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第29話 10章 春のざわめき

「ねーっ知ってた!?」 「院長先生の息子さんのことでしょう」 「そうそれ、帰国されるんだって!」 「国家試験の結果はまだだけど、確実に合格するだろうって、まあ当然よね。合格したら三月末に帰国されて、四月からここで勤務されるのはほぼ確定なんだってね」 「うわーっ、素敵な方なんでしょうね」 「院長と副院長の息子さんよ、どちらに似てもイケメン間違いなしだし、アメリカ帰りの外科医なんて超ハイスペックだよね」 「早くみたい……」 「あなたまさか玉の輿狙ってるの?」 「まさかあ! そこまで身の程知らずじゃないよ、でもお相手はどんな方かなあ」 「女医の先生たちも色めき立ってるらしいけど、どこかのお嬢様じゃないの。それにまだお若いから、すぐに結婚ってわけでもないかも」 「そうだね、西園寺先生が院長先生のお嬢さんに決まってショックだったから、当分夢はみたいよね」 「西園寺先生、この間のバレンタインデーは、本命チョコ少なかったんじゃないの」 「そりゃあ、あれだけ強力な人が現れたら、萎えるよね」  看護師たちの噂話は尽きない。常に関心の的だった蒼は、結惟が相手だろうとの認識。そうなると、もっぱらの最大の関心事は彰久の帰国だった。  そこへ、主任看護師が現れた。仕事中じゃなくて休憩中なので皆姿勢は正さない。 「主任、院長先生の息子さんってどんな方か知ってます?」 「ああ、今度帰国されるってこと以外は知らないのよ。師長も知らないって言われてたわよ。高校卒業後すぐにアメリカへ行かれたから」 「そっかー、未知な方なんですね……でもイケメンハイスペックは間違いなしですよね」 「それは院長ご夫夫の息子さんだから、あなたたちには高嶺の花よ」 「そんなの分かってますって」 「そうそう、吉沢さんが西園寺先生にとって院長先生のお嬢さんは妹のような人って言ってたわよ」 「吉沢さんって、吉沢先生の奥さん?」 「そう、吉沢主任。あそこは夫婦で西園寺先生と仲良いから、直接聞いたって」 「妹かあー、でも光源氏も紫の上からお兄様って呼ばれてたのにねーっ、ふふふっ」  そうよ、そうよ絶対同じだよと、何故か蒼と結惟のことは、光源氏と紫の上になぞられてしまった。若い看護師たちの妄想交じりの噂話は尽きないのだった。 「あなた、国試(医師国家試験)の結果が出たようですね」 「ああ、合格だ!」 「良かった! 大丈夫だとは思ってたけど実際に結果が出るとほっとする。蒼君にも早速知らせないと」 「そうだな、これで帰国も計画通りに進むからな。ああそれと、他の研修予定の学生たちも全員合格したようだ」 「ああ、良かった。それも気にしていたから」  四月から研修予定の学生たちも国家試験に合格しないと、当然ながら採用取り消しになる。研修医を指導することになる蒼にとっては、そちらも関心事であったのだ。  蒼も今日は国試の結果が出る日だとは知っている。彰久が受験の時だけ帰国したのも知っていた。その時は、同じこの地に彰久がいるというだけで胸がときめいた。どうか頑張って欲しいと心の中で最大限のエールを送った。  それから一月、彰久の結果は一番の関心事であった。常に心の中には、それがありざわめく。それを抑えながら仕事に励んだ。表面では研修予定の学生たちの結果が最大の関心事のように過ごしていた。  研修予定の学生たちからは、次々と合格の報が入った。ほっとしながらも、彰久は? 院長へは知らされただろうか? 気になって仕事が手につかない。そこへ、雪哉から院長室へ呼び出された。  ああ、結果だ! 蒼は、院長室へ急いだ。 「蒼君、合格だよ! 彰久合格した!」  ああ、良かった! 嬉しいのと、ほっとしたので蒼は崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えた。そして絞り出すように発した。 「ああ、良かった……おめでとうございます」  そんな蒼を雪哉は労わるように抱きしめた。 「うん、良かったよ。僕も一安心だ」  言葉少なく喜びを共にする二人を、高久も温かい眼差しで見守る。高久にとっても、最高に嬉しいことだ。三人共に、八年の時の長さを感慨深げに思うのだった。 「これで、暫定だった帰国が正式に決まった。二十一日だ」  えっ! 二十一日って、今日は十五日だからもう一週間も無い。 「土曜日だから、君も早めに家へ来てくれるよね。皆で彰久を迎えよう」 「えっ、でも……あの、帰国された日は家族水入らずで……」 「もうーっ、まだそんなこと言うのか! 君は家族も同然だっていつも言ってるだろ。第一彰久が真っ先に会いたいのは蒼君だよ! 君が来てくれないと、あれが一番がっかりする」  雪哉は同意を求めて高久を見る。無論高久も同意だ。 「そうだよ、君が来ないと始まらない。当日は是非来てくれ。そして皆で空港まで迎えに行こう」  二人の厚意はありがたい。蒼には身に余るものだ。だが、しかし怖い。本当に彰久は自分の出迎えを喜んでくれるのか……。  待っていて欲しいと言ってくれた。無論自分は待っていた。自分にとってのアルファは彰久しかいないから。でも、彰久は……。八年は長い。この間、一度も会わず、スカイプは勿論、電話で話すことも一度とて無かった。手紙やメールのやり取りも皆無。  そのことに不満を覚えることはなかった。彰久は異国の地で必死に頑張っているのだから、そのような余裕はないだろうと。そう思い蒼も仕事に打ち込んできた。今や指導医として、多くの若手医師を指導する立場だ。  この八年医師としては充実していた。しかし、いつも心に思うのは彰久のことだった。彰久が、蒼の心から離れたことは一度もない。が、それを彰久は喜んでくれるだろうか……。  三十後半の歳。世間では立派におじさんだ。二十六の彰久に相応しいとは思えない。雪哉や高久にすれば、それは八年前に解決したことだった。その時は蒼も納得して、彰久を待つと言った。その言葉に偽りはない。待ってはいる。けれど不安だった。  彰久の気持ちが変わっていても、彰久を責めることはできない。それは当然のこととも思うから。ただ、その気持ちを知るのは怖い。せめて、間接的に知りたい。  合格の報には喜んだ蒼が、出迎えに躊躇するのは、奥ゆかしい性格から遠慮しているのだろうと、雪哉は単純に捉えた。遠慮深いのは彼の昔からの気質。蒼らしいと言えば蒼らしいが、そんな時は自分が背中を押す必要があると雪哉は思っている。それを、今回も躊躇なく発動した。 「当日の土曜日と翌日の日曜日は、僕の権限で君は休みにする。当日は当直明けでフラフラになるのもあれだから、金曜の当直も入れない。いいね、だから二十一日当日は早めに家へ来て、空港まで迎えに行くよ」  言い切られてしまった。こんなプライベートな事に副院長権限を出すなんて……と思ったが、院長の高久も頷いている。つまり同意ということだ。これでは、蒼に抗うすべはない。  彰久の帰国当日、蒼は早めに北畠家へ行き、結惟も入れて四人で空港まで出迎えに行くことが決まった。

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