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【番外編】スピカの後味⑩
「へー。ほんとに行ったんだ、鉄板焼」
コンビニで買ったメロンパンを齧りながら、国枝は感心したように言った。
「はい。国枝さんのおかげで迷うことなく」
「あらそう? 美味かった?」
「はい、庄助も喜んでました」
景虎の短い返事に被せるように、動物の断続的な鳴き声が柵の向こうから聞こえてくる。
養豚場に限らず牧場というのは不思議なもので、産まれた命を育てる場所でありながら、ずっと死の匂いが漂っている。
しかし屠殺は遠く離れた別の場所でやるのだから、堆肥の臭気がそう思わせるのかもしれない。微生物が藁や落ち葉や糞を分解して、そして発酵してゆく、生命のサイクルの匂いだ。
ここにいる動物たちは決して外敵に襲われたりはしないけれど、生まれてからずっと死の匂いの中で生活している。
こんな中で何かを食べる気にはならないというのが普通の感覚だろうが、死の匂いに慣れた二人のヤクザには、あまり関係のないことだった。
牧場の管理人が持ってきたぺしゃんこの座布団を、古いベンチに敷いて腰掛け、豚でもなく景色でもなくを見ている。
二人でこうしていると、タワーマンションで賭博で借金を作った客を待ち伏せたことを思い出してしまう。
小屋から少し離れた木製の囲いの中、十数匹の豚が食後の運動のために移動させられてきた。いずれの個体も薄汚れている。
景虎は、国枝から手渡されたこしあんのパンを開封し、一口齧った。ただ甘ったるいだけの安いパンは、昔母親と住んでいた家を思い起こさせる。
安心する味だ。自分はまだあのクソみたいな時間に囚われたまま、抜け出せずにいるのだと感じさせてくれる。嫌と言うほどに。
空は果てなく青く、高かった。山手の牧場は比較的涼しく、酷暑がさも落ち着いたかのように錯覚させられる。
景虎は二人の間に置いたビニール袋から、無糖の缶コーヒーに口をつけて、口の中のパンを飲み込んだ。
「俺、味がわかるんです。最近」
「味? なんの話?」
「食べ物の。前までは、何というか……甘いとか辛いとかがある程度わかって、食あたりにならなければそれでよかったんですけど……」
考え込むように眉をしかめた。家で飲む粉のコーヒー、店で飲む淹れたてのコーヒー、コンビニの缶コーヒー、どれも同じコーヒーなのに、別物だと気づいたのは最近のことだ。
「会食で同じようなものを食べても、美味いと思えなかった。でも、庄助と食べたコース料理は美味かったんです」
「え、味覚障害の話かと思ったら、ノロケ?」
「そうなんですか?」
心底意外だという顔を、国枝は引っぱたきたいと思った。
発する言葉の半分以上が計算ずくな国枝からすると、景虎の無自覚に人の心を抉るような発言は、なかなかに鼻持ちならない。金持ちの家の子に「パンに塗るのってバターじゃないの? え、マー……ガリン?」と言われるあの感じに似ている。
「冷酷無比な“織原の虎”がここまで変わっちゃうなんてね。ほんと、庄助はジョーカーだ」
矢野をはじめ国枝や他の人間が長年、あの手この手で絆そうと思ってできなかった景虎を、庄助は短期間でここまで心開かせてみせた。
きっと根っからのヤクザ者や、まったくのカタギにはできなかったことなのかもしれない。
庄助だから。
悪に憧れながらも善を為したがる、てんで自分勝手なクソガキで、どちらにも染まらない庄助だからできることなのかもしれない。
「ジョーカーですか……? 庄助が?」
長い睫毛が戸惑うように伏せられる。まだずっと小さな頃、細くて美しい少女のようだった彼の面影は、まだ目元に残っている。
なまじその頃の景虎を知っているだけに湧く情が余計なものなのだということも、国枝は解っていた。
「そ。可愛がるのはいいけど、せいぜい気をつけなよ。庄助はバカだけど、弱っちい女子供じゃない……だからこそ、だよ。景虎は、ジョーカーを持ったままアガれるかな」
老婆心と少しの挑発。これくらいはいいだろう、同じ釜の飯を食って、同じ人間の肉を刻んだのだから。国枝は自分を大人げないと感じる。それと同時に、まともな大人の存在が幻想だということも、身を持って知っている。
「……ご心配、いたみいります」
食べ終わってしまったパンの代わりに、国枝はタバコを取り出した。何も言わずとも、景虎はいつも火をつけてくれる。
安っぽい百円ライターの炎が、先端の草を燃やす。この前、庄助とやった花火のときに使ったものを、そのまま持っている。
日常の様々などうでもいいものに、思い出という名の魂が宿ること。それを愛と呼ぶのだと、景虎はわかってしまった。
「景虎は、俺と一緒に死んでくれると思ってたのにな〜」
「……ふ、ご冗談を」
重たい愛の告白のような言葉に、景虎は思わず吹き出した。
「ほんと薄情だよねえ。長い付き合いなんだし、一緒に豚の餌になってくれてもよくない?」
「お言葉ですが、豚の味覚は人間よりもずっと上なんです。俺の筋肉だらけの身体が美味いとは思えません、豚がかわいそうだ。そうだ、トリュフを探す豚は有名ですが、あれはメスの豚がオスの匂いに似た……」
「わ〜、わかった。俺が悪かったよ」
くだらない話を振ったことを後悔した国枝は、お手上げとばかりに両手をひらひらと振った。
都会の喧騒を忘れるような広い空間に、無粋な呼び出し音は鳴る。どこからかの電話を受けて、悪者は棲家 に帰る時間だよと国枝が言う。
相変わらず明るい空に、生命のめぐる臭気は漂っている。
味噌漬けの、焼くだけの豚肉でも買って帰ろうか。泥浴びをする豚を横目に見ながら、景虎は庄助とともに食べるであろう今日の晩飯のことを考えた。
雨だろうが晴天だろうが、すぐそばに死があって当たり前の世界に、彼らも豚たちも生きていた。どちらも等しく飼い殺しの命だ。
〈終〉
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