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第16話 13年分の愛を

ヒューゴのPC画面に、競技トラックの全景が映し出される。周囲はざわついていて、なにかの競技大会なのは明らかだ。 カメラは徐々にズームし、何かを探すようにグラウンドをゆっくり移動し始める。 見て取れるのは、走高跳、走幅跳、砲丸投、棒高跳……陸上のフィールド競技の大会らしい。 そこで、「Hugo!」と突然大声が入っておれは思わず肩をすくめた。撮影者がマイクに近い位置で大声を出したせいだ。 発音から、日本人でないことは明確だった。 カメラが素早く右に向くと、グレーのパーカーを着た長身の男の子が着席しようとしているところだった。フードを深く被っているが、見事な金髪と、澄んだ青い瞳は隠しきれていない。 「Don't」と短く制止する別の声。 おれは絵に書いたような美少年っぷりをからかいたくなる衝動を抑えて、動画を静観することにした。 「Don't shoot me」 カメラのレンズを手で覆ったのか一瞬真っ暗になり、映像は再びトラックへと戻った。 今よりも少しだけ高いトーンで端々がかすれているが、間違いなくヒューゴの声だ。 画面に映し出される映像は、見る側への配慮はお構いなしにどんどん競技トラック上の各種目を映し出していく。 「...there he is」 撮影者がそう言ったところでカメラは止まり、徐々にピントが合わされていく。 そこでは、棒高跳の競技が行われていて……ちょっと待て、この大会は…… おれは突然、会場の熱気を感じるくらいありありと思い出した。 たしか2回目は足がポールに微かに接触してギリギリのところで失敗したんだ。3回目は成功。 映し出されている時はその3回目のはずだ。スタートラインへと向かう自分の顔から、緊張が見て取れる。 カメラが再び右にパンされると、ヒューゴは顔の前で両手を組んで祈るように、トラックを見つめている。その横顔は、おれよりもずっと緊張した面持ちだ。 映像はそのままヒューゴの横顔を映し出していたが、ワッと観客の歓声が上がる。 ホゥっと大きなため息に続いて組んだ手を額に当てると、「...'s beautiful」とヒューゴが呟いた。 「heard that for millions of times!」 カメラマンは笑ったがすぐに少し沈黙し、「you know, you should... we're leaving...」小声でヒューゴに何か伝えている。 ヒューゴはそこで初めて一瞬だけカメラに目線をやると再びトラックの方へ視線を戻し「I know」と強い口調で言った。 映像はそこで止まった。 「高校、一緒だったんだよ。半年だけ」 そう言いながらヒューゴは夜のバルコニーへ出ていった。おれが後を追うと、カチリとタバコに火をつけて、仕草だけで「吸う?」と聞いてくる。 「初めて人に観せた。もし、透と再会することがあったら一緒に観ようって、夢みたいなこと、一人で決めてたんだ。名前も連絡先も知らないのにね」 バルコニーの手すりを背にしたヒューゴの後ろには夏の夜が広がり、その瞳のきらめきがまるで星の一つのようだ。 「僕は……辛くてね、日本に戻ってきたのに、もう日本人として振る舞えなくて、でも数年じゃスウェーデンに馴染みきれてもいない。自分が中途半端で。アイデンティが崩壊してたんだと思う。ずっと日本に居させてくれなかった親を恨んだりして。 交換留学生がクラスに1人はいただろ?僕ら全員、日本語の基礎クラスが必須で、でも僕には必要ないから嫌気が差してね、教室の窓からずっと校庭を見ていたんだ。 そうしたら、ちょうど棒高跳びの練習風景が良く見えて」 ヒューゴは一拍置いて、再び煙を吐き出した。辛い思い出だろうに、笑顔で。 おれは、微かに震えているヒューゴの長い指からタバコを受け取って、口を付けて一吸いだけしてからもみ消した。 「ずっと跳べないコがいてね。毎日見ているうちに、いつ跳べるのか僕も気になり始めて。日本語クラスが無いときも、週末も見学するようになったんだ。そうしたら、何時間も、何日も、ずっと練習していて……失敗しても笑顔で、いつも瑞々しくて、絶対に諦めない意思が鮮烈だった。 その姿がね、僕の腐った思考を徐々に断ち切ってくれたんだ。僕は一体何をやっているんだろうと。日本留学までさせてもらってるのに、自分のあり方の問題を周囲のせいにして、不満だらけの自分が……ものすごく情けなくて。 もう、どっちかでいようなんてこだわりは捨てて、僕は僕のままで、持っているものを磨こうと思えるようになったんだ。 僕の中にあるヨーロッパの要素も、記憶の中の日本の要素も、どちらも等しく大切なものであることに気付いた。そうして、僕はどんどん彼から目が離せなくなった。 帰国の数日前、いつものように練習風景を眺めていたら、突然、その彼がね、ポールを飛び越えて、飛んだんだ。まるでツバメのように、高く。校舎から見える水平線と同じ高さで、ちょうどトワイライトの頃、終わりも始まりもないような空間で、彼だけが宙に舞っていて……その笑顔を見た時、僕は……一瞬で恋に落ちた。透は綺麗だ。だれよりも」 「ヒューゴ」 「結局、透に話しかける勇気がないまま、あの映像の日の午後に帰国した。勇気が出なかった自分に、また付属の大学に留学しにくれば会えると言い訳して、高を括ってたのが失敗だったな。まさか、あんな酷い怪我で引退していたとは……」 空に落ちるような感覚の虜になっていた。 あの日、おれはより高く跳ぼうと…… 悔しかった。 怪我を起こした自分の身体能力が恨めしかった。 何のために10代の全てを捨てて努力してきたのか。 1度の怪我で全て失うなんて、そんなバカな話があってたまるか。 何も残せなかった。悔しくて、情けなくて、足を切断してやりたいほど腹が立った。 でも周囲には大したことないような素振りをして、平気なふりをして学校も変えて。 すぐ立ち直ったよ、なんて自分を騙して。 「あの跳躍と、透の強い精神力は僕の身であり、骨になった」 おれはヒューゴにすがりついた。 どんなに抑えようとしてもこぼれてくるおれの涙をシャツで受け止めながら、そっと背中を撫でてくれる。 「僕が全部覚えている。透は、この世で最も美しくて尊い」 見てくれている人がいたなんて。 「ヒューゴ……」 「とは言え、再会してからの透の方がもっと素敵だよ。お腹を空かせて、僕が作った料理を本当に美味しそうに食べる姿がかわいくてね。僕はまた、透に惚れてしまった。どうしようもないほど」 おれは泣き笑いで、もう一度この愛しい男の名前を呼んだ。 「透、僕を見つけてくれてありがとう」

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