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自分のイニシャルをデザインした赤い封蝋をするのが生徒の間で流行っていると手紙には書かれていた。ミハルはその文章を読んだ後、改めて封筒を裏返す。確かにそこには洒落た形に崩されたヒリスのイニシャルがあった。
彼がセントラルの魔術学校に行ってから一年。ライニールが戦争に行き、ミハルがこのハイデの街に店を構えてからは二年が経っていた。
戦況は佳境を迎えているようだ。ヒリスの手紙には上級生が後衛部隊として徴兵されたとある。新聞では毎日のように英雄の武功を伝え、戦いは西の魔女が優勢であり勝利は目前であると書き綴られていた。
ミハルは何度か丘の上から見下ろした遥か向こうの戦線の街にかかる紫色の雲と、痛々しい閃光を見た。
押し寄せる不安を払拭するのは、たびたび伝え聞く英雄ライニールの活躍の噂だ。それが彼の生存を知る術だった。魔馬車でいけばさほどでもないこの距離を、二年もの間ライニールは戻ってきていない。
ミハルの店はこじんまりとした作りだ。カウンター席が6つに、ガラス張りの通り沿いの窓辺にテーブル席が2つ。今日は風が強いが、天気のいい日は表の庇の下に丸テーブルを二つ出していた。
コーヒーとフレッシュジュース、定番メニューのセットが2種と、肉か魚が選べる日替わりランチ。素朴な味と親しみやすい店の雰囲気の評判がよく、常連客もそれなりにいる。
「てんちょ! レモンってどこしまいましたー?」
カウンターの奥が厨房になっている。両手を上げなければすれ違えないほどの狭い空間で、足元の保冷庫に首を突っ込みながら言ったのは従業員のモナだ。彼女はセキセイインコの獣人で、いつも頭の高いところで髪を団子に束ねている。若くてぷっくりした頬がほんの少し赤いのが可愛らしい。愛想も良くて客の評判もいいのだが、思ったことをそのまま口に出してしまうところがある。
「あれ、その中にない?」
ミハルはモナの後ろから保冷庫を覗き込む。
「ないですよ、今朝届いた食材の中にもなかったです」
「あらら、じゃあ頼み忘れたんだな」
「もう、てんちょ、しっかりして」
モナは腰に手を当てて、ぷっくりとした頬をさらに膨らませて口を尖らせている。ぶりっ子なその仕草は、年配の常連にウケがいい。彼女目当てで通っている客も少なくなかった。
「悪いモナ、ちょっと行って買ってきてくれないか?」
「うーん、正直めんどくさいですけど、今日の賄いにデザートつけてくれます?」
モナは人差し指を頬に当てて小首を傾げて体を揺らした。ミハルは眉を下げた笑顔を返し「わかったわかった」と頷いてやる。
「そんじゃ、行ってきます! とりあえず、今日の分だけでいいですか?」
「そうだね、よろしく!」
モナはエプロンを外し、厨房の入り口のフックに引っ掛ける。近くにあった買い物籠を手にすると、狭い厨房から「ヨイショ」と這い出し、店の出口へと歩み寄った。するとモナが扉を開くより前に、外側から扉が開き上に吊るしたベルが鳴った。
「あら、ジットさんいらっしゃーい!」
モナがスッと道を譲り、小鳥のような声音で言った。入ってきたのは常連の客のジットだ。ミハルがこの店を始めたばかりの頃から通ってくれている初老の人間の男で、最初の雑談で同じ街の出身だということがわかってから、何かとミハルを気にかけてくれていた。ジットはミハルが家を失った戦いで、同じく家と妻そして左足を失っている。
「おや、モナちゃんおでかけ?」
「はい! てんちょが買い忘れたレモンを買いに!」
「それじゃあ、開店は遅れるかな?」
ジットのその言葉でミハルはハッと壁の時計を見上げた。昼時の少し前にいつも店を開けている。針はすでにその時刻を回っていた。
「いえいえ、もう開けますんで、どうぞ座ってください!」
ミハルは厨房からでると、ジットがいつも座るカウンターの奥の席の椅子を引いた。片足に義足をつける彼は少し辿々しく歩きながら、カウンターに手に持っていた新聞を置くと椅子に腰を下ろす。
「ほいじゃ、モナはちゃちゃっと行ってきちゃいますねー!」
そう言い残して、モナは買い物籠を不必要に揺らしながら店の外へと出ていった。
「いつもので良いですか? 先にコーヒー飲みます?」
今日は少し日差しが強い。ミハルは通りのガラス窓に下げたブラインドの角度を変えながらジットに尋ねた。
「ああ、コーヒー頼むよ。今日は魚の気分だ」
「じゃあ、日替わりの魚で」
ミハルが口角を上げると、ジットも目尻を下げて頷いた。成人以降は死ぬ直前まで若い姿を保つ獣人と違い、人間はその外見で緩やかに歳をとっていく。初老の見た目は人間特有だ。人間たちはいつまでも若い見た目の獣人を羨ましがるが、ミハルは徐々に皺と白髪を蓄え《《老いていく》》という現象をどこか神秘的に感じている。
「最近、お店の調子はどうだね」
ジットは自分以外に明らかに客がいない店内を見渡した。ミハルは淹れたコーヒーを厨房からカウンターの上に出し、ジットに苦笑いを向けた。
「まあ、常連さんは相変わらず顔出してくれますけど、新規のお客さんはほとんど。たまに冷やかしみたいなのもありますね」
ジットは口を結んで「うーん」と唸ってから、コーヒーを持ち上げ口をつけた。上手いと言葉には出さないが、彼の吐いた満足げな息が「いつもの味だ」とでも言っているようだ。
「まあ、人の噂なんてそのうちおさまるだろ。俺のお気に入りの場所なんだ。簡単に閉めるなんて言わないでくれよ?」
ジットは言いながら、カウンターに新聞を開けコーヒー片手に目を落とした。
「じゃあ、ジットさん。この店が潰れないように、毎日来てくださいね」
ミハルは厨房でジットの注文を支度しながら言った。フライパンを火に乗せ、油を引いて下拵えしてある白身魚を乗せる。
「くっ、商売上手だね」
特徴のある笑い声を混ぜてジットが言った。その後はただ新聞を読みながら食事が出来上がるのを待っている。この時間を彼は気に入っているようだった。
ミハルはふと彼の手にする新聞に視線を向ける。一面は戦況を伝えるが、折り畳まれた小さな記事にはこのハイデの街で起こる事件について掲載されていた。
ここ数ヶ月のうちで既に5人、戦線を離脱しこの街で休養していた戦士や騎士が亡くなっている。皆、心を病んでいた。自ら命を絶った者、精神病が原因でだんだんと衰弱していった者、いずれも現役時代は新聞で名前を見かけたことのある英雄たちだった。
記事によると、彼らは休養ののち復帰するはずだった。しかしこの街に戻ってから戦いに支障をきたすほどに心を病んでいることがわかり、そのまま戻らず亡くなってしまったのだそうだ。
「はい、ジットさん。日替わりの魚セット」
出来上がった料理を載せたトレイを、ミハルはカウンター越しに掲げた。ジットは新聞から顔を上げ、折りたたんで脇に置くと、ミハルからそのトレイを受け取りカウンターに乗せた。
「毒なんて入ってないから、安心して食べてくださいね」
「自虐かい。まあ、俺なんて殺してもなんの特にもならないからな、いただきます」
ジットは両手を擦り合わせる仕草をした後、フォークとナイフを手に取って、嬉々として料理を口にし始めた。
4人目の英雄が亡くなった頃、ミハルの店に噂がたった。
亡くなった英雄たちはみな、最後にミハルの店で食事をとった。この街に飲食店は多くあるが、ミハルの店は戦士や騎士たちが休息をとる宿舎の近くに構えている。常連客は「ただの偶然だ」と言っているが、5人目の英雄が亡くなる頃には、新規の客が殆ど来なくなり、時々店の前にゴミが置かれたり張り紙をされるなどの嫌がらせを受けるようになっていた。
あの店で食事をした英雄は死ぬ。ミハルの店は街ではそう噂されていた。
不意にやや乱暴に店の扉が開かれて上部に吊るしたベルが鳴った。飛び込んできたのは先ほど買い出しに出たモナで、レモンの入った買い物籠を胸に抱えている。
「て、てんちょー! どっかヤバいとこからお金借りました?!」
後ろ手に勢いよく扉を閉めたモナは、近くのテーブルに買い物籠を置くと、怯えるようにカウンターに縋りついた。
「え? 借りてないけど? どしたの?」
「め、めめ、めっちゃくちゃ怖い顔の大っきい人が、店の看板見上げて突っ立ってて、なんかこぉんな感じで眉間に皺寄せて唸ってたんですよぉ~!」
言いながら、モナは皺を寄せた自らの額を指差したが、彼女の愛らしい顔ではなかなか緊迫感は伝わらない。ミハルは店の入り口の方を向いたが、ちょうどさっきブラインドを閉じたせいで外の様子はわからなかった。
「殺されるかと思いました! あれ絶対カタギじゃないですって! ひっ、ひぇっ!」
また扉が開きベルが鳴った。そのドアを埋め尽くすほどの大きな影が店に足を踏み入れたのを見て、モナが語尾で悲鳴を上げる。
しかし、ミハルはその姿を見て笑顔を作った。
「ライニール!」
と、その名を呼ぶと、怯えていたモナとジットが二人してミハルに視線を向けた。
「ラ、ライニールってあの、英雄の?」
ジットが手元にあった新聞をめくる。一面にはちょうど、英雄ライニールの武功を讃える記事が掲載されていた。
「戻ってくるなら教えてよ、急でびっくりしちゃった」
ミハルはライニールを隅のテーブル席に座らせると、自ら淹れたコーヒーと砂糖、そしてたっぷりのミルクをテーブルの上に並べて置いた。
「急に決まった。次の作戦までの休養だ、5日で戻る」
「……そっか」
ミハルが少し寂しげに笑った様子を、モナは厨房からジットはカウンター席で広げた新聞の影から伺っていた。二人はミハルと英雄ライニールの関係性を勘繰っているようだ。
「お腹は空いてる?」
ミハルはライニールに尋ねた。
「ああ」
ライニールは短く答えながら、コーヒーカップに砂糖とミルクを流し込んでいる。
「お肉がいいよね? すぐ用意する、待ってて」
ミハルはそう言って厨房へと戻る。ライニールのためにランチ用の肉を三切れも取り出し、支度を始めた。その様子をモナが隣で伺っている。ミハルとライニールを交互に見た後、閃いたとでも言うようにモナは胸元で小さく手を叩いた。
「てんちょ、モナわかっちゃいました」
「ん? なに?」
ミハルは包丁を握る手元に目を落としたまま、モナに聞き返す。ジットは新聞を読むふりをしながら、こちらの話に耳を傾けているようだ。
「あの人、てんちょのいい人でしょ?」
ミハルは手を止め顔を上げた。目を合わせるとモナは得意げな笑顔を見せている。
「いい人って?」
「もぅ、とぼけないで! てんちょって、そういうあざといところありますよねえ」
モナはそう言って口元をツンと尖らせながら、棚からトレイと皿を取り出して並べている。無意識にミハルの動きを先回りしてくれているのだ。こういうところは彼女の良いところと言える。
「恋人でしょ? 彼氏! lover……」
わざとらしく腰をクネクネさせながらモナが言う。小声だが狭い店だ。カウンターに座るジットには聞こえている。
ミハルは顔を上げてライニールを見た。彼にも聞こえているのか、あえてこちらを見ないように黙々とコーヒーカップを傾けている。
「恋人……どうかな?」
ミハルは少し意味深に呟き、息を漏らすように笑った。
「いやいや、絶対そうでしょ! あの人、狼の獣人ですよねえ?」
モナは食い下がった。獣人たちは三角耳や尻尾が生えているわけではなく、見た目は普通の人と殆ど同じだが、どの種族の獣人なのかは何となく感じ取ることができる。
「てんちょ、このお店、あの人の為のお店でしょ?」
モナの言葉はすでに確信を持っていた。モナとミハルがつけている黒地のエプロンには胸元に店名が刺繍してある。モナはそれをくっと掴んでミハルに向けると、指で差しながらこう言った。
「だって、お店の名前! これだもん」
ミハルは笑った。
向こうの席でライニールがフンと鼻を鳴らす。やはり聞こえていたようだ。
ミハルが構えたこの店の名前は「ウルフの食卓」、モナの言う通り、ライニールの為の店だった。
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