直接の見送りはしないと決めた。断腸の思いの中での決断ではあった。 「母さん、あお君来てくれないのかな」 「ああ、忙しいんだよ」 「って、いつも母さんそればっかりだけど、母さんがこき使うからだろ! ブラック病院だよ!」 「人聞きの悪いことを言うな。彼が忙しいのは、医師や看護師には頼りにされて、患者からは慕われているからだ。つまり、優秀な医者だからだ」 「お兄ちゃん、あお君のことばっかり」 「当たり前だ。あお君は僕の一番大切な人だからな」 「でも、あお君はみんなのものだよ。ねえママ」 「そうだな、みんなの大切な家族だ」  違う! 僕だけの大切な人だと言いたかったが、今はまだ自分だけのものではない、悔しいけれど。だが、八年頑張って必ず自分だけの人にする。 「彰久、そろそろ搭乗手続きだ。ボストンではハワード博士が迎えに来て下さるからな。博士は世話好きな人柄だから、心配いらない。私からもよろしくと伝えてくれ」 「うん、分かったよ。父さんのおかげで色々心強い、ありがとう」 「ああ、お前も慣れない土地で大変だろうが、頑張るんだよ」 「彰久、体にはくれぐれも気を付けるんだよ。母さん心配だから、たまには近況を知らせなさい」 「兄さん元気で頑張れよ」 「お兄ちゃん元気で頑張ってね」  皆がそれぞれ、彰久に声を掛ける。すると、彰久がぴくっと反応したかと思うと、そのまま脱兎のごとく走り出す。 「あっ! あっ、彰久~」  彰久は走った! 間違いない! この香りは! 「あっ、あお君!」 「あっ、あき君……」 「あお君来てくれたんだ! 良かった! 嬉しいよ、これでアメリカに行ける」  彰久は、蒼の手を握る。その手は温かく、彰久の気持ちも伝わってくるようだ。  蒼は、密やかに見送ろうと空港まで来た。姿は見なくても、彰久の乗った飛行機が飛び立つのを見送りたかった。それを、区切りに明日から生きていこう、そう思ったのだ。まさか、見つかるとは思わなかった。 「あき君ごめんね、先生たちとお別れしてたんだろ」 「うん、大丈夫。皆とはさっきちゃんと別れの挨拶はしたから。だから、あお君ともちゃんと言葉を交わしたかった。良かったよ会えて。八年だけど、待ってて。必ず八年で帰ってくるから、待っててね」  蒼は頷いた。その瞳には涙が溢れそうになっている。彰久は、抱きしめて涙を吸い取ってやりたい衝動に駆られる。 「彰久! 搭乗手続きだ!」  高久と尚久が駆けてきた。後から、雪哉と結惟も付いてきた。皆息を切らしている。 「もう……はあっ、いきなり走り出すから、はあっ……」 「急ぎなさい、間に合わなくなる」  彰久は搭乗口に向かって走り出す。後をまた皆が付いて行く。雪哉は蒼の背に手をやり、一緒に付いて行く。搭乗口の前で彰久は止まり振り返った。皆を認めると、大きく頷いた。そして大きく手を振った。 「じゃあ行ってくる。みんな元気で!」  中へ入っていく彰久を、皆で手を振って見送った。 「お兄ちゃんの飛行機見送りたい」 「ああ、そうしよう」  皆で展望デッキへ行き、彰久の乗る飛行機が飛び立つまで見送った。高久、雪哉、尚久は黙って手を振った。結惟だけは「お兄ちゃん、バイバイ~」と言いながら手を振った。  蒼は、涙を堪えるのが精一杯だった。空に吸い込まれるように、彰久の乗った飛行機は飛び立っていく。三月、風は冷たくとも、春の気配を漸く感じられる時だった。 「蒼君、来てくれてありがとう。彰久も嬉しかったと思う。安心して行けたと思うよ」 「すみません、ご家族でのお別れを邪魔してしまったようで」 「何言ってるんだよ、君は家族も同然っていつも言ってるだろ」  雪哉が蒼の肩を抱き寄せた。蒼は、もう駄目だった。堪えていた涙が溢れだす。そんな蒼の肩を、雪哉は包み込むように抱きしめた。 「す……すみません……」  いいんだよ、分かってるよと言うように、蒼の背をあやすように撫でる。蒼の華奢な体は、暫くの間、泣きながら震えた。  高久、尚久と結惟も蒼を優しく見守った。この場にいる全てが、結惟までもが、蒼を守ってやらねばと思った。声を抑えて静かに泣くこの人を守らねばと思った。 「蒼君、家まで一緒においで」 「いや、僕はこれで……ほんとに今日はすみませんでした」 「いいからおいで、花桃がきれいに咲いている。君が好きな花だったよな、見においで。車で来たんだろう、僕が一緒に乗っていく」  すると結惟が「じゃあ結惟もあお君の車に乗る」と言い、尚久もそれに続いた。 「やれやれ、結局私一人か、蒼君は相変わらず我が家で一番の人気者だな」 「うん、みんなのあお君だからね」  結惟は駐車場まで蒼の手を握って歩いて行く。反対側を雪哉が歩く。皆で蒼を守って行くように進む。  蒼は進みながら、北畠家の人達の温かさに感謝した。一人あの場で飛行機を見送ったら、あの場で崩れ落ちて立てなかったかもしれない。雪哉は多分そんな蒼を察して、誘ってくれたのだろう。その優しが身に沁みる。  家に着くと、中へ入る前に雪哉は蒼を庭に誘った。庭には花桃が、可憐な花を咲かせていた。 「今年もきれいに咲いているな。彰久も嬉しそうにしてた。君が出て行ってからは彰久が世話してたからな。帰ってくるまで、毎年咲かせてやらないとな」 「そうですね……」 「この花が咲くと春を感じる。春は出会いの季節でもあるけど、別れの季節でもある。今年は、別れの季節になったな。でも、帰ってくる時は出会いの、再会の季節になるな。それまで保ってやらないとな、向こうで一人頑張る息子のためにね」 「そうですね、あき君が帰ってきた時咲いていたら嬉しいでしょうから」 「ああ、君も一緒に眺めて欲しいね」  僕も一緒に……そうだ、兄としてだ。兄として彰久が帰って来た時、この花を眺められたらいい。

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