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第21話
昼休み、岳の教室に行く途中で、校舎のどこからか漂ってくる甘い香りが七凪の鼻先をかすめた。
近くに家庭科室がるので、授業でお菓子でも焼いているのかも知れない。家でときどき母がクッキーを焼いてくれるが、それと似た香りだった。
神社で初めてキスをしてから、岳の顔が眩しくてたまらない。
“岳”と名前が頭に浮かんだだけで、体温が一度、上がる。
岳に微笑まれようものなら、心臓が喉元までジャンプする。
七凪の意志など存在しないような身体の反応に、七凪はいつも戸惑う。
岳は七凪を見つけるとすぐに教室から出てきた。
朝も一緒に登校し、たった数時間離れていただけなのに、岳は七凪に会いたくて仕方なかったというような顔をして七凪を見る。
でもそれは七凪も同じだった。
二人で購買部にパンを買いに行っていると、一年生の女子二人組に呼び止められた。
小柄で髪を蝶々のピンで留めた女の子の方は異常に緊張していて、ショートヘアーでいかにも運動部です風情の子の方は、まるで重大な任務を背負っているかのように気負って見えた。
七凪はピンときた。
この感じは岳への告白だ。小柄で緊張している子が岳のことが好きなのだ。
今まで何度か同じような場面に遭遇したことのある七凪にはすぐに分かる。
嫌な感じに胸がざらつく。
不安、焦り、岳は自分のものだと言いたいのに、それができないもどかしさ。
かといってずっと七凪が岳の横にへばりついているわけにもいかないので、七凪はどうにか気持ちに折り合いをつける。
「俺、先に購買部行っとくな」
その場を立ち去ろうとすると、
「先輩待って!」
と、呼び止められる。
えっ! お、俺!?
いや、待て待て早まるな、このパターンも何度か経験したことがある。
手紙やプレゼントを岳に渡して欲しいと頼まれるやつだ。
「あの、岳が目の前にいるんだから、わざわざ俺を通さずに、直接本人に渡した方がいいよ」
一瞬二人は訳が分からないといったような顔をしたが、小柄な子の顔がぐにゃりと歪んだ。
「ひどい!」
そう言ったのは運動部の子で、小柄な子は無言で七凪の胸にドンと何かを突きつけてきた。
「これ、家庭科の授業で焼いたカップケーキです。食べてください」
何が起きているかよく分からない七凪は、とりあえず胸の包み紙を受け取る。
それはほのかにまだ温かかった。
「え、ええっと……、とりあえず、ありがとう。でもなんで?」
彼女はこれ以上ないというほど傷ついた顔をし、そしてうつむいてしまった。
前髪にとまった蝶々のヘアピンが小刻みに震えている。
「……せ、先輩……好きです」
聞き取れるか取れないかほどの小さな声だった。まるで髪の蝶々に告白されているようだった。
ここでようやく七凪は事態を把握した。
自分は今、女の子に告白されているのだ。男ではなく女の子に。
「へ、返事は……できたらでいいです」
そう言うと、彼女は逃げるように行ってしまった。
その子の後に続こうとした運動部の子が七凪を振り返る。
「あの先輩、もし今付き合ってる人とか、好きな人がいないんだったら、いい返事してもらえませんか? あの子、中学の時、先輩を電車の中で見て一目惚れして、まるで少女漫画から抜け出たような王子様がいたって、それでこの高校を受験したんです。もう二年も先輩に片想いしてるんです。夢見がちで天然なとこありますけど、今どきいないくらい純粋でいい子なんです。お願いします」
彼女は深く七凪に一礼すると駆けて行った。
岳と二人きりになると、なんとも言えない気まずさに包まれる。
「少女漫画の王子様だって、ちょっと美化しすぎじゃね?」
七凪はおどけた調子で岳の笑いを誘ったが、岳はその端正な顔立ちを微塵にも崩さなかった。
それがますます岳の男前ぶりを上げていて、切れそうなほどだった。
それが七凪を急に不安にさせる。
「あの……、分かってると思うけど、俺、あの子と付き合ったりしないから」
「行こっか、パンがなくなる」
「え、あ、ああ」
先に歩き出した岳を七凪は追いかけた。
岳はそれからも、一度もこの話題について触れようとしなかった。
そしてその日、岳は一度も笑わなかった。
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