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第1話 ピアスと指輪

 夕暮れの喧騒の中を、柔らかいオレンジ色の光に顔を染めた人々が行き交う。その時間は短く、すぐに空は濃い藍色から黒へと移り変わっていく。 「はい、オールソーツ 店長の市木です」  いつもであればこの時間は店の中は閑散としていて、カフェからダイニングバーへと変貌するための準備がされている。  そして、この時間は予約の確認や仕入れの手配と言う外部との連絡を主にすることが多い。俺は店長としてその通常業務をこなしながら、今日の予約のための準備に追われていた。  今日はサトルと優希が婚約披露のパーティーをするので、カフェタイム終了後には近しい人間だけで準備を始める。二人が挨拶をする以外には特に何かをする予定もなく、ただ集まってくれた人たちに感謝を伝える場にしたいという。  そのため、料理や酒類は各人の好みを聞いて用意されており、店側の対応もなかなか大変なものとなった。それでも俺の幼馴染である優希と大学の先輩であるサトルのために、この一ヶ月ほど出来る限りに奮闘した。  俺はこの店の雇われ店長だ。  店の名前は「cafe all sorts -Day & Night-」と言う。  オーナーがこの名前にしたのには、深い思い入れがあってのことだ。カフェタイムの店長をやってくれないかと頼まれた時にそのコンセプトを聞いて、是非やらせて下さいと飛びついた。  それを知ってか知らずか、色んなタイプの人が昼夜問わず出入りする交流の場として育って来つつある。  サトルが優希とのパーティーにこの店を選んだのも、そのコンセプトを気に入って通っていたからだと言っていた。 「はい優希、アイスコーヒー。いつも通り、ブラックね。もう胃の調子は大丈なのか? ガムシロいる? 甘い方が少しは胃が痛くなるの抑えられない?」  正装してカウンターにちょこんと座る優希の前に、グラスに並々と注いだ淹れたてのアイスコーヒーを出す。  ふわふわで、くるくるで、淡い綿菓子のような髪型の優希は、その白い頬をうっすらと赤く染めながら、ふわりと笑った。 「わーい、たっぷりだ。サンキュー、葵。ガムシロ無くていいよー」  顔が半分くらい隠れるほどの大きな黒縁メガネをかけている優希は、その奥にいつもぼんやり夢を見ているような目を隠している。  色々と大変なことが多かった人生が彼の目をそうさせたのだが、コーヒーの香りに包まれた途端にその目は幸せそうに輝いた。 「んー、美味しいね。淹れたてはアイスでも香りが抜けるのがいいよね。それに豆の味もしっかりする。そしてここはそんなにお高くない。葵のコーヒーは最高だ」  そう言って「ふふふ」と笑った。  こんなにふわふわで穏やかで可愛らしいけれど、意外にも仕事が出来る編集者としてバリバリ働いている。  ガツガツしている素振りが見えないにも関わらず、仕事は誰よりも早く、やる気に満ちているのだと別の常連さんから聞いた。  長年ヒットし続けている作品の編集としてここ数年携わって来たのだが、さらに売り上げを伸ばしたりしているのだという。  ただ、ここへ来てなぜか上層部がそのシリーズを終了させようとしていて、会社と作家で揉め始めているのだと嘆いていた。  優希は板挟みにあっていて、そのせいで最近は胃を痛めているらしい。 「仕事どう? 打ち切りの話は決着した?」 「んー、いや、まだなんだ。やっぱり長い間やってたヒット作を打ち切られるのって、嫌なんだろうし……。胃は痛い。痛いけど、ガムシロの暴力的な甘さがどうにも苦手だから、ブラックでゆっくり飲んでおくよ」 「あ、じゃあさっきリョウがクッキー焼いてくれてたから、それ貰ってくるよ。ちょっと待ってて」  ブラックコーヒーをそのまま飲むよりは、少量でも何か食べながらのほうが胃の負担にはならないだろう。俺はリョウが準備していたパーティー用のスイーツのカゴからクッキーを数枚貰おうと、バックヤードへと入っていった。    スタッフのリョウは、俺が未成年後見人をしている男子中学生。小さい頃から両親ともにネグレクト気味で、隣に住んでいた優希がずっと一人で世話をしていた。  十歳まではその生活で、それ以降は俺と共に俺の所有するマンションで暮らしている。  ご両親は健在で、リョウを疎ましがっていたり、嫌っていたりはしていない。  ただ、その分自分たちが育児放棄をしている自覚もない。そのため俺から連絡を取っても何の躊躇いもなくいつも応えてくれる。  ある意味、子供を憎んでいる親よりも厄介な人たちだ。  単純に子供のそばにいようとしないので、未成年後見人制度を利用して俺が引き取った。  リョウも両親に特に悪い感情は抱いていないようで、時々実家に顔を出しては近況報告をしている。  家事全般が得意な子で、特に料理が上手。  客に出すものは責任が伴うため作らせるわけにはいかないのだが、今日は友人の集いなのでリョウにスイーツを担当してもらっている。 「リョウ、さっき作ってたクッキー何枚か優希に出してもいい?」 「はい、どうぞ。カゴにはもう詰めましたから、残りは食べてもらっても大丈夫です」 「サンキュー」と言いながらカウンターに戻ろうとしていたところ、店の電話が鳴り始めた。 「はい。オールソーツです」  リョウが電話に出てくれたので、俺はスッと手を上げてお礼をした。  この時間に電話がかかってくるのはよくあることだ。そう思ってそのままその場を後にしようとしていると、「はい? ちょっと意味が……もう一度お願いできますか?」とリョウがやや困惑している。 ——なんだ? リョウが慌てるって珍しいな。  そう思いつつ、優希を待たせているので、俺はそのまま店内へと戻った。カウンターに戻り、小皿にクッキーを入れ替えて優希に渡す。 「はい、どーぞ……おい、何だそれは」  正面を向いて驚いた。そこには、真っ白なタキシードに大きく茶色いシミを作った優希がいた。そのシミを見つめたまま硬直している。 「あらららら。こぼしたのかー、そりゃちょっと今から着るにはマズいかな……」  俺が心配して覗き込むと、優希は困った顔で笑いながら首を傾げた。  こいつは意外と雑な性格をしている。おそらくコーヒーのシミ一つくらいあってもどうということは無いとでも思っているのだろう。  でも、間違いなくサトルは気にするだろう。「ハレの日に茶色いシミなんて!」と言っている顔が思い浮かぶ。そして、どうやら優希も同じことを考えているようで、軽く吹き出していた。 「僕は気にならないけど、サトルは気にするだろうな。どうしよう」  サトルはいつもキッチリしていて、清潔で折り目正しい。自分にはいつも完璧を求めているような生き方をしている。  だが、優希には酷く優しい。どこにいても優希を甘やかしているので、幼馴染の俺は少し心配になる。あのままだと優希はダメになるんじゃ無いだろうかと思ったこともあるのだが、サトル曰く「それでも足りていないほどに優希は可愛くて仕方がない」のだそうだ。 「まあでも、今更慌ててもねえ。幸い、汚れたのはジャケットだけだから。気になるようならベストでいいでしょ」  優希はそう言って、クッキーを口に放り込んだ。 「わあ、美味しい。リョウってすごいね」 「お前が色々教えてあげたからだろ?」 「あ、そっか」と言いながら笑う優希は、とても幸せそうだった。    ふと見ると、耳朶を指で擦りながらニコニコしている。触れているそこには、大きめのダイヤモンドがついたピアスが光っていた。  これはアクセサリーではなく、優希に義務付けられた治療器具だ。いつでもつけていられるように、ピアス型をしている。  そして、この治療を始めたことでサトルと優希は知り合ったため、ある意味記念の品でもある。 「優希、最近よくそうやって耳朶触ってるよな。前はそんなクセなかっただろ? サトルの影響?」  揶揄うようにそう声をかけると、我に返った優希はかかっと頬を紅潮させた。 「そ、そうかもしれない。いつも触ってくれる手が気持ちよくてさ……。サトルのこと考えてるちやってるみたいなんだよね」 「何だそれ。なんかやらしいな」俺のその言葉に「そっ、そんなこと……無くはない」と照れていく。「恥ずかしい!」と言いながらカウンターに突っ伏して「もう言わない」と拗ねてしまった。  実のところ、俺はそんな優希を見て安心していた。昔は耳を触ることなんて全く無かったように思う。それどころか、いるのかいないのかわからないほどに気配を消すことに集中しているようなところがあった。  リョウを育てていた優希自身は、長年酷いDVにあっていた。それは壮絶な生活だった。  あざがあるのは当たり前、数日食べることも飲むことも出来ない、親は優希に声をかけるどころか顔を見せることもほとんど無いような生活をしていた。    リョウと優希の決定的な違いは、リョウには気がついて助けてくれる人がいたと言うことだ。  俺は優希の問題に気がついてあげられたけれど、助けてあげることはできなかった。性格にいうと助けてあげることは後々出来た。ただ、子供の頃に否定された人間はなかなか変われない。優希には自己否定の激しいところがあり、そこから助け出すことは俺には結局出来なかった。  高校まで、息を潜めて暮らしていた。その頃は自分の病とも戦っていた頃で、辛いことが重なり、覚えていることがほとんどない無いと言っている。 「そんなクセが人前でも自然に出てしまうくらい、今は幸せだってことだ」  俺は今度は揶揄わずに、本当に心からそう思って優希に訊いた。「そうだね。全部サトルのおかげだよ」と幸せそうに優希は答えた。  時計が十八時を告げようとしている。そろそろサトルを迎えようと、俺はエプロンを外した。  サトルに正装をさせたところ、いつもとのギャップが激しく、これはいいサプライズになりそうだということで、後から店に入ってくるようにした。  優希がサトルを店の裏に待機させ、五分後に入って来てと言っておいたはずだ。それにしては、一向にこちらへ来る気配がない。 「サトル少し遅い気がするな。もう十五分以上経ってない?」  そう訝しんでいると、バックヤードから真っ青な顔をしたリョウが、大声で俺の名前を呼びながら出てきた。 「あ、葵さん! 電話……救急からです! サトルさんが刺されて、救急に連絡があったって。今救急隊の人が来てます! 店の裏で、ミドリと一緒に倒れてるって……ミドリが店のエプロンしてるから、ここにかけてきたみたいで……どうしよう、俺……ミドリ……」 「お、落ち着け」  俺は何とかリョウにそう声をかけた。そうは言いつつ、自分も落ち着いてなどいられない。  ミドリはリョウの彼女だ。そして、優希に育てられていたもう一人の子供でもある。今は俺とリョウの家の隣の部屋に住んでいる。  ミドリの母もネグレクト気味だったため、十歳まで優希に育てられ、その後はリョウと一緒にこの店に居場所を作った。  正式な手続きはしていないが、優希から引き継いでからは、ミドリも俺が面倒を見ている。 「サトルさんが遅いから見に行くって言ってて、一人で出ちゃって……どうしよう」  自分の判断が間違っていたと狼狽えているリョウを宥めつつ、それでもなお、リョウが言っている言葉の意味が理解できない。 「リョウ、落ち着いて。 サトルとミドリがなに?」  リョウは、詳細を説明しようとしたが、うまく言葉にならない。カタカタと震える唇を半開きにしたまま俺を見つめ、話そうとするが、その口が言葉を発する事は出来ていない。  そして、何かを思い出した様にハッとして、カウンターの向こうにいる優希を見た。リョウに見つめられた優希は、一瞬ビクッと反応した。その目が、一瞬にして闇に落ちそうになるのを、俺は見た。 「優希? 大丈夫か?」  以前教えてくれた、「黒い感情が湧き上がっている」のが側から見てもわかってしまった。そして今、それと葛藤している。自分で自分を制御するために、必死になっている。  ピクリと指先が動いた。行動抑制が起きている印だ。  優希の薬指に光る指輪からは、この黒い感情が巻き起こると等間隔で痛みが襲ってくる仕様になっている。そしてそれは、次第に強さを増していく。  黒い汚物に潰されそうになった優希の心を、コントロールするための命綱が働いていた。  何度目かの電撃痛でハッと我に帰った優希は、コーヒーの染みを見つめながら、すっと立ち上がった。握りしめた左手には、今その役割を果たしていたプラチナの指輪が光っている。それを右手の人差し指と中指と親指で挟んで摩っていた。  これはダイヤのピアス同様に、大切な役割を持った治療器具なのだ。 「あの、優希さん。大丈夫ですか?」  優希が微動だにしなくなったので、リョウは声をかけながら、一歩踏み出した。リョウが近づいて来たため、優希はそれを制するように、ゆっくりと柔らかくリョウに微笑んで見せた。 「大丈夫だよ、リョウ。僕、病院に行ってくるよ。救急車まだいるんでしょ? パートナーシップ宣誓都市で暮らす事を決めてくれたサトルに感謝しないとね。緊急時、パートナーとして救急車に同乗させてもらえるんだから」  そんな軽口をききながらも少しふらついている優希を、リョウはそっと支えた。 ——大丈夫だ。リョウに触れても何も起きないはずだ、優希。  優希もそう感じたようで、やや安心したのだろう。よろめきながらも救急車の待つ裏口へと、リョウに連れられて向かっていった。  俺はその後ろ姿を見送りながら、声をかけた。 「優希。さっきよく耐えたな。きっとサトルが褒めてくれるよ」  俺の言葉を聞いて、優希は少し悲しげな笑みを浮かべると、そのまま救急車に同乗し、病院へと向かった。

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