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ライニールは結局、ミハルが店の片付けを終えるのを隅の席に座って待っていた。
モナは「全然働いてないのに何だか申し訳ないなあ」などと言いつつも、賄いをデザートまでペロリとたいらげ、洗い物を済ませて既に帰宅している。
スタンド看板を仕舞い込んで扉に鍵をかけ、ミハルはライニールと連れ立ってハイデの街を歩いた。
まだ日が高く人通りも多い。今朝は強かった風もいつの間にかおさまって、薄手の上着一枚で過ごせるほどに心地の良い日差しが午後の街を照らしていた。
「5日間の間はずっとうちにいられるの?」
ミハルは肩に下げたベージュのキャンバスバッグの持ち手を握りしめ、自分の爪先に視線を落としながら隣を歩くライニールに尋ねた。
「ああ、幾つか顔を出さなきゃいけねえ場所はあるがな」
「そっか」
ミハルは下を向いたまま、口元に笑顔を作った。ライニールはミハルの表情を確かめるように、ほんの少し顔を傾け覗き込んでいる。
アパルトメントまでの坂の途中に、下の街並みを見下ろせるちょっとした広場がある。アンティーク調の街灯の下にブロンズのガーデンベンチが幾つか並べられた場所だ。その近くには画家や自作のアクセサリーを売ろうとする人が、シートを広げ自分の作品を並べていた。
「もうすぐ、終わる」
唐突に、ライニールが言った。ミハルは声に出さないまま疑問を表情に浮かべライニールの横顔を見上げる。
「もうすぐ、戦争が終わる」
ライニールはもう一度言った。
「ヒリスから手紙が来て、上級生が徴兵されたって」
ミハルは言った。ヒリスの手紙の内容を見て、ミハルは戦況が激化しているのだと思っていた。しかし、ライニールは頷きつつも言葉を続けた。
「詳しくは話せねえ。たが、次の作戦がこの戦争を終わらせる」
隣にいるミハルに話しながらも、ライニールの視線はどこか遠くを眺めていた。ここにはない何かに思いを馳せているようでもある。戦いに身を投じ続けるライニールの心情は計り知れない。そんな風に思った時、ミハルは激しい寂しさを感じる。
「店は、うまくいってねえのか」
「え?」
突然話題を変えたライニールに、ミハルは眉を上げた。
「ああ、お客さん少なかったよね、今日」
ミハルはまた視線を足元に戻して、少々自虐的に笑った。アパルトメントに向かっていた足を少しばかり広場に向ける。ライニールもミハルに続いた。
「少し前まではうまく行ってたんだけど、あの憲兵が言ってたような噂が広まってからは、お客さん減っちゃってね」
柵に手を置き、ミハルはハイデの街並みを見下ろした。微かな風が心地よく前髪を揺らしている。
「でも良かったよ。ウルフの食卓に狼さんが来てくれて。これであの店の本来の目的は達成できたかな」
言いながらミハルは振り返り、背中を柵に預けるように寄りかかった。ライニールが思いの外近くに立っていたので少々驚いたが、誤魔化すように軽くその腕を叩いた。
ライニールは黙ったままミハルを見下ろしている。しかし、少ししてから徐にミハルの体を抱き込むように腕を伸ばし、両手で柵を掴んだ。ライニールの大きな体のせいで、周りからはミハルの姿は見えていないだろう。ミハルのすぐ目の前にライニールの胸元があって、視線を上げると黒々とした双眸がミハルを見つめていた。
「ミハル」
「なに」
名を呼ばれ、ミハルの心臓は小さく跳ねた。しかしそれを悟られないように、落ち着いた声音で言葉を返した。
「戦いが終わったら、海の見える街にでも引っ越さねえか。そこでまた店をやりゃあいい」
「海?」
「店は、やりたくなきゃやらなくてもいい」
「海って、ライニールはお魚あんまり食べないじゃん」
「……じゃあ山だ」
とにかく一緒にいようと、ライニールは言っている。
ミハルはライニールの袖をそっと握り、息を漏らすように小さく笑った。その後で、ライニールの背後に視線を向ける。
そのミハルの仕草を察したのか、ライニールは静かに体をどかしてミハルの視線を追った。
「山はさ、登るより見る方が好きなんだよね。どんなに綺麗な山でも登ったら見えないでしょ?」
ミハルは絵を広げていた画家の前にかがみ込む。そして、そのうちの一枚を指差しライニールを振り返った。
「こんな感じのとこ」
それは風景画だった。
窓辺に赤や黄色の花台をあしらった温かみのある木造の建物の合間から、雪を被った綺麗な山脈がのぞいている。
「素敵な絵ですね」
ミハルはシートに胡座をかいていたこの絵の作者と思われる画家の男に笑いかけた。
「実際にある場所なんですよ、ずっと西に行った先にある町です」
画家の男の言葉にミハルはさらにその絵を覗き込んだ。ライニールは少しのあいだ黙っていたが、唐突に「いくらだ」と画家に尋ねた。
「え? ライニール、買うの?」
「気に入ったんだろ?」
「あ、うん」
こういう場所では値切るのが常套だが、ライニールは画家の言い値をすぐさま渡す。木製の額縁に入ったその絵を、ミハルは画家から受け取ると改めて自分の腕の中でそれを眺めた。
「ありがとう、ライニール」
「それ持っときゃ忘れねえだろ」
「え?」
「約束だ」
戦いが終わったら、綺麗な山の見える街で暮らそう。この絵にライニールからミハルへのそんなメッセージが込められた。
「うん、わかった。約束」
ミハルは絵を見つめながら、小さく笑った。
◇
夜に誰かの寝息が聞こえるのが、こんなにも心地の良い事だったのかと、ミハルは思った。
寝室にはナイトテーブルを挟んでベッドが三つ並んでいる。ヒリスがセントラルの魔法学校に行ってからは、ミハルは暫くこの部屋で一人で眠っていたのだ。
窓際の大きなベッドはライニール専用だ。少しだけ開いたロールカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。ミハルはその隣のベッドで寝返りを打ち、窓辺で眠るライニールを見た。彼は向こうを向いていているが、その肩が緩やかに上下している。
暫くぼんやりとその背中を眺めていた。しかし、少ししてライニールの唸り声が聞こえる。
戦いに身を投じた戦士や騎士は、しばしばその戦慄の記憶に苦しめられるようだ。後衛の魔法使い達と違い、戦士らは実際に前衛に立ち、時に残酷に相手の命を奪い、またそうしなければ自分や仲間の命が奪われて行くという極限状態に身を投じている。もちろん英雄ライニールもその一人だ。彼が悪夢に魘される姿を、ミハルもヒリスも何度も目にしていた。
ミハルはゆっくりと毛布をめくり、ベッドから起き上がった。ライニールの眠る隣に手を置き、横たえその背中にぴたりと体をつけると、ライニールの唸り声が収まり、その体がゆっくりと寝返りを打ってミハルを向いた。
ライニールは自らのかけていた毛布をめくり、分け合うようにミハルの体に掛ける。
「起こした?」
「いや、起きてた」
「嘘つき」
ミハルは笑った。
ライニールは笑わないまま、その月明かりを含んだ双眸でミハルを静かに見つめている。
ミハルはライニールの使う枕の端に頭を乗せた。その鼻先をライニールの顔に近づける。
睫毛が触れ合うほどまで寄って、やっとライニールがその手をミハルの背中に回した。唇が触れ合ったのはくすぐったいほど僅かだった。
「ミハル」
「うん?」
「愛してる」
ライニールの言葉にミハルは薄く息を吐いた。そしてもう一度顔を寄せて、今度はさっきよりも少しだけはっきりと唇を重ねる。
「ありがとう」
ゆっくりと離した口元でミハルは囁いた。
そしてライニールの顎の下に潜り込み、胸元に鼻先をくっつける。
「おやすみ、ライニール」
ライニールの手のひらが、そっとミハルの背中を撫でた。
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