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 喉奥が締まり、耳の後ろが冷たく痛む。本能的な恐怖を感じ、ミハルは右手の親指と小指以外の三本の指先で自らの頸を撫でて息を吐いた。 この行為はミハルが西の魔女から与えられた幾つかの慈悲の一つである呪い(まじない)だ。気休め程度だと聞いていたが、ミハルには案外効果があった。喉が緩み後頭部の痛みは消えて、ミハルは薄い唇から静かな息を吐き出した。  体が震えるほどの恐怖は薄れても、どこか理性的な頭の中に「怖いな」と明確な文字が浮かぶ。  相手はミハルの顔を見たとたん眉を顰め、明らかな不快感を露わにした。  否、「不快感」と言う言葉では収まらない。嫌悪、憎悪、怒り、どれか一つには当てはまらないが、それらに近いものがその男の漆黒の瞳から発せられている。  彼は歴戦の英雄だ。紺のシャツの上から黒いガウンを羽織っている。昼間だと言うのに薄暗い石造りの室内で、そのガウンに施された金のパイピングが幅の広い外形を浮き彫りにさせている。身丈はミハルが爪先で立ち、手を伸ばしてやっと頭に届くほどだ。ミハルがやや小柄であるという事実もあるが、加えてその男が大きいのだ。  先ほど睨み付けられて以降、ミハルが未だ直視できないその口元が犬歯をのぞかせ、もう一度低く唸るように言葉を発した。 「さっさとそいつを連れ帰れ」  その覇気はまるで風を巻き起こしそうなほどだった。実際には起こっていないその事象から身を守るかのように、ミハルは英雄と自分の間に立つもう一人の男の背中にさりげなく身を隠した。 「いやいや、ライニール様。事前にお話しはしてあったでしょう? 男だと言うことも説明してあったはずで」 「うるせぇ」  必死に弁明するのはミハルの前に立つレネという男だ。ミハルはついひと月ほど前に初めてこの男に会ったのだが、癖のあるブラウンの頭髪を後ろへ流し、同じ色の瞳で軽薄に微笑む掴みどころのない男だった。  一応常に愛想の良い笑顔を浮かべていたが、本当に笑っているだけのようで、言葉と表情が整合しないことが多かった。今も声を震わせ自らの正当性を主張しているが、おそらくその顔は一応笑っているのだろう。ミハルは背後にいるのでレネの表情を確認することはできないが、言葉を途中で遮られ息を飲んだその気配だけは感じ取った。 「男だとか、そう言う問題じゃねえ」  英雄の名はライニール。レネが男のことを今そう呼んだので、ミハルはそれで彼の名を知った。  しかし、英雄というのにライニールはまるでならず者のような口振りだ。 「とにかくそいつはダメだ、失せろ」 「いや、しかし、この習わしは西の魔女のご意向でもありますので、そう易々と」 「だったら、他のやつにしろ、チェンジだ」 「チェンジって、あなた、いったい彼の何がダメなんです?」  レネは食い下がった。正直なところ、ミハル自身は早くライニールの元を立ち去りたかった。そんなに嫌だと言うなら無理に受け入れてもらわなくてもいいと、そう思った。 「何がダメかって?」 「はい、可愛いうさちゃんですよ? うさちゃんは人気がありますからね、希望を出す方だっているんです。まあ、全て魔女が気まぐれで決めるので、大抵その希望は通りませんけど」 「チッ」  わざとミハルにも聞こえるように、ライニールは大きく舌打ちをした。恐る恐るレネの背中からミハルが目元を覗かせ見上げると、苛立ちに満ちた瞳がこちらを睨み付けていた。 「ダメだ、顔がダメだ」 「え? か、顔……? 傷もないし、可愛いと思いますけど、趣味じゃないとかそういう」 「とにかくダメだ。帰れ、去れ、失せろ、殺すぞ」 「ひっ!」  レネの肩がびくりと震え、つられてミハルも体を丸める。  そこから数分言い合って、ライニールが三度目の舌打ちをしたあたりで、ミハルはレネに「外で待っていてください」と言いつけられた。  ミハルは一人その場を離れ、古城の大きな二枚扉をその体で押し開けた。その先にある繋ぎ目に苔を蓄えた石階段を下まで下り、少し湿った最下段に腰を下ろす。  城内ではまだ、ライニールとレネの押し問答が続いていた。  西の魔女と東の魔女、この二人が従える勢力が激しい争いを始めたのは、今から150年と少し前のことだと言う。  なぜ二人が争い始めたのかは誰も覚えていない。それが記憶を操作する魔女たちによるものなのか、はたまた取り止めのないことの発端を魔女たち本人ですら憶えていないのかは定かではなかった。  そして、その戦いは今から5年ほど前に終わりを迎えた。  その理由はなんのことはない、100程歳が上だった東の魔女が寿命で命尽きたのだ。「勝利」と声高らかに言えはしないが、今この国を統べるのは西の魔女である。  そして、その長きにわたる戦の中で、西の魔女の側につき、幾つもの武功を挙げた英雄がライニール・クライグだ。彼は西の魔女が統べるウェル国の西の外れにこの広大な敷地と城を与えられた。  城の前には開けた野原が広がり、午後になったばかりの今は穏やかな日差しを集めて黄金の草木が輝いている。しかし、なぜか灰色の石造りのこの城は、湿気をはらんで苔むしていて、どこか陰鬱な雰囲気を放っていた。  長閑な気候のこの地は魔女の住まうセントラルから、馬車で10日もかかる距離だ。魔法が使えればそれほどでもない距離らしいが、ミハルもレネもただ地道に地を踏むしか移動の術を持たない身だった。  レネがあんなに必死に食い下がるのは、この長い道のりを無意味なものにしたくないのだろう。それはミハルとて同じことで10日も馬車に揺られて尻は痛むし、腰は軋んだ。同じ時間またあの乗り心地の悪いシートに座って過ごすことはミハルの望むところではない。  かれこれ20分ほどが経つが、まだレネは古城から出てこない。ミハルは手持ち無沙汰で周囲を見渡し、階段脇の植え込みに落ちた木の枝を一本摘んでみる。それで地面を引っ掻くが、ガリガリと音がするだけで何一つ楽しくはない。  立ち上がって古城を振り返る。ライニールはこの城にたったひとりで住んでいるとミハルは聞いていたが、それにしては持て余す広さの城だ。使用人が少なくとも30人はいないと管理できないように思われた。案の定、あまり手入れが行き届いていないのか、ここから見える窓は埃で黄ばみ、石壁にはあらゆるところに雨垂れが跡を残している。城の周囲の植え込みに関してはおそらく手入れができないからか、とっくに枯れたいくつかの低木以外は何も植っておらず、ただ苔を帯びた土が敷き詰められているだけだ。  目の前の草原と城を隔てるように施された馬車がギリギリ通れるほどの石畳は、ところどころひび割れて陥没しており、そこに水溜りを作っている。  ミハルは地面を枝で擦りながら、その水溜りの前でかがみ込んだ。映り込むのは晴天の空を背景にした自らの退屈そうな表情だった。  耳が隠れるほどの長さのミルクティー色の柔らかい髪は、対輪の辺りでくるりと弧を描いた癖毛だ。栗色の瞳、白い肌に、ご機嫌に上がった口角と先端がツンと上がった慎ましい鼻筋と薄い唇。華奢だが骨格はきちんと男のものだ。しかし、ミハルのその顔の作りはどこか愛らしさを感じさせる。それはおそらくミハルが「兎」の獣人に属するからだろう。  太古の昔の魔女の気まぐれで、この世界には獣の属性を持つものが存在することとなった。現在生きている者のうち、獣の属性を持つものの多くは遺伝からくるもので、ミハルもそのうちの一人だ。獣の属性を持つ獣人たちは、三角の耳や尻尾が生えているわけではなく、外形的には何の属性も持ち合わせないただの人と同じである。しかし、彼らはどこかにその獣を彷彿とさせる体質や雰囲気を持ち合わせていて、何故か言わずとも、皆彼らがどの獣の獣人なのかを何となく感じ取ることができるのだ。  穏やかに吹いていた風がちょうど束の間凪いだ時、ミハルの背後で重たい二枚扉が軋んだ音を鳴らした。  振り返ると開いた隙間からレネが這い出すように身を捩っていた。ミハルは立ち上がり、石階段の上のレネを見上げる。彼はミハルを見つけると跳ねるような足取りで階段を降りてきた。 「いやいや、よかったよかった。ライニール様は快くお引き受けくださったよ」 「こころ……よく?」  レネの言葉に、ミハルは眉根を寄せて首を傾げた。少し唇を持ち上げたその仕草は、兎が草を喰む時に似ている。 「殺すぞって言ってませんでした?」    ミハルの言葉を掻き消すように、レネはカラカラと笑い声を上げ、ミハルの肩を大袈裟な仕草で二度叩いた。 「まあ、あれだ。英雄ライニール・クライグ様は貴方の身を案じたようですね。その……ほら……」  言いながら、レネは足元からミハルの姿を確かめるように視線を上げていく。ミハルは安皮のブーツに、ゴワゴワとした素材のベージュの下履き、皺がよって所々ほつれて黄ばんだシャツを着ている。上着がわりに肩にかけて胸元で手繰り寄せているのは、馬車のシートのカバーとして掛けられていてたモスグリーンの布切れだ。 「いたいけなうさちゃんを……」  そこでレネは言葉を濁す。「いたいけ」などと言っているが、おそらくライニールは「貧相だ」とでも言ったのだろうとミハルは思った。 「俺が兎だから、あんなに嫌がったんです?」  ミハルが問うと、レネには一度左上に視線を滑らせた後、肩を持ち上げながら答えた。 「まあほら、彼、狼だから。食べちゃわないかって心配なんじゃないですかね」 「食べっ……え、それ、は、物理的に?」 「……ええ」  先ほど薄闇でチラついたライニールの犬歯が頭に浮かび、ミハルは背後が冷たく粟立った。また指を3本頸にあてがい、ゆっくりと息を吐く。 「……まあ、それは冗談として」 「冗談なんですか」 「そうですよ、食べるわけないじゃないですか」 「はぁ……」  レネはいつも飄々とした笑顔を作っているせいで、ミハルには彼の言葉が冗談なのか本気なのかいまいち判断がつかなかった。  からかわれたと気づいたミハルは、少しばかり不機嫌にまた眉をよせて口を尖らせた。 「まあ、しかし、注意してくださいね」  そう言って、レネはミハルの肩に腕を回し引き寄せるとその耳元に口を近づけ左手を添えた。 「英雄ライニールは爵位を断りこんな片田舎のカビ臭い城を貰って引き篭ってる変人です」 「はぁ……」 「噂じゃ、恋人を失ってからめっきり心を閉ざして人を寄せ付けないらしい。気難しすぎて使用人すら逃げ出すほどだそうですよ」 「うーん……」  ミハルはまた屋敷を見上げる。雨垂れの窓の向こうの埃まみれの部屋を想像して憂鬱な気分になった。 「レネさん」 「うん?」 「それ、道中で教えてくれなかったですね?」 「え、だって、ほら、先に色々聞いちゃったら、道中憂鬱になっちゃうでしょ?」  また飄々とした様子で言ったレネに、ミハルは「まあ、確かに……」とその目を細めて項垂れた。

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