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第1話

 「母さんさ、毎週電話してくんなって、何回言ったら分かってくれる 」 「そうは言ってもアンタまだ三十歳なんだから仕方ないでしょ。早く結婚してこっちに帰って来るのよ」 「ハイハイ。今、コンビニだから切るね」 「はいはい。おやす──」  スマホを軽くタップして電話を切った。母の葉子《ようこ》は子供の頃から俺の世話を焼くのが好きだった。子煩悩というか、今だに子離れできない母なのだ。藍沢拓也《あいざわたくや》はうんざりした顔つきで店内へと入る。中へ一歩足を踏み込んだ途端、眼鏡が気温差で曇った。店内をいつも通りのルートで巡回する。そしてお目当ての物を見つけては買い物かごへと次々と放り投げていく。このコンビニには毎日のようにお世話になっており、店員とも軽く挨拶する程度には、顔馴染みの店になっている。。新発売のビールのロング缶四本とカップ焼きそばと野菜サラダ。傍にいる青年に声を掛けた。 「景吾はどうする?いつものハイボールでいい? 俺ケーキも食べたい」 「拓也さぁ、いつも宅飲みで飽きたりしてない?こっちは金銭的に助かってる面もあるけど、たまには外食でもしようぜ」  肩までかかった綺麗な髪が印象的で、いかにもやんちゃぽい顔つきのこちらの青年も鼻歌交じりに同じく店内を物色している。 「俺は景吾と家で時間関係なくゆっくり飲みたいんだけどなぁ。今日はたまたま俺が残業で遅くなってコンビニ飯になっちゃってるけど。時間ある時、景吾がご飯作ってくれるじゃん。だから助かってるのはこっちの方」 「じゃあチキンも追加で。辛いやつ。それと俺もケーキ食う」    藍沢拓也と山田景吾《やまだけいご》はこれから拓也のマンションで宅飲みをする予定である。  コンビニ袋を両手に提げ、ここから徒歩三分のマンションへと向かう。季節はもう冬だ。海風が当たるこの港区のベイエリアは夜はかなり冷える。海風が顔に当たり、拓也の色白の肌がほんのり朱色に染まっていた。 「景吾、これ巻いとけよ」  拓也が景吾に首にかけていたマフラーを手渡す。 「だって、これお前のマフラーじゃん。だったらお前が巻いとけよ」 「だって別に寒くないし。景吾が風邪を引く方が俺は嫌なんだよ」 「……。よく分からないけど、ありがたく借りるか。まぁ、バカでも風邪は引くからなぁ」  受け取ったマフラーを大切そうに首に巻いた瞬間、ほんの僅かだが香水の甘い香りが鼻腔をくすぐった。いつも拓也が付けている香水だった。確かウッド系って言うんだっけ、この香り。  駅近で築浅の高層マンションの低層部分の一LDKに拓也は住んでいる。景吾はこのマンションを見上げながら俺の幼馴染ながら、洒落た所に住んでいるなぁと、毎回ここを訪れる度にため息を漏らすのであった。 「で、お前ん家の家賃っていくらなんだよ」 「それまた聞く? 何度聞かれても教えないけど」  拓也の勤める会社は社宅や独身寮があって、もちろんそこに破格の家賃で住むことも出来るのだが、拓也は一人暮らしをしている。表向きの理由は、プライバシーがどうたらっていうことらしい。まあ俺も一人暮らしの方が気楽だしな。気持ちは分からないでもない。  部屋に通されるとそこは毎度のことではあるのだが、ゴミの山があちこちに出来ていて、俺は三人掛けソファの上にやっと落ち着けそうな場所を作った。そこにさっきコンビニで調達したモノを並べていく。拓也はキッチンで飲み物を冷蔵庫に入れたり、グラスの準備をしている。いつも大体こんな感じだ。 「景吾、チリの出張で安いワイン買って来たんだけど開けちゃう?」 「そこは『安い』じゃなくて『美味しい』とかじゃねーの? 俺正直、ワインの味分かんねえけどさ、チリ産ワインに失礼な気がする。それに拓也はワイン弱いんだから、ちゃんぽん禁止な」 「え〜。せっかく景吾と開けるの楽しみにしてたのにな。あ、そういえばさ、景吾、今度の冬コミだけど表紙進んでる?」  拓也がゴミの山をどけてグラスとおつまみ類や氷をトレイに乗せて持ってきた。食べ物の消費期限が切れていないかチェックしてやるのが俺の役目だったりもする。拓也は家事全般が苦手で、すぐに食べ物を腐らせるので、たまにこうして見てやらねばならない。 「仕事は定時きっかりに最近終わるから、ボチボチ進んでるよ〜。もちろん今更変更なしだからな。俺も拓也みたいにもっと仕事してたくさん給料もらいたいよ」 「ふうん。ならさ、今の会社辞めて転職したら? 仕事なんてどうにかなるでしょ、だって景吾は優秀だから」  拓也はチーズを口に含みながら、そう簡単に言っちゃってくれてるけど。 「俺ってそんなに優秀じゃないと思うんだけど。世渡り苦手で拓也みたいに器用じゃないしさ」 「景吾自身が気付いてないだけで、十分優秀だよ。そう、芸術肌だと思うんだよね〜」  そうかなぁ……と真剣に考え込みながら、俺は手元のビール缶のプルタブを開けて、中身を勢いよく空になった拓也のグラスに注いでやる。酒に弱い拓也は既に楽しそうだ。その横顔を見て仕事の愚痴も吹き飛んでしまった。    二人は小学校から高校まで同じ学舎で過ごした。男子高時代は二人で文芸部に入ると放課後は小説や詩を書いて過ごした。拓也は主に創作小説を書いていた。俺はその隣でイラストを描くことが好きだった。絵のコンクールで文部大臣賞まで貰ったこともあったが、高校を卒業してからはあまり描かなくなった。その一方で拓也は社会人になってから一人で同人誌サークル『eufonia』を運営し、一人でひっそりと創作活動を続けているのだが、たまに俺に表紙のイラストや挿絵を描かせる。    大学はお互い別の道を歩んだ。拓也はアメリカの大学に進学し、卒業した後は丸の内にある財閥系の大手総合商社の営業マンとなって毎日夜遅くまで働いている。一方の俺は地元を離れ東京の文系の大学を出てから、バックパッカーで世界中をバイクで周った。見聞を広くしたつもりで帰ってきたはいいものの、ちょうど帰国したタイミングが就職氷河期だったため、就職先が全く決まらず、今の派遣先に就職が内定するまで一年もの時間を要した。そんな経緯があって俺は一流企業に正社員の総合職で入社した拓也に少し嫉妬していた。でもそれを口や態度で表したことは一度もない。    ビール特有のほろ苦い味が口の中に広がった。    二人での飲み会の翌週の平日。俺は派遣先である神保町近くにある大手総合商社にいた。派遣元の社長である大本喬太郎《おおもときょうたろう》が自ら赴き、派遣社員達に声を掛けていた。俺は大本にここに勤務するまでの準備期間、貿易実務の基礎や商社マンとは何たるか(今思えば説教のような口調と威圧感だった)をマンツーマンで、しかも大本の煙草の煙の充満する狭い個室の中で教わった。そしてようやく彼の元を離れたかと思えば、大本はこちらに足繁く赴き、今日もこうして一人一人に喝を入れていくのだ。この部署で働く社員の内の一割くらいが同じ派遣元の社員で、景吾以外は全員女性で構成されている。 「山田 」  大本に名前を呼ばれて心臓が跳ねた。オフィスのフロアの入り口のすぐ前に、打ち合わせをするための簡易スペースが幾つか並んでいる。その一角にある椅子に着席するよう大本に促される。 「お疲れ様です」  ぎこちない笑顔を作って挨拶をした。 「これは冬のボーナスや。来年の給料も十円上がるから期待しててな」 「ありがとうございます」 「最近、書類のチョンボが多いそうだが、ちゃんと仕事してくれてるか?」  大本の圧とでもいうのだろうか、威圧感がいつにも増していて、俺は思わず縮こまってしまう。 「すみません!。今後よく注意するようにしますので……」  大本の出身はどこかは分からないが、東北出身の俺には西の訛りっぽい、大本の言葉ががどうも苦手だったりする。俺の所属する自動車部ではいくつかの海外通貨を取り扱っているため、書類のミスはあまり良しとされない。入社前の面接で大本に俺の海外経験と語学力を買われ、応募者の百分の一の確率で入社できたラッキーボーイではあるのだが、俺は書類の作成といった事務的な作業が大の苦手であることが勤務してみて初めて分かったのだ。だが他に行く宛も無いので仕方なく今の職場で働いている。大本に軽くドヤされながらも、深く会釈し自分のデスクへと戻る足取りは重い。手には茶封筒が握られている。  デスクに戻りこっそり中身を見てみると、給与明細書が一枚入っていた。額面を確認し大きなため息をつくと封筒を引き出しに押し込み、トイレへと向かった。   『拓也は冬のボーナスいくらだった?』    拓也にショートメッセージを送ってみる。  数分後、既読がつきメッセージが届いた。 『九十万くらいかな?』    隣にはニッコリマークが添えられていた。拓也らしいな、と俺は思った。    拓也はメッセージを打ち込むとスマホを上着のポケットにしまい、今書き上げている契約書の仕上げに取り掛かる。拓也は丸の内にある勤務先の自社ビルのオフィスにいた。景吾と同じ業界にはいるものの、名の知れた大企業の正社員なので立場や給与体系、福利厚生なんかは同じ大企業に派遣で勤務している景吾と天と地ほどの差がある。 「藍沢くーん、ちょっと」  米田《こめだ》部長に呼び出され部長の隣に向かう。 「年末なんだけど、ちょっとケニアまで行ってくれないかな? 商談したい相手がいて、先方がどうしてもってね」 「 年末ですか。……分かりました」  『年末に出張が入ったから、同人誌即売会と年末年始の約束は無くなった。本当にごめん 』    何だよ、それ……。今日のボーナスの件といい、年末年始の件といい。楽しみにしていた約束がパーか……と景吾は一人ごちた。我ながらいい歳こいて子供じみているとは分かってはいるものの、心の底からがっかりした。自宅の最寄り駅である池袋まで満員に近い電車に左右に揺られていく。周りは静かで電車の走行音とアナウンス以外何も聞こえない。目を瞑り寝たフリをしてやり過ごす。拓也なんてアフリカでも南米でもどこでも行っちまえよ。一人前として仕事を任されてる拓也がめちゃくちゃ羨ましい。でも拓也の前では決して言葉や態度には出さない。出したらやっぱり幼馴染とは言え恥ずかしいし、そんな自分が惨めに思えると分かっていたから。他人との無意味な比較なんて止めだ。    景吾は駅から徒歩三十分のワンルームの古い二階建てアパートに住んでいる。決して快適で好立地とは言えないが、景吾のわずかな給料ではそこが限界であった。 「よし、気を取り直して今日はコンビニでおでんでも買うか。この気分じゃ自炊も面倒だしな」  池袋駅前は夜遅くまで喧騒に包まれるが、住宅地に一歩足を踏み入れば静寂そのものだ。駅前のコンビニで夕食を調達して、周囲を見回してみると夜空に雪が舞っていた。コンビニの街頭の下でスーツに身を包んだ若い男がスマホを片手に大声で誰かと話しているのが偶然耳に入った。何を話しているのかまでは詳しく聞こえないが何だか仕事の愚痴のようだった。しばらく興味半分で聞いていると 「派遣は甘えなんだよ」  そんな言葉が男の口から出てきた。景吾の体は激しく脈を打ち、この言葉が耳にまとわりついて離れようとしない。その男から距離を取ると、まるで怖いものから逃げるようにアパートの方へと早足で向かった。袋の中のおでんが無事であるかなんていまさら関係なかった。ただひたすら無心になって夜の住宅地を走る。    無心で走ってきたからアパートまで十分もかからなかったと思う。部屋に戻ると、部屋の前で寒そうに小刻みに震えている、見覚えのある男の姿があった。そこで拍子抜けしてしまった。 「年末の出張なんだけど、さっき課長に言って断って来た 」と拓也は寒そうに、そして嬉しそうに言った。 「……それって断って平気だったやつ? 」 「後輩が代わって行ってくれることになったから、年末年始は一緒に過ごせる。同人誌即売会にも出る」 「それならいいけど。早く部屋に入れよ。風邪引くぞ」 「お邪魔します。景吾のいい匂いがするね、この部屋。何の香りかな」 「ただの洗剤」  石油ストーブをつけ冷蔵庫から発泡酒を二本取り出して、一本を拓也に手渡す。 「「いただきます」」  まだ暖まっていない部屋で飲む発泡酒はただひたすらに冷たいだけではあったが、二人の周りだけはお互いの体温のせいか暖かい気がした。 「あのさー、仕事最近どう?景吾って何でも話してくれる割に仕事の話になると全然話してくれないから」 「……いや、ちゃんと遅刻しないで行ってるけど。それよりも拓也の方はボーナスの額、相変わらずすごいな。何に使うんだよ」 「うーん、コミケの印刷代とかかな。 毎回ギリギリで入稿するから結構お金かかちゃってて。まあそのくらいかな。貯金するの趣味だしね」 「ふうん……。拓也、お前何か言いたいことがあるなら率直に言えよ 」 「景吾は何か困ってない?」 「まぁな〜。正社員になりたくても今の会社は正社員登用が難しくてさ、ってそういう話でいいの?」 「うん、続けて。詳しく聞きたい」 「だから転職考えて資格の勉強でもしようかなんて考えてたりして。バックパッカーなんかに憧れて海外に飛び出して行っても、帰ってきて職が無いとか正直笑えねえよな……。惨め過ぎて泣けてくるよ。なぁ、拓也もそう思ってんだろ。やっぱり派遣って甘えって言うか、そう思うか?」  アルコールのせいか、つい本音がポロリと溢れてしまった。さっきまでは明るく前向きでいようと思ったのに。 「え?え?俺は全然そんなこと思ってないよ。景吾は顔もかっこよくて、明るくて人、そう、お年寄りとかに特に親切で、めちゃくちゃ絵も料理も上手くてかっこいい。人間性に派遣だとか正社員だなんて全然関係ないよ」  二人の間にしばし沈黙が流れた。俺はついさっきまで今の自分が許せなくて、拓也と自分を比べて惨めでいたけど、拓也のいつもの明るさで少し肩の荷が降りた気がした。でももう少しだけ今の環境で頑張ってみるか。二人は肩を寄せ合い布団を被りそのまま眠りについた。    ピピピピピ……。拓也のスマホから起床のアラームが鳴った。隣で涎を垂らしながら寝ている景吾を起こさないようにして、拓也はそっとアパートを出た。始発に乗って帰ろう。池袋駅へ足を向けた。地下鉄と電車を乗り継いで自宅マンションに着くと風呂場へと向かった。シャツや下着を脱ぎ捨て、ドラム式洗濯機へ乱暴に放り込むと、熱めのお湯でシャワーを頭から浴びながら、昨晩の景吾の姿を反芻して何度か手で扱いた。硬くなったアソコはすぐに勃ち上がり、数分もしない内に拓也は射精した。  「今日から業務部から自動車部の係長に着任した、大石です。よろしくお願いします」  景吾の直属の上司が出世し、空いた席に大《おお》|石《いし》|健一《けんいち》がやってきた。見た目からすると四十代半ばくらいでふくよかな体型をしていた。挨拶もそこそこに俺は大石にパーテーションに来るよう呼ばれていた。 「初めまして、山田景吾です。これからお世話になります」 「君と僕とでサウジアラビアの新規案件を担当する事になったから、よろしくね。そんなに緊張しなくていからね山田くん」  大石がやや黄ばんだ歯を見せて笑った。なんか嫌だなと思った。ミスは大本喬太郎の元へ筒抜けなのだから、うまく立ち振る回らなければと自分を奮い立たせると突然、デスクで書類の雪崩が起きている隣の席の営業担当(つまりは景吾の上司)の辻裕樹《つじゆうき》が低い声で話しかけて来た。 「新しい係長だけど事業部の方で、問題児だったらしいよ。山田さんも気を付けてね」 「あ、ハイ……」  辻は髭は濃いが目鼻立ちがはっきりしていて、女性社員に人気がある。これは辻に限った話ではない。同じ島にいる営業の小川さんも見た目は平均以上。そして女子社員のレベルも段違いであった。経理部でいつも電話越しに話している相手が実は読者モデルだったとか、よくある商社あるあるだ。ルックスだけで言えば景吾も負けてはいないのだが本人はそれに気付いていない。商社はルックスも入社の際の審査基準になると、勤務してみて初めて知った事実の一つでもあった。それにしても大石さんが問題児ってどういう事なんだろう。一見普通に見えたけど。    拓也はオフィスの廊下で何人かの女性社員に囲まれていた。 「藍沢さん?ちゃんと聞いてる?」 「佐伯さん達ごめんね。ちょっと考え事してた」 「来週の忘年会なんですが、本当に欠席なんですか? みんな藍沢さんと飲みたがってますよー」 「うん、ごめんね。また来年ということで。新年会にはちゃんと出るから、ね? 」 「ところで、藍沢さんって彼女さんいるんですか?」 「絶対いるよー」 「いいなぁ、その彼女。藍沢さんって仕事出来るし、眼鏡男子だし」 「彼女はいないけど、好きな人はいるよ。ずっと片思いだけどね」  普通の男なら嬉しいシチュエーションには違いないが、男が好きな、いや正確には景吾が好きな拓也にとっては面倒なことこの上無かった。適度に会話を楽しんでいるフリをしつつ、女性軍から距離を取りながらスマホを取り出して素早くメッセージを打つ。もちろん相手は景吾である。  『来週の金曜日、泊まりがけで家に行ってもいい? 』    胸ポケットに入っているスマホが鳴った。俺に連絡を寄越すのは拓也くらいだ。電話帳に登録してある連絡先も十件くらいしかない。確認してみると案の定、拓也だった。ポケットに素早くスマホを仕舞ったタイミングで係長の大石から呼び出された。 「来週からサウジ行ってくるから仕事進めてやっといて。連絡は基本メールでして」 「あ、はあ……。指示書などはないんでしょうか? 」 「……分からないところは辻くんに聞いて」 「分かりました」    景吾は貿易事務という専門職をずっとやっている。この職についている人の大半は女性の事務職か非正規の派遣社員だ。貿易のスペシャリストなどと貿易実務などの実務書には謳われているが、英語のスキルが少しあれば誰にでも出来る、ただの事務職であると景吾は思っていた。一方で毎月海外出張へ行く辻や大石、そして拓也の側に行きたいといつも思っていた。辻と景吾のデスクは隣り合ってはいるがそこには見えない大きな壁があって、今の自分の力ではあちら側へ行くことが出来ないことを景吾は知っている。入社の時点でそれは決まっていたことも。当時、派遣社員で働くという選択肢しか得られなかった俺は、彼らを指を加えていて見ているしかなかった。運がなかったのだ。    翌週の金曜日は拓也が俺の部屋にくる日だ。簡単に掃除をして待つ。上司の大石も出張で不在。そのため定時上がりの景吾はトイレや居間兼寝室を軽く掃除して、拓也を待つ。宅配ピザでも準備しておいた方がよかったんだろうか。そもそも飯食ってくるのかなアイツ。  『ピンポーン』    玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けるとコンビニの袋を両手に引っ提げた拓也がいつも通りの笑顔で立っていた。 「部屋が冷えるから、早く入って」 「お邪魔します。ふー。相変わらず寒いねー、この部屋は。ウチに引っ越してくる気ない?」  曇った眼鏡をクロスで拭く。 「も〜贅沢言うなよ。俺は池袋という街が好きなんだ」 「あ、そうだ。実は今日会社の忘年会があったんだけど、部長たちは毎週他の部署の女の子達と合コンごっこみたいなのしてるし、ホント体育会系にはついていけないよね」 「そんなのはいいんだけど、今日は泊まりがけで何するつもり?」 「この時期だから決まってるじゃん、同人誌を一緒に作る。でも新刊落としちゃったから、今回はコピー本作ろうと思って。もちろん景吾は手伝ってくれるよね? 」 「はあ?俺の表紙もうほとんど出来てたんだけど? 」 「本番まであと十日はある。持つべきものは親友だね!はい、差し入れの缶チューハイと好物の唐揚げ弁当」と拓也が袋を差し出す。持参してきたコンビニの袋にはぎっしり酒類、つまみ、弁当、それと元気を前借りする系の栄養ドリンクが詰め込まれていた。  作業を始めること三十分。ちゃぶ台にノートパソコンを置き、ワイシャツの袖を捲りながら、小説のプロットを練る拓也の姿がいかにも仕事が出来そうなヤツだな、と思った。こんな高スペックイケメンがいたら会社で女子社員が放って置かないだろうなぁ。またイヤミだな、俺。男の俺も見入ってしまうほど、普段の拓也からは考えられないくらい、机に向かう姿はかっこよく見えた。  拓也の書く小説や詩はいかにも文学って感じで小難しいから、俺にはよく分からない。それもあいつらしいというか。あいつらしいと言えば、いつも笑顔だけど何を考えてるかも分からない、いわば天然とでも言うのだろうか。俺でも行動が読めない時が多々ある。今日だって急に押しかけて来るし。まぁ、俺はいつも暇だからいいけどさ。 「今更なんだけど、景吾はプロットありと無しどっちの方が面白いと思う?」 「有名作家でもプロット無しで書き始めるくらいだから、個人の好みじゃないのかなー。読むだけで書かない俺には分からないけど」  俺は拓也が書いた原稿に校正する役らしい。割と重要な役割である。今は拓也の正面に座して、黙々と唐揚げ弁当を食べながら拓也の作業の様子を眺めている。  今回のコピー本は、経済格差があるサラリーマン二人組の恋物語のショートショートらしい。拓也にしては珍しい久しぶりのBL小説だ。    拓也は男が好きな性癖を持っている。それを俺が初めて知ったのは社会人になってからで、初めての高校の同窓会の席だった。酔っ払った拓也がポロリと零したのがきっかけだった。近くに他の人はいなかったから俺しかそれを知らないと思う。でもなんとなくだけど、学生時代から薄々気付いていたから、特別驚きはしなかった。世界中で色んな人種を見てきた俺にとってはそれは些細な情報の一つにしか過ぎず、それで拓也と距離を置くとかもしなかった。拓也は俺の唯一の親友だと今も思っている。だから今回のように拓也の書く文章の校正を任せてもらえて少し嬉しかったりする。それに第一の読者が俺っていうところも悪い気はしない。   「ねえねえ、景吾」 「いきなり何だよ。終わったのか? それと、いつも景吾、景吾うるさいぞ」 「ダメだ。全然」拓也はケラケラと笑って見せた。 「景吾は好きな人いる? 」 「お前こそ実はいたりして。でもこういう小説書いてるってバレたらドン引きされる案件だと思う、俺」 「俺、前に言ったよね。女の子に興味ないっていう話。バレンタインとかマジで無くなればいいと思う」 「ふうん、やっぱモテるやつは言うことが違うな。やっぱお前の性癖、昔から知ってたけど相変わらず気持ち悪いな。まぁ今どき性別にこだわるっつーのも変だけどな」  スマホのホーム画面の時計は既に深夜二時を指していた。    そして時は忙しなく流れ、十二月三十日。二人は同人誌即売会の会場にいるはずが、なぜか東北のとある温泉街にいた。 「コピー本まで落として、どうして温泉に行くんだよ」 「クリスマスにも国内出張入っちゃって、新幹線でも寝ている課長の隣で執筆頑張ったんだけど……。悪い。結局落とした。手伝ってもらったのにごめん」 「でもさ、年末の高くて、予約が取れなさそうな日程で温泉旅館なんて……。もちろん割り勘だからな!」 「でもたまにはこういうのもいいよね。景吾と付き合い長いけど、こういう事した事なかったし。 楽しみだな、温泉。部屋に露天風呂付きだし。今日と明日は贅沢しようよ」 「ていうか拓也、昼間から飲み過ぎじゃね? 運転手の俺に悪いとか、ちょっと遠慮するとか一切なしなわけ? 」 「だって景吾と一緒で楽しいから」  二人とも年末年始の休暇の日程が今年も重なって、同じ新幹線で地元に帰り、今日は年末を温泉旅館で過ごしたいという、拓也の希望から二人は温泉旅館に泊まりに行くこととなった。  地元の駅前でレンタカーを借り、高速で約一時間くらいで温泉地に到着。温泉街を見学して周り、町の中華屋で拓也は昼間から運転手の俺お構いなしに、ビールを飲みながら、焼きたての餃子や回鍋肉を口に運んで幸せそうにふにゃふにゃしている。  温泉街から宿泊する宿までは少し距離があるのでどうしても車移動に頼ってしまう。拓也は運動音痴が功を奏して、ペーパードライバーなので、運転手は必然的に俺だ。ちなみに運動神経も拓也と違っていい方だ。  拓也が優雅に食後のお茶を啜っていたら、チェックインの時間になるところだった。 「ちょっと早いけど行くか、拓也」 「ははっ、景吾はせっかちだなぁ」 「少しでも早く行って旅館を楽しんで何が悪いんだよ」  今日は普段泊まらないような高級旅館に泊まるので、景吾は少し緊張していた。その様子を楽しげに観察する拓也。

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